述而第七 2 子曰默而識之章
149(07-02)
子曰、默而識之、學而不厭、誨人不倦。何有於我哉。
子曰、默而識之、學而不厭、誨人不倦。何有於我哉。
子曰く、黙して之を識り、学びて厭わず、人を誨えて倦まず。何か我に有らんや。
現代語訳
- 先生 ――「だまっておぼえこむ。ねばってまなび取る。あきずに手びきする。わしにはほかに能はないが…。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様がおっしゃるよう、「口に出さずに心にきざみ、自ら学んでいやにならず、人を教えてめんどうがらぬ。ただそれだけのことで、ほかにわしには何の取りえもない。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師がいわれた。――
「沈黙のうちに心に銘記する、あくことなく学ぶ、そして倦むことなく人を導く。それだけは私にできる。そして私にできるのは、ただそれだけだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 黙 … 黙々として。沈黙のうちに。
- 識 … 知る。認識する。理解する。また「識す」と読み、「記憶する」と解釈する説もある。
- 黙而識之 … 口に出さないで心のうちに留め置くこと。
- 学而不厭 … 学び求めて途中で嫌になったりしない。
- 誨人不倦 … 人に教えて飽きたりしない。「誨」は「教」に同じ。
- 何有於我 … これ以外何が私にあろうか、何もない。「何有」は「なんぞ~あらん」「いずれか~あらん」とも読む。この語は「子罕第九15」にも見える。
- 哉 … 「や」と読み、「~か」と訳す。疑問の意を示す。
補説
- 『注疏』に「此の章は仲尼言う、己言わずして之を記識し、古えを学びて心に厭わず、人に教誨して、倦怠すること有らず、と」(此章仲尼言、己不言而記識之、學古而心不厭、教誨於人、不有倦怠)とある。記識は、書きしるすこと。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 黙而識之 … 『義疏』に「事を見れば必ず識して口言わず、之を黙識と謂うなり」(見事必識而口不言、謂之默識也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「識は、記すなり。黙して識すは、言わずして諸を心に存するを謂うなり。一説に、識は、知なり。言わずして心に解するなり。前説是に近し」(識、記也。默識、謂不言而存諸心也。一説、識、知也。不言而心解也。前説近是)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 学而不厭 … 『義疏』に「又た先王の道を学びて厭わざるなり」(又學先王之道而不厭也)とある。
- 誨人不倦 … 『義疏』に「誨は、教なり。又た一切の人を教えて疲倦せざるなり」(誨、教也。又教一切之人而不疲倦也)とある。疲倦は、疲れていやになること。
- 何有於我哉 … 『集解』に引く鄭玄の注に「人是の行い有ること無し。我に於いては、我独り之れ有るなり」(人無有是行。於我、我獨有之也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「言うこころは人此の諸行無し。故に天下我を貴ぶのみ。若し世人皆此の三行有らば、則ち何ぞ復た貴きこと我に有らんや。故に李充曰く、言うこころは人若し此の三行有らば、復た何ぞ我を貴ぶこと有らんや。斯れ学を勧めて敦く誨え誘くの辞なり、と」(言人無此諸行。故天下貴於我耳。若世人皆有此三行、則何復貴有於我哉。故李充曰、言人若有此三行、復何有貴於我乎。斯勸學敦誨誘之辭也)とある。また『注疏』に「他人に是の行い無し。我に於いては、我のみ独り之れ有り。故に何か我に於いて有らんやと曰う」(他人無是行。於我、我獨有之。故曰何有於我哉)とある。また『集注』に「何れか我に有らんやとは、何者か能く我に有らんやと言うなり。三者は、已に聖人の極至に非ず。而して猶お敢えて当たらず。則ち謙して又た謙するの辞なり」(何有於我、言何者能有於我也。三者、已非聖人之極至。而猶不敢當。則謙而又謙之辭也)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「識は、知なり。黙して之を識るは、猶お静かに言に之を思うと曰うがごとく、人言うを待たずして自ずから之を識ることを言うなり。学びて厭わず、人を誨えて倦まずの二句は、語孟中凡そ三たび出ず、而れども他の章皆黙して之を識るの一句無し。故に旧説に従わず。何か我に有らんやとは、此の二者の外、何の徳か能く我に有らんやと言うなり。蓋し厭わず倦まずは、皆夫れ人の能くする所、此れを外にして別に称す可き者無し、此れ謙辞と雖も、益〻其の徳の盛んなるを見るなり。……蓋し道愈〻宏ければ則ち其の言愈〻卑く、徳愈〻邵ければ則ち其の言愈〻謙なり」(識、知也。默而識之、猶曰靜言思之、言不待人言而自識之也。學而不厭、誨人不倦二句、語孟中凡三出、而他章皆無默而識之一句。故不從舊説。何有於我、言此二者之外、何德能有於我也。蓋不厭不倦、皆夫人所能、外此別無可稱者、此雖謙辭、益見其德盛也。……蓋道愈宏則其言愈卑、德愈邵則其言愈謙)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「黙して之を識るは、言わずして喩るなり。学の道は、黙して之を識るに在り。何となれば、先王の道は礼・楽是れのみ。礼・楽は言わず、其の義を識らんと欲する、豈に言の能く尽くす所ならんや。之を習うこと久しければ則ち自然に喩ること有り。……故に黙して之を識れば則ち好み、好めば則ち学んで厭わず、厭わざれば則ち楽しむ、楽しめば則ち人に誨えて倦まず。之の三者は相因りて至る。かるが故に何ぞ我に有らんやと曰う。其の我が力を容れざるを言うなり。……朱註に以て孔子自ら謙するの言とするは、非なり。孔子学問の方を語るに、何の謙することか之れ有らん。仁斎先生曰く、黙して之を識るは、猶お静かに言に之を思うのごとし、と。倭人の言、何ぞ弁ずることを容れんや」(默而識之、不言而喩也。學之道、在默而識之。何者、先王之道禮樂是已。禮樂不言、欲識其義、豈言之所能盡哉。習之久則自然有喩焉。……故默而識之則好、好則學而不厭、不厭則樂、樂則誨人不倦。之三者相因而至焉。故曰何有於我哉。言其不容我力也。……朱註以爲孔子自謙之言、非矣。孔子語學問之方、何謙之有。仁齋先生曰、默而識之、猶靜言思之。倭人之言、何容乎辨)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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