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述而第七 27 子曰蓋有不知而作之者章

174(07-27)
子曰、蓋有不知而作之者。我無是也。多聞擇其善者而從之、多見而識之、知之次也。
いわく、けだらずしてこれつくものらん。われきなり。おおきてものえらびてこれしたがい、おおこれしるすは、るのつぎなり。
現代語訳
  • 先生 ――「知りもしないで作る人もあろう。わしにはそれがない。あれこれと聞いて、よいのをえらんでついてゆく。あれこれと見ておぼえておくのも、チエの下地だよ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「知りもしないことを独断で作り出す者もことによるとあるかも知れないが、わしはそういうことはしない。自分もしゃとは申せないが、多く聞いてそのいものをえらんでわが身に行いまた多く見てそれを心にとめておくことはおこたらぬつもりで、まずしゃの次ぐらいのことはあろうか。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「無知で我流の新説を立てる者もあるらしいが、私は絶対にそんなことはしない。私はなるべく多くの人の考えを聞いて取捨選択し、なるべく多く実際を見てそれを心にとめておき、判断の材料にするようにつとめている。むろん、それではまだ真知とはいえないだろう。しかし、それが真知にいたるみちなのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 蓋 … 思うに。
  • 不知而作之 … よく知りもせず、新説を立てる。「知」は、知性のはたらき。「作」は、創作。「之」は、具体的に指すものはない。
  • 是 … 「不知而作之」という傾向を指す。
  • 多聞 … 他人の意見をたくさん聞くこと。
  • 従之 … それに従う。「之」は、他人の意見の中の優れたもの。
  • 識之 … 「識」は記憶する。「之」は、経験したこと。
  • 知之 … 「知」は、知性ある人間。
補説
  • 『注疏』に「此の章は穿鑿する無きを言うなり」(此章言無穿鑿也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 蓋有不知而作之者。我無是也 … 『集解』に引く包咸の注に「時人多く穿鑿せんさくして妄りに篇籍を作る者有り。故にしか云うなり」(時人多有穿鑿妄作篇籍者。故云然也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「知らずして作るは、妄りに穿鑿を作して異端をおさむるを謂うなり。時に蓋し多く此を為す者有らん。故に孔子曰く、我は是れ知らずして之を作る事無きなり、と」(不知而作、謂妄作穿鑿爲異端也。時蓋多有爲此者。故孔子曰、我無是不知而作之事也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「言うこころは時人には蓋し理道を知らず、穿鑿して妄りに篇籍を作る者有りしならん。我は即ち此の事無きなり」(言時人蓋有不知理道、穿鑿妄作篇籍者。我即無此事也)とある。また『集注』に「知らずして作るは、其の理を知らずして妄りに作るなり。孔子自ら未だ嘗て妄りに作らずと言えるは、蓋し亦た謙辞、然れども亦た其の知らざる所無きを見る可きなり」(不知而作、不知其理而妄作也。孔子自言、未嘗妄作、蓋亦謙辭、然亦可見其無所不知也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 不知而作之 … 宮崎市定は「不知而作は恐らく古語の引用であろう」と言っている(『論語の新研究』234頁、太字は、原文では傍点)。
  • 多聞択其善者而従之 … 『義疏』に「因って妄りに之を作る人を戒むるなり。言うこころは豈に妄りに穿鑿を為すを得んや。人世間に居し、若し耳多く聞く所有らば、則ち善を択ぶ者は之に従う者なり」(因戒妄作之人也。言豈得妄爲穿鑿也。人居世間、若有耳多所聞、則擇善者從之者也)とある。
  • 多見而識之 … 『義疏』に「若し見る所多きに因らば、則ち識録するなり。多く見て善を択ぶと云わざる者は、上と互文なり。亦た従いて知る可きなり」(若因多所見、則識録也。多見不云擇善者、與上互文。亦從可知也)とある。また『集注』に「識は、記すなり。従う所は択ばざる可からず。記すれば則ち善悪皆当に之に存して以て参考に備うべし」(識、記也。所從不可不擇。記則善惡皆當存之以備參考)とある。
  • 知之次也 … 『集解』に引く孔安国の注に「此くの如きは、之を知るに次ぐ者なり」(如此、次於知之者也)とある。また『義疏』に「若し多く聞きて善を択び、多く見て善を録さば、此れ生知に非ずと雖も、亦た是れ生知の者の次なり」(若多聞擇善、多見録善、此雖非生知、亦是生知之者次也)とある。また『注疏』に「言うこころは人若し多く聞きて、善を択びて之に従い、多く見て善を択びて之にしるす。能く此くの如き者あれば、天生に之を知るものに比せられ、以て次と為す可きなり。此れを言うは、人の穿鑿を為さざるを戒むる所以なり」(言人若多聞、擇善而從之、多見擇善而志之。能如此者、比天生知之、可以爲次也。言此者、所以戒人不爲穿鑿)とある。また『集注』に「此くの如き者は、未だ実に其の理を知ること能わずと雖も、亦た以て之を知る者に次ぐ可きなり」(如此者、雖未能實知其理、亦可以次於知之者也)とある。
  • 多見而識之、知之次也 … 宮崎市定は「識之知之も恐らく古語の引用であろう」と言っている(『論語の新研究』234頁、太字は、原文では傍点)。また「識之」では句を切らず「知之」で切り、「多く見てこれを識りこれを知るは次なり」(多見而識之知之、次也)と読んでいる。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「蓋し聖人道を体するの深く、善を取るのあまねき、自ら其の辞の謙を覚えざること此くの如し。若し夫れ其の言誇大なる者は、其の道必ず小に、其の行い高きに過ぐる者は、其の徳必ず浅し。唯だ中庸の徳を至れりと為すなり」(蓋聖人體道之深、取善之周、不自覺其辭之謙如此。若夫其言誇大者、其道必小、其行過高者、其德必淺。唯中庸之德爲至也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「孔子自ら知の次なるを謂うなり。……二つの知の字は皆去声、智は聖を謂うなり」(孔子自謂知之次也。……二知字皆去聲、智謂聖也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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