>   論語   >   学而第一   >   4

学而第一 4 曾子曰吾日三省吾身章

004(01-04)
曾子曰、吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎。
そういわく、われたびかえりみる。ひとためはかりてちゅうならざるか。朋友ほうゆうまじわりてしんならざるか。ならわざるをつたうるか。
現代語訳
  • 曽(ソウ)先生 ――「毎日ふりかえることが三つ。人にまごころをつくしたか。友だちにすまないことはないか。教えは身についているか。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 曾参そうしんが言うよう、「私は毎日何度となく、人の世話をしながら親切しんせつりないことがなかっただろうか、友達ともだちづきあいに信義に欠けたことはなかっただろうか、先生から教わったことをまだ十分身につかぬうちに人に受売りしたことはなかっただろうかと、わが身にたちかえって思い合わせてみる。そしてもしさような欠点があったらさっそく改めるように心がける。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • そう先生がいわれた。――
    「私は、毎日、つぎの三つのことについて反省することにしている。その第一は、人のために謀ってやるのに全力をつくさなかったのではないか、ということであり、その第二は、友人との交りにおいて信義にそむくことはなかったか、ということであり、そしてその第三は、自分でまだ実践できるほど身についていないことを人に伝えているのではないか、ということである」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 曾子 … 姓はそう、名はしんあざな子輿しよ。魯の人。孔子より四十六歳年少の門人。『孝経』を著した。ウィキペディア【曾子】参照。
  • 三省 … 何度もよく反省すること。「三」は、何度もの意。
  • 謀 … 相談に乗る。世話をする。
  • 忠 … 真心を尽くす。誠意を尽くす。
  • 朋友 … 友人。
  • 信 … 信義に欠けないこと。誠実に対応すること。嘘をつかないこと。約束に背かないこと。
  • 習 … 習熟する。
  • 伝 … 教える。
補説
  • 『注疏』に「此の章は曾子の身を省み行いを慎むの事を論ず」(此章論曾子省身愼行之事)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 曾子 … 『孔子家語』七十二弟子解に「曾参は南武城の人、あざなは子輿。孔子よりわかきこと四十六歳。志孝道に存す。故に孔子之に因りて以て孝経を作る」(曾參南武城人、字子輿。少孔子四十六歳。志存孝道。故孔子因之以作孝經)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「曾参は南武城の人。字は子輿。孔子より少きこと四十六歳。孔子以為おもえらく能く孝道に通ずと。故に之に業を授け、孝経を作る。魯に死せり」(曾參南武城人。字子輿。少孔子四十六歳。孔子以爲能通孝道。故授之業、作孝經。死於魯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『集解』に引く馬融の注に「弟子の曾参なり」(弟子曾參也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「蓋し姓は曾、名は参、字は子輿」(盖姓曾、名參、字子輿)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「曾子は、孔子の弟子、名は参、字は子輿」(曾子、孔子弟子、名參、字子輿)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 吾日三省吾身 … 『義疏』に「省は視なり。曾子言う、我れ生平戒慎すること、一日の中毎に、三過、自ら我が身に過失有りや否やを視察するなり」(省視也。曾子言、我生平戒愼、每一日之中、三過自視察我身有過失否也)とある。
  • 為人謀而不忠乎 … 『義疏』に「忠は、中なり。言うこころは他人の為に事をぼうし、当に我が中心を尽くすべきなり。豈に心にして忠を尽くさざる可けんや。三省してつまびらかなることを観る所以は、失を恐るればなり」(忠、中也。言爲他人圖謀事、當盡我中心也。豈可心而不盡忠乎。所以三省觀審、恐失也)とある。また『集注』に「己を尽くすを之れ忠と謂う」(盡己之謂忠)とある。
  • 与朋友交而不信乎 … 『義疏』に「朋友の交わり合うこと、と主として信に在り、豈に人と交わりて信を為さざる可けんや」(朋友交合、本主在於信、豈可與人交而不爲信乎)とある。また『集注』に「実を以てするを之れ信と謂う」(以實之謂信)とある。
  • 與朋友交而不信乎 … 『義疏』では「與朋友交言而不信乎」に作る。「朋友と交わり言いて信ならざるか」と訓読する。
  • 与朋友交而不信乎。伝不習乎 … 『集解』の何晏の注に「言うこころは凡そ伝うる所の事は、素より講習せずして伝うる無きを得んか」(言凡所傳之事、得無素不講習而傳乎)とある。また『義疏』に「凡そ伝述する所有れば、皆必ず先ず習い、後乃ち伝う可し。豈に先ず習うを経ずして、妄りに之を伝う可けんや。曾子言う、我一日の中に、毎にたび自ら視る、況んや復た凡人此の三事を為さざる可けんや。言は不可なり。又た一通に云う、曾子言う、我一日の中に、たび内に我が身を視る此の三行有りや否や、と」(凡有所傳述、皆必先習、後乃可傳。豈可不經先習、而妄傳之乎。曾子言、我一日之中、毎三過自視、況復凡人可不爲此三事乎。言不可也。又一通云、曾子言、我一日之中、三過内視我身有此三行否也)とある。また『集注』に「伝えらるとは、之を師より受くるを謂う。習うは、之を己に熟するを謂う」(傳、謂受之於師。習、謂熟之於己)とある。朱子はここで「伝」を、道統(儒教の教えを伝えた系統)の伝と解釈している。
  • 伝不習乎 … 後藤点(後藤芝山のつけた訓点)では「伝えて習わざるか」、道春点(林羅山のつけた訓点)では「伝わりて習わざるか」と訓読する。
  • 『注疏』に「弟子の曾参嘗て曰く、吾れ毎日三たび自ら己の身を省察す。人の為に事を謀りて、忠心を尽くさざること無きを得たるか。朋友と交わりを結びて、誠信ならざる無きことを得たるか。凡そ伝授する所の事、素より講習せずして妄りに伝うること無きを得たるか。謀には忠を尽くすを貴び、朋友には信を主とし、伝には穿鑿を悪むを以て、故に曾子省みて之を慎む」(弟子曾參嘗曰、吾毎日三自省察己身。爲人謀事、而得無不盡忠心乎。與朋友結交、而得無不誠信乎。凡所傳授之事、得無素不講習而妄傳乎。以謀貴盡忠、朋友主信、傳惡穿鑿、故曾子省愼之)とある。
  • 『集注』に「曾子は此の三者を以て、日〻其の身を省み、有れば則ち之を改め、無ければ則ち加〻ますます勉む。其の自ら治むるの誠切なること此くの如し。学を為すの本を得たりと謂う可し。而して三者の序は、則ち又た忠信を以て伝習の本と為すなり」(曾子以此三者、日省其身、有則改之、無則加勉。其自治誠切如此。可謂得爲學之本矣。而三者之序、則又以忠信爲傳習之本也)とある。
  • 『集注』に引く尹焞の注に「曾子は守ること約、故に動けば必ずこれを身に求む」(曾子守約、故動必求諸身)とある。
  • 『集注』に引く謝良佐の注に「諸子の学は、皆聖人より出ず。其の後愈〻いよいよ遠くして、愈〻其の真を失う。独り曾子の学のみ、専ら心を内に用う。故に之を伝うるも弊無し。子思、孟子を観れば見る可し。惜しいかな、其の嘉言善行、ことごとくは世に伝わらず。其の幸いに存して未だほろびざる者は、学者其れ心をくさざる可けんや」(諸子之學、皆出於聖人。其後愈遠、而愈失其眞。獨曾子之學、專用心於内。故傳之無弊。觀於子思孟子可見矣。惜乎其嘉言善行、不盡傳於世也。其幸存而未泯者、學者其可不盡心乎)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「三省は、三復、三令の類の如し。丁寧反復して其の身を省みるなり。凡そ三の字句首に在る者は、三次の義たり。……何氏曰く、習わざるを伝うるかとは、言うこころは凡そ伝授する所の事、素より講習せずして妄りに伝うること無きを得ん、と」(三省、如三復三令之類。丁寧反復而省其身也。凡三字在句首者、爲三次之義。……何氏曰、傳不習乎、言凡所傳授之事、得無素不講習而妄傳乎)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「殊に知らず、曾子はだ人の為に謀り朋友と交わる者を以て之を言い、初めより宋儒の心学の深きを務むる者の比の如きに非ざることを。蓋し先王の道は、天下を安んずるの道なり。……朱子曰く、伝は之を師に受くるを謂い、習は之を己に熟するを謂う、と。是れ伝を解すること学の如くせり。大氐たいてい伝は之を師に属す可くして、之を弟子に属す可からざるなり。人の為に謀り、朋友と言う。皆我を以て之を言う。伝は独り我に属せず。可ならんや。仁斎先生の之をばくするは当れりと為す」(殊不知、曾子止以爲人謀與朋友交者言之、初非如宋儒心學務深者比也。蓋先王之道、安天下之道也。……朱子曰、傳謂受之於師、習謂熟之於己。是解傳如學。大氐傳可屬之師、而不可屬之弟子也。爲人謀、與朋友言。皆以我言之。傳獨可屬我。可乎。仁齋先生駁之爲當)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十