子路第十三 28 子路問曰何如斯可謂之士矣章
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子路問曰、何如斯可謂之士矣。子曰、切切偲偲怡怡如也、可謂士矣。朋友切切偲偲、兄弟怡怡。
子路問曰、何如斯可謂之士矣。子曰、切切偲偲怡怡如也、可謂士矣。朋友切切偲偲、兄弟怡怡。
子路問いて曰く、何如なるを斯れ之を士と謂う可きか。子曰く、切切偲偲怡怡如たるを、士と謂う可し。朋友には切切偲偲、兄弟には怡怡たり。
現代語訳
- 子路がたずねる、「どんなだったら一人まえの人といえますか。」先生 ――「しん身に、おこたらずに、心たのしくやれたら、一人まえの人といえるね。友だちには、しん身に、おこたらず、きょうだいとは心たのしく。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 子路が、「どういうのを士と申すべきでしょうか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「切切すなわち『ねんごろにゆきとどく』こと、偲偲すなわち『つまびらかにつとめはげます』こと、怡怡すなわち『やわらぎよろこぶ』こと、この三つがそろってはじめて士といえる。朋友には切切偲偲じゃぞよ。兄弟には怡怡じゃぞよ。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 子路がたずねた。――
「どういう人物を士というのでございましょう」
先師がこたえられた。――
「こまやかな情愛、かゆいところに手のとどくような親切心、春風のようにやわらかで温かい物ごし、そうしたものが士にはそなわっていなければならない。とりわけ朋友に対しては情をこまやかにして、懇切に交わるがいいし、兄弟に対しては顔色をやわらげることに気をつけるがいい」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 子路 … 前542~前480。姓は仲、名は由。字は子路、または季路。魯の卞の人。孔門十哲のひとり。孔子より九歳年下。門人中最年長者。政治的才能があり、また正義感が強く武勇にも優れていた。ウィキペディア【子路】参照。
- 士 … 本来は卿・大夫・士の士で、中堅の役人層を指すが、ここでは、志のある立派な人の意。
- 切切 … 懇切。親切。
- 偲偲 … 励ます。
- 怡怡 … 穏やかに親しむさま。
- 如 … 「~という様子」の意。ここの「如」は「怡怡」だけでなく、「切切偲偲怡怡」全体にかかる。
- 朋友 … 友人。
- 兄弟 … 「けいてい」と読む。
補説
- 『注疏』に「此の章は士の行いを明らかにするなり」(此章明士行也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 子路 … 『孔子家語』七十二弟子解に「仲由は卞人、字は子路。一の字は季路。孔子より少きこと九歳。勇力才芸有り。政事を以て名を著す。人と為り果烈にして剛直。性、鄙にして変通に達せず。衛に仕えて大夫と為る。蒯聵と其の子輒と国を争うに遇う。子路遂に輒の難に死す。孔子之を痛む。曰く、吾、由有りてより、悪言耳に入らず、と」(仲由卞人、字子路。一字季路。少孔子九歳。有勇力才藝。以政事著名。爲人果烈而剛直。性鄙而不達於變通。仕衞爲大夫。遇蒯聵與其子輒爭國。子路遂死輒難。孔子痛之。曰、自吾有由、而惡言不入於耳)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「仲由、字は子路、卞の人なり。孔子よりも少きこと九歳。子路性鄙しく、勇力を好み、志伉直にして、雄鶏を冠し、豭豚を佩び、孔子を陵暴す。孔子、礼を設け、稍く子路を誘う。子路、後に儒服して質を委し、門人に因りて弟子たるを請う」(仲由字子路、卞人也。少孔子九歳。子路性鄙、好勇力、志伉直、冠雄鷄、佩豭豚、陵暴孔子。孔子設禮、稍誘子路。子路後儒服委質、因門人請爲弟子)とある。伉直は、心が強くて素直なこと。豭豚は、オスの豚の皮を剣の飾りにしたもの。委質は、はじめて仕官すること。ここでは孔子に弟子入りすること。ウィキソース「史記/卷067」参照。
- 何如斯可謂之士矣 … 『義疏』に「士たるの行いの和悦、切磋の道なるを問うなり」(問爲士之行和悦、切磋之道也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「士の行いの何如なるかを問うなり」(問士之行何如也)とある。
- 切切偲偲、怡怡如也、可謂士矣 … 『集解』に引く馬融の注に「切切偲偲は、相切責するの貌なり。怡怡は、和順の貌なり」(切切偲偲、相切責之貌也。怡怡、和順之貌也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「答うるなり。切切偲偲は、相切磋するの貌なり。怡怡は、和従の貌なり。言うこころは士たるの法、必ず須らく切磋有るべく、又た須らく和従なるべし」(答也。切切偲偲、相切磋之貌也。怡怡、和從之貌也。言爲士之法、必須有切磋、又須和從也)とある。また『注疏』に「此れ士の行いを答うるなり」(此荅士行也)とある。また『集注』に引く胡寅の注に「切切は、懇到なり。偲偲は、詳勉なり。怡怡は、和悦なり。皆子路の足らざる所、故に之に告ぐ」(切切、懇到也。偲偲、詳勉也。怡怡、和悅也。皆子路所不足、故告之)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 朋友切切偲偲、兄弟怡怡 … 『義疏』に「向の答え合すと雖も、怡怡の三事を云う。而して専らには一人に施す可からず。故に更に之を分かつなり。是くの若く朋友の義相益すに在り。故に須らく切偲すべきなり。兄弟骨肉の理は和順に在り。故に須らく怡怡如たるべきなり。繆協云う、以為えらく朋友は唯だ切磋するのみならず、亦た和諧を貴ぶ、兄弟は但だ怡怡たるのみに非ず、亦た戒厲を須うと。然れども友道欠くるときは、則ち面朋にして怨みを匿す、兄弟の道欠くるときは、則ち牆に鬩いで外侮る。何となれば憂楽本と殊なり、故に重弊恨匿に至る。将に之を矯さんと欲す、故に云う、朋友には切切偲偲、兄弟には怡怡如たり、と。切切偲偲は、相切責するの貌なり。怡怡は、和順の貌なり」(向答雖合、云怡怡三事。而不可專施一人。故更分之也。若是朋友義在相益。故須切偲也。兄弟骨肉理在和順。故須怡怡如也。繆協云、以爲朋友不唯切磋、亦貴和諧、兄弟非但怡怡、亦須戒厲。然朋友道缺、則面朋而匿怨、兄弟道缺、則鬩牆而外侮。何者憂樂本殊、故重弊至于恨匿。將欲矯之、故云朋友切切偲偲、兄弟怡怡如也。切切偲偲、相切責之貌也。怡怡、和順之貌也)とある。また『注疏』に「此れ其の施す所を覆明するなり。切切偲偲は、相切責するの貌なり。朋友は道義を以て切瑳琢磨す、故に朋友に施すなり。怡怡は、和順の貌なり。兄弟は天倫なれば、当に相友恭すべし、故に怡怡は兄弟に施すなり」(此覆明其所施也。切切偲偲、相切責之貌。朋友以道義切瑳琢磨、故施於朋友也。怡怡、和順之貌。兄弟天倫、當相友恭、故怡怡施於兄弟也)とある。また『集注』に引く胡寅の注に「又た其の施す所を混ずれば、則ち兄弟には恩を賊うの禍有り、朋友には善柔の損有るを恐る。故に又た別ちて之を言う」(又恐其混於所施、則兄弟有賊恩之禍、朋友有善柔之損。故又別而言之)とある。
- 兄弟怡怡 … 『義疏』では「兄弟怡怡如也」に作る。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「此の三者は皆忠愛の意有り。蓋し士の行いは、一を以て尽くす可からずと雖も、然れども忠愛を以て本と為す」(此三者皆有忠愛之意。蓋士之行、雖不可以一盡、然以忠愛爲本)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「則ち聖人の教えは仁を尚ぶ、仁とは相生じ相長じ相養い相育するの道なり、学んで徳を成し、然る後以て民に臨む可し、故に仁は必ず修身を以て本と為す。威儀は徳の符なり。故に君子は其の容を慎む。祗だ士は未だ以て民に臨む可からざるなり。故に朋友兄弟を以て之を言う。由や喭と。未だ其の容を失するを免れず。故に特に此を以て之に告ぐ」(則聖人之教尚仁、仁者相生相長相養相育之道也、學而成德、然後可以臨民、故仁必以脩身爲本。威儀德之符也。故君子愼其容。祗士未可以臨民也。故以朋友兄弟言之。由也喭。未免失其容焉。故特以此告之)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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