>   論語   >   郷党第十   >   15

郷党第十 15 朋友死章

250(10-15)
朋友死、無所歸、曰、於我殯。朋友之饋、雖車馬、非祭肉不拜。
朋友ほうゆうして、するところければ、いわく、われいてひんせよ、と。朋友ほうゆうおくりものは、しゃいえども、祭肉さいにくあらざればはいせず。
現代語訳
  • 友だちが死んで、ひきとり手がないと、 ―― 「わたしがあずかりましょう。」友だちのおくり物は、車や馬であっても、おそなえ肉でなければ、おしいただかない。(がえり善雄『論語新訳』)
  • 友人が死んでこの土地にがいを引取るべき親類のない場合には、わしの所で「かりもがり」を引受けよう、と申し出た。朋友ほうゆうからおくりものがあった時には、友達のあいだがらのことだから、車馬のような高価な贈物でも、祭のもつの肉の場合の外は、拝礼をしない。(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先生は、友人が死んで遺骸の引取り手がないと、「私のうちで仮入棺をさせよう」といわれる。
    先生は、友人からの贈物だと、それが車馬のような高価なものでも、拝して受けられることはない。ただ拝して受けられるのは、祭の供物にした肉の場合だけである。(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 朋友 … 友人。
  • 無所帰 … ここでは遺骸の引き取り手がないこと。
  • 殯 … かりもがり。埋葬する前に、しばらくの間死体を棺に納めたまま安置する。
  • 饋 … 贈り物。
  • 雖車馬 … 車や馬のような高価な贈り物でも。
  • 祭肉 … 友人の家で行われた先祖の祭りにお供えした肉。祭りが済んでお下がりの肉を親類縁者や友人に贈る習慣があったらしい。
  • 不拝 … 拝礼されなかった。日本人の感覚とは違い、頂戴しても謝意を表しないということ。
補説
  • 『注疏』では「朋友死、無所歸、曰、於我殯」を本章とし、「此れ孔子の朋友の恩を重んずるを明らかにするなり」(此明孔子重朋友之恩也)とある。また「朋友之饋、雖車馬、非祭肉不拜」を次章とし、「此れ孔子の財を軽んじ祭を重んずるの礼を言うなり」(此言孔子輕財重祭之禮也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 朋友死、無所帰、曰、於我殯 … 『集解』に引く孔安国の注に「朋友の恩を重んずるなり。帰する所無きは、親昵しんじつ無ければなり」(重朋友之恩也。無所歸、無親昵也)とある。親昵は、親しく仲のよい人。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「殯は、喪を寝に停して以て葬を待つを謂うなり。時に孔子朋友有り。既に孔子の家に在りて死す。而して此の朋友親情もて来たり、はしりて喪する者無し。故に云う、帰する所無し、と。既に未だ帰する所有らず。故に曰く、我が家に於いて殯せよ、と」(殯、謂停喪於寢以待葬也。時孔子有朋友。旣在孔子之家死。而此朋友無親情來奔喪者。故云、無所歸也。旣未有所歸。故曰、於我家殯也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「言うこころは朋友若し死して、更に親昵しんじつの帰す可きこと無きときは、孔子則ち曰く、我に於いて殯せよ、と。之がために喪主と為るなり」(言朋友若死、更無親昵可歸、孔子則曰、於我殯。與之爲喪主也)とある。また『集注』に「朋友は義を以て合す。死して帰する所無ければ、殯せざるを得ず」(朋友以義合。死無所歸、不得不殯)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 朋友之饋、雖車馬、非祭肉不拝 … 『集解』に引く孔安国の注に「拝せずとは、財を通ずるの義有ればなり」(不拜者、有通財之義也)とある。また『義疏』に「朋友物有りておくらるるを謂うなり。車馬・家財は之れ大なる者なり。朋友は財に通ずるの義有り。故に復た車馬を餉らるるを雖も、我拝謝せざるなり。拝す可き所の者は、朋友其の家の祭肉を餉らるるが若きは、小なりと雖も、亦た之を拝受す。祭を敬するなり。故に云う、車馬と雖も、祭肉に非ざれば拝せず、と」(謂朋友有物見餉也。車馬家財之大者也。朋友有通財之義。故雖復見餉車馬、而我不拜謝也。所可拜者、若朋友見餉其家之祭肉、雖小、亦拜受之。敬祭也。故云、雖車馬、非祭肉不拜也)とある。また『注疏』に「朋友には財を通ずるの義有り、故に其の饋遺きいの物、是れ車馬と雖も、若し祭肉に非ずんば、之を拝謝せず。言うこころは其の祭肉は則ち之を拝し、神恵を尊ぶなり」(朋友有通財之義、故其饋遺之物、雖是車馬、若非祭肉、不拜謝之。言其祭肉則拜之、尊神惠也)とある。また『集注』に「朋友は、財を通ずるの義有り。故に車馬の重きと雖も拝せず。祭肉は則ち拝すとは、其の祖考を敬すること、己が親と同じければなり」(朋友有通財之義。故雖車馬之重不拜。祭肉則拜者、敬其祖考、同於己親也)とある。
  • 『集注』に「此の一節は、孔子の朋友と交わるの義を記す」(此一節、記孔子交朋友之義)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』はこの章を第十一章とし、「右は孔子朋友に交わるの義を記す」(右記孔子交朋友之義)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「朋友死して帰する所無ければとは、朋遠方より来たる者を謂うなり。の邦の人、必ず親戚有り、古人は必ず其のきょうに帰葬す。……故に此れ葬と曰わずしてひんと曰うなり。……朋友のおくりものは、車馬と雖も祭肉に非ざれば拝せず。朱註に、其の祖考を敬して、己が親に同じうすと。非なり。神を敬するなり。何となれば、妻と雖も、祭るには必ず拝す。祭は必ず唯だ祖考のみならんや」(朋友死無所歸、謂朋自遠方來者也。斯邦之人、必有親戚也、古人必歸葬其郷。……故此不曰葬而曰殯也。……朋友之饋、雖車馬非祭肉不拜。朱註、敬其祖考、同於己親也。非矣。敬神也。何則、雖妻祭必拜也。祭必唯祖考已哉)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十