宮中題(文宗皇帝)
宮中題
宮中にて題す
宮中にて題す
- 〔テキスト〕 『唐詩選』巻六、『全唐詩』巻四、『万首唐人絶句』巻八(内閣文庫蔵)、『唐詩品彙』巻四十三、『唐詩別裁集』巻十九、他
- 五言絶句。枝・知(上平声支韻)。
- ウィキソース「宮中題」参照。
- 題 … 詩を作って、壁などに書きつけること。
- 文宗皇帝 … 809~840。在位826~840。姓は李、名は昂。穆宗の次男。はじめ江王に封ぜられたが、兄の敬宗が宦官の劉克明によって毒殺されると、宦官の王守澄らに擁立され、克明を殺して帝位についた。大和九年(835)、宰相李訓らと「甘露の変」と呼ばれる宦官に対するクーデターを計画したが、失敗に終わった。その後は宦官の仇士良がかえって政治の実権を牛耳ることとなり、文宗は失意のまま、開成五年(840)、三十三歳の若さで崩じた。ウィキペディア【文宗 (唐)】参照。
輦路生春草
輦路 春草を生じ
- 輦路 … 天子の車の通る道。輦道。「輦」は天子の乗物。
- 春 … 『唐詩選』『唐詩品彙』『唐詩別裁集』では「秋」に作る。『全唐詩』では「春」に作り、「一作秋」と注する。『万首唐人絶句』でも「春」に作る。承句との関連上、「春」の方がよいので改めた。
- 草 … 『万首唐人絶句』では「艸」に作る。同義。
上林花滿枝
上林 花 枝に満つ
- 上林 … 漢代の御苑、上林苑のこと。ここでは唐の御苑に喩えた。『三輔黄図』巻四、苑囿、漢上林苑の条に「漢の上林苑は、即ち秦の旧苑なり。漢書に云う、武帝、建元三年上林苑を開き、東南のかた藍田宜春、鼎湖、御宿、昆吾に至り、南山を旁にして西し、長楊、五柞に至り、北のかた黄山を繞り、渭水に瀕して東す。周袤三百里、と。離宮七十所、皆な千乗万騎を容る。漢宮殿疏に云う、方三百四十里、と。漢旧儀に云う、上林苑方三百里、苑中に百獣を養い、天子、秋冬に射猟して之を取る、と。帝初め上林苑を修むるに、群臣遠方、各〻名果異卉三千余種を献じて其の中に植え、亦た製して美名を為す有り、以て奇異なるを標す」(漢上林苑、即秦之舊苑也。漢書云、武帝建元三年開上林苑、東南至藍田宜春、鼎湖、御宿、昆吾、旁南山而西、至長楊、五柞、北繞黃山、瀕渭水而東。周袤三百里。離宮七十所、皆容千乘萬騎。漢宮殿疏云、方三百四十里。漢舊儀云、上林苑方三百里、苑中養百獸、天子秋冬射獵取之。帝初修上林苑、羣臣遠方、各獻名果異卉三千餘種植其中、亦有製爲美名、以標奇異)とある。周袤は、周囲。袤は、長さ。ウィキソース「三輔黃圖/卷之四」参照。また『後漢書』明帝紀、永平十五年に「冬、車騎上林苑に校猟す」(冬、車騎校獵上林苑)とある。校猟は、鳥や獣が逃げ出さないように埒(囲い)を作って狩りをすること。ウィキソース「後漢書/卷2」参照。また同じく桓帝紀、延熹元年に「冬十月、広成に校猟して、遂に上林苑に幸す」(冬十月、校獵廣成、遂幸上林苑)とある。ウィキソース「後漢書/卷7」参照。ウィキペディア【上林苑】参照。
- 満枝 … 『全唐詩』では「発時」に作り、「一作満枝」と注する。『万首唐人絶句』では「発時」に作る。こちらは「花が開く時」の意。
憑高何限意
高きに憑る 何限の意
- 憑高 … 高い所に登って見渡せば。「憑」は、寄りかかること。
- 何限 … 「何ぞ限りあらん」と訓読できる。限りないこと。際限がないこと。
- 意 … 胸中の思い。感慨。
無復侍臣知
復た侍臣の知る無し
- 無復侍臣知 … その思いを知ってくれる近侍の家来は一人もいない。
- 無復 … 「また~なし」と読み、「もう~するものはいない」と訳す。
- 侍臣 … 君主のそば近くに仕える家臣。近侍。
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