述而第七 17 子所雅言詩書章
164(07-17)
〔集解〕 子所雅言、詩書。執禮皆雅言也。
〔集注〕 子所雅言、詩書執禮。皆雅言也。
〔集解〕 子所雅言、詩書。執禮皆雅言也。
〔集注〕 子所雅言、詩書執禮。皆雅言也。
〔集解〕 子の雅言する所は、詩・書。礼を執るも皆雅言なり。
〔集注〕 子の雅に言う所は、詩・書・執礼。皆雅に言うなり。
〔集注〕 子の雅に言う所は、詩・書・執礼。皆雅に言うなり。
現代語訳
- 先生のいつもいわれるのは、詩と、歴史と、お作法。これはいつもいわれた。(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様が常に語られたところは、詩と歴史と実践礼、これらを常に言われた。(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師が毎日語られることは、詩・書・執礼の三つである。この三つだけは実際毎日語られる。(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
補説
- 『注疏』に「此の章は孔子の其の音を正言して、諱避する所の事無きを記す」(此章記孔子正言其音、無所諱避之事)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 所雅言 … 『集解』に引く孔安国の注に「雅言は、正言なり」(雅言、正言也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「子は、孔子なり。雅は、正なり。孔子平生書を読むに、皆之を正言するを謂う。私に避諱する所を為さざるなり」(子、孔子也。雅、正也。謂孔子平生讀書、皆正言之。不爲私所避諱也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「雅は、正なり」(雅、正也)とある。また『集注』に「雅は、常なり」(雅、常也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 詩書。執礼皆雅言也 … 『集解』に引く鄭玄の注に「先王の典法を読むに、必ず其の音を正言し、然る後に義全し。故に諱む所有る可からざるなり。礼は誦せず、故に執と言うなり」(讀先王典法、必正言其音、然後義全。故不可有所諱也。禮不誦、故言執也)とある。また『義疏』に「此れは是れ諱まざる所の書なり。詩及び書・礼は、皆之を正言するなり。六籍は皆正言す。独り詩・書・礼のみを云えるは、一隅を挙げて余の三隅反す可きなり。故に顧歓曰く、夫れ網を引くんば綱を尋ね、裘を振るには領を提く、正に此の三を言う、則ち典として統べざること靡し、と」(此是所不諱之書也。詩及書禮、皆正言之也。六籍皆正言。獨云詩書禮者、舉一隅餘三隅可反也。故顧歡曰、夫引網尋綱、振裘提領、正言此三、則靡典不統矣)とある。また『注疏』に「子の正言する所の者は、詩・書・礼なり。此の三者は、先王の典法なり。文に臨みて教え学ぶとき、之を読むに必ず其の音を正言し、然る後に義は全し、故に諱む所有る可からず。礼は皆は文誦せず、但だ其の揖譲周旋を記して、執りて之を行う、故に執と言うなり。此の三者を挙ぐれば、則ち六芸は知る可し」(子所正言者、詩書禮也。此三者、先王典法。臨文教學、讀之必正言其音、然後義全、故不可有所諱。禮不皆文誦、但記其揖讓周旋、執而行之、故言執也。舉此三者、則六藝可知)とある。また『集注』に「執は、守なり。詩は、以て情性を理め、書は、以て政事を道い、礼は、以て節文を謹む。皆日用の実に切なり。故に常に之を言う。礼の独り執と言うは、人の執り守る所を以て言う。徒に誦説するのみに非ざるなり」(執、守也。詩、以理情性、書、以道政事、禮、以謹節文。皆切於日用之實。故常言之。禮獨言執者、以人所執守而言。非徒誦説而已也)とある。
- 『集注』に引く程顥の注に「孔子の雅素の言、此くの如くに止まる。性と天道との若きは、則ち得て聞く可からざる者有り。要は黙して之を識るに在るなり」(孔子雅素之言、止於如此。若性與天道、則有不可得而聞者。要在默而識之也)とある。
- 『集注』に引く謝良佐の注に「此れ易を学ぶの語に因りて之を類記す」(此因學易之語而類記之)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「詩は以て情性を道い、書は以て政事を道う。皆人倫日用の実に切なり。故に常に之を言う。若し礼を守りて渝らざる者有れば、則ち未だ必ずしも先王の典に出でずと雖も、亦た皆常に之を言う。……若し夫れ仏老の学は、世を離れ俗を絶ち専ら高遠を事として、天下に通ずること能わざる所以の者は、実に詩書の理に達せざる故なり。而して後世の儒者、亦た詩を誦し書を読むことを知ると雖も、然れども之を求むること甚だ艱深に過ぎて、之を平易近情に求むることを知らず」(詩以道情性、書以道政事。皆切於人倫日用之實。故常言之。若有守禮不渝者、則雖未必出於先王之典、亦皆常言之。……若夫佛老之學、所以離世絶俗專事高遠、而不能通乎天下者、實不達詩書之理故也。而後世儒者、亦雖知誦詩讀書、然求之甚過艱深、而不知求之於平易近情)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「孔安国曰く、雅言は、正言なり、と。鄭玄曰く、先王の典法を読むときは、必ず其の音を正言して、然うして後義全し、故に諱む所有る可からず、と。是れ曲礼の詩・書には諱まずと合す。諱を避けざるを謂うなり。……是れ古え礼を教うるの官を称して執礼とす。言うこころは啻に孔子のみならず、凡そ執礼の者は皆雅言すと、此れを以て上句を証するなり。何註に、礼は誦せず、故に執と言う、と。已に其の義を失せり。朱註に雅を常と訓ずるは、非なり。雅と常は少しく殊なり。……仁斎先生は執礼を解して謂えらく、若し礼を守って渝らざる者有るときは、則ち未だ必ずしも先王の典に出でずと雖も、亦た皆常に之を言う、と。牽強することの甚だしと謂う可し」(孔安國曰、雅言、正言也。鄭玄曰、讀先王典法、必正言其音、然後義全、故不可有所諱。是與曲禮詩書不諱合。謂不避諱也。……是古稱教禮之官爲執禮。言不啻孔子、凡執禮者皆雅言、以此証上句也。何註、禮不誦、故言執。已失其義矣。朱註雅訓常、非也。雅常少殊。……仁齋先生解執禮謂若有守禮不渝者、則雖未必出於先王之典、亦皆常言之。可謂牽強之甚)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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