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先進第十一 6 季康子問弟子孰爲好學章

259(11-06)
季康子問、弟子孰爲好學。孔子對曰、有顏回者、好學。不幸短命死矣。今也則亡。
こうう、ていたれがくこのむとす。こうこたえていわく、顔回がんかいなるものり、がくこのめり。こう短命たんめいにしてせり。いますなわし。
現代語訳
  • (家老の)季康さんがきく ―― 「お弟子でだれが学問ずきです…。」孔先生の答え ―― 「顔回というのが学問ずきでした。気のどくに若死にしました。いまはもうおりません。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 季康子が「門人中だれが学問が好きですか。」とたずねた。孔子様が答えられるよう、「顔回という者があって、学問好きでありましたが、不幸にも短命でなくなり、今はもうおりません。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 大夫の季康子がたずねた。――
    「お弟子のうちで、だれが学問の好きな人でしょう」
    先師がこたえられた。――
    「顔回というものがおりまして、学問が好きでございましたが、不幸にして若くて死にました。もうこの世にはおりません」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • この章は「雍也第六2」の前半にほぼ重出。
  • 季康子 … 魯の国の大夫、季孫氏。名は肥、康は諡号。父・季桓子の後を継ぎ、筆頭家老となったのは孔子六十歳頃であったと言われている。ウィキペディア【三桓氏】参照。
  • 弟子 … 「ていし」と読む。でし。門弟。
  • 孰為好学 … 「たれがくこのむとす」と読む。「す」は「みなす、思う」の意。「誰を学問好きと思いますか」と訳す。
  • 対曰 … 目上の人に答えるときに用いる。
  • 顔回 … 前521~前490。孔子の第一の弟子。姓は顔、名は回。あざなえんであるので顔淵とも呼ばれた。の人。徳行第一といわれた。孔子より三十歳年少。早世し孔子を大いに嘆かせた。孔門十哲のひとり。ウィキペディア【顔回】参照。
  • 有顔回者 … 「顔回がんかいなるものり」と読む。「有~者」は、「~なるものあり」と読み、「~という人がいて」と訳す。
  • 不幸短命死矣 … 「こう短命たんめいにしてせり」と読む。「不幸にも短命で死んでしまいました」と訳す。「矣」は文末につけて断定をあらわす。訓読しない。
  • 今也則亡 … 「いますなわし」と読み、「今はもうこの世におりません」と訳す。「也」は「や」と読み、「~は」と訳す。
補説
  • 『注疏』に「此の章は顔回の好学を称するなり」(此章稱顏回之好學也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『集解』には、この章の注なし。
  • 季康子問、弟子孰為好学。孔子対曰、有顔回者、好学。不幸短命死矣。今也則亡 … 『義疏』に「孫綽云う、応に生くべからずして生くるを幸と為し、応に死すべからずして死するを不幸と曰う、と。侃謂えらく、此れ哀公と問うこと同じうして、答うること異なる者なり、と。と二通り有り。一に云う、哀公の怒りを遷す、過ちをふたたびするの事有るに縁る。故に孔子答うるに因りて以て之を箴するなり。康子此の事無し。故に煩言せざるなり、と。又た一に云う、哀公は是れ君の尊、故に須らくつぶさに答うべし。而るに康子は是れ臣、卑たり。故に略して以て相こたうるなり、と。故に江熙云う、此れ哀公問うと同じ。哀公以て賞する無しと雖も、以て極対するを要す。康子に至りては則ち其の及ぶ所を量りて答う可きなり、と」(孫綽云、不應生而生爲幸、不應死而死曰不幸。侃謂、此與哀公問同、而答異者。舊有二通。一云、緣哀公有遷怒貳過之事。故孔子因答以箴之也。康子無此事。故不煩言也。又一云、哀公是君之尊、故須具答。而康子是臣爲卑。故略以相酬也。故江熙云、此與哀公問同。哀公雖無以賞、要以極對。至於康子則可量其所及而答也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「季康子は、魯の執政の大夫なり。故に氏を言い対と称す。此れと哀公問うとは同じくして答えの異なるは、哀公は怒りを遷し過ちをふたたびするを以て、故に答うるに因りて以て之を諫む。康子は之れ無し、故に云わざるなり」(季康子、魯執政大夫。故言氏稱對。此與哀公問同而答異者、以哀公遷怒貳過、故因答以諫之。康子無之、故不云也)とある。
  • 顔回(顔淵) … 『史記』仲尼弟子列伝に「顔回は、魯の人なり。あざなは子淵。孔子よりもわかきこと三十歳」(顏回者、魯人也。字子淵。少孔子三十歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「顔回は魯人、字は子淵。孔子より少きこと三十歳。年二十九にして髪白く、三十一にして早く死す。孔子曰く、吾に回有りてより、門人日〻益〻親しむ、と。回、徳行を以て名を著す。孔子其の仁なるを称う」(顏回魯人、字子淵。少孔子三十歳。年二十九而髮白、三十一早死。孔子曰、自吾有回、門人日益親。回以德行著名。孔子稱其仁焉)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。
  • 『集注』に引く范祖禹の注に「哀公、康子の問うこと同じくしてこたうるに詳略有るは、臣の君に告ぐるは、尽くさざる可からざるも、康子の若きは、必ず其の能く問うを待ちて乃ち之に告ぐ。此れ教誨の道なり」(哀公康子問同而對有詳略者、臣之告君、不可不盡、若康子者、必待其能問乃告之。此教誨之道也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「詳らかに前篇哀公問うの章を見る」(詳見前篇哀公問章)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「哀公・康子問うこと同じうしてこたうること詳略有るは、古えの道なり。……朱子曰く、必ず其の能く問うを待ちて乃ち之に告ぐ。此れ教誨の道なり、と。此れ誠に然り。然れども孔子は古えの道を行う者なり。古えの道は是れ問わずして、いつこれを孔子に帰す。孔子を知らざる者なり」(哀公康子問同而對有詳畧、古之道也。……朱子曰、必待其能問乃告之。此教誨之道也。此誠然。然孔子行古之道者也。古之道是不問、一歸諸孔子。不知孔子者也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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