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堯曰第二十 1 堯曰咨爾舜章

497(20-01)
堯曰、咨爾舜、天之暦數、在爾躬。允執其中。四海困窮、天祿永終。
舜亦以命禹。
曰、予小子履、敢用玄牡、敢昭告于皇皇后帝。有罪不敢赦。帝臣不蔽。簡在帝心。朕躬有罪、無以萬方。萬方有罪、罪在朕躬。
周有大賚。善人是富。雖有周親、不如仁人。百姓有過、在予一人。
謹權量、審法度、修廢官、四方之政行焉。興滅國、繼絶世、擧逸民、天下之民歸心焉。
所重民食喪祭。
寛則得衆、信則民任焉。敏則有功、公則説。
ぎょういわく、ああなんじしゅんてん暦数れきすうなんじり。まことちゅうれ。かい困窮こんきゅうせば、天禄てんろくながわらん、と。
しゅんもっめいず。
いわく、われしょうえてげんもちいて、えてあきらかに皇皇こうこうたる后帝こうていぐ。つみるはえてゆるさず。帝臣ていしんおおわず。えらぶことていこころり。ちんつみらば、万方ばんぽうもってすることかれ。万方ばんぽうつみらば、つみちんらん、と。
しゅうおおいなるたまものり。善人ぜんにんめり。しゅうしんりといえども、仁人じんじんかず。ひゃくせいあやまらば、われ一人いちにんり。
権量けんりょうつつしみ、法度ほうどつまびらかにし、廃官はいかんおさむれば、ほうまつりごとおこなわれん。滅国めっこくおこし、絶世ぜっせいぎ、逸民いつみんぐれば、てんたみこころす。
おもんずるところたみしょくそうさいなり。
かんなればすなわしゅうしんなればすなわたみにんず。びんなればすなわこうり、こうなればすなわよろこぶ。
現代語訳
  • 堯(ギョウ)帝 ――「これ、舜(シュン)よ。天のさだめた、そなたの身。ほどをこそ守れ。国おちぶれては、天も見はなす。」舜帝もそう(夏の)禹(ウ)王に教えた。(商の湯王のことば)――「ふつつか者の履(リ)、黒牛をそなえ、天の大神に申したてまつる。罪びと(夏の暴君桀王ら)は、許さず。神のしもべはかくさず、みこころのままに選ぶ。(諸侯にむかい ――)この身に罪あるも、諸国にかかわらず。諸国に罪あれば、この身を罪されよ。」周(の時代)は大いにめぐまれて、よい人たちがことに栄えた。「身うちの人よりも、なさけの人がまし。民もしとがあれば、この身を責めたまえ。」(「書経、周書」のことば。)目かたやマスをごまかさず、世のしきたりをよくしらべ、すたれた役をもとにもどせば、国の政治が立ちなおる。ほろびた国をおこし、絶えた家をつがせ、かくれた人をとり立てれば、世の人民が心をよせる。だいじなことは、民の食糧、とむらい、祭り。ゆとりがあれば人がなつき、まごころつくせば民がたよる。まめまめしければ事がはかどり、かたよらなければよろこばれる。(がえり善雄『論語新訳』)
  • ぎょうが天下をしゅんゆずったとき、舜に告げて、「ああお前舜よ、天の命数めいすうがお前の身にしたのでくらいを譲るのだが、天命を受けて天子となった以上は、ばんきゅうなきちゅうようの道をしかと守って民を治めよ。もしまつりごとを失ってかい万民ばんみんこんきゅうおとしいれたならば、いったん受けた天の恩命おんめいも永く断絶だんぜつするであろう。」といましめた。舜もまたに天下を譲るに当って、同様の言葉を与えた。かくして禹は子孫に伝えての国が続いたが、桀王けつおうに至ってどうだったので、いん湯王とうおうがこれをほろぼして天子の位にいた。そのとき諸侯しょこう宣言せんげんして、「ちんけつったとき天を祭って、『ふつつかなる拙者せっしゃ(湯王の名)黒牛のいけにえをささげて天を祭り、じょうこうなるじょうていに明らかに申し上げます。かの桀は大罪たいざいゆるがたくこれを討伐するのでありますが、上帝のごらいとも申すべき賢人はこれを見失うことなく採用いたしましょう。しかしてかれらを選抜いたしますにも、けっして私意をさしはさまず、上帝のこころまかせにいたしましょう。』と誓ったことであるが、今天子となった以上は、政治上の責任はすべてちんに存する。もし朕の身に過失があった場合には、万民に責任をわせるようなことはいたすまい。もし万民に過失があったならば、その責任は朕が一身にせしめよ。」と言った。さていんすえに至りちゅうおうぼうぎゃくだったので、周のおうがこれを討伐とうばつしたが、そのときも天に誓って、「周には天から授かった大きなたまものがある。それは善人ぜんにんの多いことであります。いんにはかの微子びし箕子きしかんのような近親はあるが、ちゅうおうがそれを用いずしてその心がはんしており、周の仁人じんじんが心を合せて私を助けるには及びませんから、必ずこれを滅ぼして天下をやすんずることを得ましょう。」と言った。そして天子となった後は、りょうこう厳格げんかくにし、礼楽れいがく法制ほうせい適正てきせいにし、すたれた官職を復活したので、四方のまつりごとが成績をげた。また滅亡した国を復興し、断絶した家を再建し、てられていた賢人を採用したので、天下の民が心を寄せた。しかして最も重んじたところは、人民の食生活と、父母の葬式と、先祖の祭とであった。要するにぎょうしゅんよりぶんに至るまで先王せんのうの天下を治むる道は、孔子の説かれる「寛なればすなわち衆を得、信なればすなわち民任じ、敏なればすなわち功あり、公なればすなわち民よろこぶ。」という寛・信・敏・公の四徳にきるのであって、この先王の万世ばんせいに継ぐことが、すなわち孔子様の大願たいがんであったのだ。(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 堯帝が天子の位を舜帝に譲られたとき、いわれた。――
    「ああ、汝、舜よ。天命いまや汝の身に下って、ここに汝に帝位をゆずる。よく中道をふんで政を行なえ。もし天下万民を困窮せしめることがあれば、天の恵みは永久に汝の身を去るであろう」
    舜帝が王に位を譲られるときにも、同じ言葉をもってせられた。
    けつ王にいたって無道であったため、いんとう王がこれをうち、天命をうけて天子となったが、その時、湯王は天帝に告げていわれた。――
    「小さき者、、つつしんで黒き牡牛をいけにえにして、あえて至高至大なる天帝にことあげいたします。私はみ旨を奉じ万民の苦悩を救わんがために、天帝に罪を得た者を誅しました。天帝のみ心に叶う臣下はすべてその徳がおおわれないよういたしたいと思います。私は天帝のみ心のまにまに私の進むべき道を選ぶのみであります」
    さらに諸侯に告げていわれた。――
    「もしわが身に罪あらば、それはわれひとりの罪であって、万民の罪ではない。もし万民に罪あらば、それは万民の罪でなくて、われひとりの罪である」
    いんちゅう王にいたって無道であったため、周の武王がこれをうち、天命をうけて天子となったが、その時、武王は天帝に誓っていわれた。――
    「周に下された大きな御賜物を感謝いたします。周にはなんと善人が多いことでございましょう。いかに親しい身内のものがおりましょうとも、仁人の多きには及びませぬ。かように仁人に恵まれて、なおひゃくせいに罪がありますならば、それは私ひとりの罪でございます」
    武王はこうして、度量衡を厳正にし、礼楽制度をととのえ、すたれた官職を復活して、四方の政治に治績をあげられた。また、滅亡した国を復興し、断絶した家を再建し、野にあった賢者を挙用して、天下の民心を帰服せしめられた。とりわけ重んじられたのは、民の食と喪と祭とであった。
    このように、君たる者が寛大であれば衆望を得、信実であれば民は信頼し、勤敏であれば功績があがり、公正であれば民は悦ぶ。これが政治の要道であり、堯帝・舜帝・禹王・湯王・武王の残された道である。(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 堯 … 古代の伝説上の聖天子。名は放勲。舜を後継者として皇帝の位を譲った。ウィキペディア【】参照。
  • 咨 … 「ああ」と読む。感嘆詞。
  • 舜 … 古代の伝説上の聖天子。姓はよう。虞に国を建てたので虞舜、または有虞氏と呼ばれる。堯から譲位を受け皇帝となった。ウィキペディア【】参照。
  • 暦数 … 運命。天命。ここでは、天の意志による、帝位につく順序。
  • 躬 … 「身」に同じ。
  • 允 … 「まことに」と読む。誠実に。まじめに。
  • 執其中 … 中道を執り行え。中庸の政治を行え。
  • 四海 … 四方の海。転じて、天下の意。
  • 天禄 … 天から授かる幸福。天の恵み。
  • 永終 … 永遠に失われるだろう。
  • 禹 … 古代伝説上の聖天子。舜から譲位を受け皇帝となった。夏王朝の開祖。大洪水を治め、治水に功績があったといわれる。ウィキペディア【】参照。
  • 曰、予小子履 … 「曰」は、「殷湯王曰」の意。
  • 予 … われ。一人称の代名詞。
  • 小子 … 自分を謙遜していう言葉。わたくし。
  • 履 … 殷の初代の王、湯王(天乙てんいつ)の名。ウィキペディア【天乙】参照。
  • 敢 … ここでは、「僭越ながら」の意。
  • 玄牡 … (供物としての)黒い雄牛。
  • 昭 … 明らかに。はっきりと。
  • 皇皇 … 大いなる。人格などの大なるさま。
  • 后帝 … 天帝。「后」は「君」の意。
  • 有罪 … 桀王を指す。
  • 不敢赦 … 決して赦さない。
  • 帝臣 … 天帝の臣下の意。天下の賢人たち。
  • 不蔽 … 蔽い隠さない。見つけて任用する。
  • 簡 … えらぶ。罪が有る者か無い者かを選びとる。
  • 帝心 … 天帝の御心のままに任せます。
  • 朕 … 天子の自称。
  • 万方 … 天下の人々。庶民。
  • 無以 … 関わりがない。
  • 周 … 中国古代の王朝、西周のこと。前1046年~前771年。武王が殷を滅ぼして建てた。前771年、けんじゅうの侵攻によって洛邑(洛陽)に遷都した。それまでを西周、以後を東周という。東周は前256年、秦に滅ぼされた。ウィキペディア【西周 (王朝)】参照。
  • 大賚 … 「たいらい」と読んでもよい。大きな賜り物。
  • 善人是富 … 善人が大勢いる。
  • 周親 … 親しい身内。身近な親類。
  • 不如仁人 … 仁者には及ばない。
  • 百姓 … 多くの民。人民。
  • 在予一人 … その罪は私一人にあります。
  • 権量 … 「権」は、はかり。「量」は、ます。度量衡。
  • 謹 … 整える。統一する。
  • 法度 … 法律・制度・礼法などの基準になるもの。
  • 審 … 明確にする。
  • 修廃官 … 廃止された官職を復活させる。
  • 四方之政 … 天下の政治。
  • 興滅国 … 滅亡した国を復興させる。
  • 継絶世 … 断絶した家を再興させる。
  • 挙逸民 … 世を避けて隠棲している賢者を登用する。
  • 帰心 … 心を寄せて帰服してくる。
  • 所重 … 重視したことは。
  • 食喪祭 … 民衆の食糧と葬儀と祭祀。
  • 寛 … 寛大さ。
  • 得衆 … 衆望が集まる。人望が得られる。
  • 信 … 誠実さ。信義を守ること。
  • 民任 … 民衆から信頼される。
  • 敏 … すばやく、てきぱきとしていること。敏活さ。敏捷さ。
  • 有功 … 仕事に成功する。業績が上がる。
  • 公 … 公平であること。
  • 説 … 民衆が心から喜ぶ。
補説
  • 堯曰第二十 … 『集解』に「凡そ三章」(凡三章)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「堯曰とは、古えの聖天子の言う所なり。其の言天下太平にして、位をゆずり舜にあたうるの事なり。所以に前者に次ぐ。君に事うるの道、若し宜しく去る者は衣を払うべく、宜しく留まる者は命を致すべし。去・留理に当たり、事迹くこと無ければ、則ち太平る可く、ゆうじょうすること堯の如し。故に堯曰は最後にして、子張に次ぐなり」(堯曰者、古聖天子所言也。其言天下太平、禪位與舜之事也。所以次前者。事君之道、若宜去者拂衣、宜留者致命。去留當理、事迹無虧、則太平可覩、揖讓如堯。故堯曰最後、次子張也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「此の篇は二帝・三王、及び孔子の語を記し、天命・政化の美を明らかにす。皆是れ聖人の道にして、以ておしえを将来に垂る可し。故に諸篇に殿するにて、次する所には非ざるなり」(此篇記二帝三王及孔子之語、明天命政化之美。皆是聖人之道、可以垂訓將來。故殿諸篇、非所次也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「凡そ三章」(凡三章)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『注疏』に「此の章は二帝・三王の道を明らかにし、凡て五節有り。初めの堯曰より天禄永終に至るまでは、堯の舜に命ずるの辞を記するなり。二の舜以命禹よりの一句は、舜も亦た堯の己に命ずるの辞を以て禹に命ずるなり。三の曰予小子より罪在朕躬に至るまでは、湯の桀を伐つときに、天に告ぐるの辞を記するなり。四の周有大賚より在予一人に至るまでは、周家の天命を受くる、及び紂を伐つときに天に告ぐるの辞を言うなり。五の謹権量より公則説に至るまでは、此れ二帝・三王の政化の法を明らかにするをぶるなり」(此章明二帝三王之道、凡有五節。初自堯曰至天祿永終、記堯命舜之辭也。二自舜以命禹一句、舜亦以堯命己之辭命禹也。三自曰予小子至罪在朕躬、記湯伐桀、告天之辭也。四自周有大賚至在予一人、言周家受天命及伐紂告天之辭也。五自謹權量至公則説、此揔明二帝三王政化之法也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 堯曰 … 『義疏』に「堯曰くと云えるは、堯の言を称して教うるなり。此の篇は凡そ三章有り。初めに堯曰くと称すと雖も、而れども衆聖に寛通せり。故に其の章内并せて二帝三王の道を陳ぶるなり。此の一章に就いて、中凡そ五重有り。篇首より天禄永く終えんに至るまで第一と為す。是れ堯命じて舜に授くるの辞なり。又た下に云う、舜も亦た以て禹を命ずるを第二と為す。是れ記者舜の禹に命ずるを序するも、亦た堯の舜に命ずるの辞に同じきなり。又た予小子履より万方罪有らば朕の躬に在らんに至るまでを第三と為す。是れ湯桀を伐つとき天に告ぐるの辞なり。又た周に大賚有りより予一人に在りに至るまでを第四と為す。是れ明らかに周の武紂を伐つの文なり。又た権量を謹むより章末に至るまでを弟五と為す。二帝三王、揖譲と干戈との異なること有りと雖も、而れども民を安んじ治を取るの法は則ち同じきを明らかにするなり。又た下次の子張孔子に問うの章は、孔子の徳、堯・舜諸聖に同じきを明らかにするなり。上章の諸聖能く民を安んずる所以の者は、五美を尊び四悪をしりぞくるを出でず。而るに孔子能く之を為さざるに非ずして、時にわざるのみ。故に師資殷勤に往反して之を論ずるなり。下の又た一章、命を知らざれば、以て君子たること無きなり。此の章は以て孔子為す能わざるに非ざるを明らかにす。而して為さざる者は天命を知るが故なり」(云堯曰者、稱堯之言教也。此篇凡有三章。雖初稱堯曰、而寛通衆聖。故其章内幷陳二帝三王之道也。就此一章、中凡有五重。自篇首至天祿永終爲第一。是堯命授舜之辭。又下云、舜亦以命禹爲第二。是記者序舜之命禹、亦同堯命舜之辭也。又自予小子履至萬方有罪在朕躬爲第三。是湯伐桀告天之辭。又自周有大賚至在予一人爲第四。是明周武伐紂之文也。又自謹權量至章末爲弟五。明二帝三王雖有揖讓與干戈之異、而安民取治之法則同也。又下次子張問孔子章、明孔子之德同於堯舜諸聖也。上章諸聖所以能安民者、不出尊五美屏四惡。而孔子非不能爲之、而時不値耳。故師資殷勤往反論之也。下又一章不知命、無以爲君子也。此章以明孔子非不能爲。而不爲者知天命故也)とある。
  • 咨爾舜 … 『義疏』に「此れより以下は、堯舜に命ずるに天位を以てするの辞なり。は、咨嗟しさなり。爾は、汝なり。汝は舜に於いてなり。舜とは、おくりななり。堯名は放勲、おくりなして堯と云うなり。舜名は重華、謚して舜と云うなり。謚法に云う、善をたすけ聖を伝うるを堯と曰い、仁盛んに聖明らかなるを舜と曰うなり、と。堯将に舜に命ぜんとす。故に先ず咨嗟し歎じて之に命ず。故に云う、ああ汝舜、と。歎じて之に命ずる所以の者は、言うこころは舜の徳美、我が命を用うるに兼ね合するなり」(自此以下、堯命舜以天位之辭也。咨、咨嗟也。爾、汝也。汝於舜也。舜者、謚也。堯名放勲、謚云堯也。舜名重華、謚云舜也。謚法云、翼善傳聖曰堯、仁盛聖明曰舜也。堯將命舜。故先咨嗟歎而命之。故云、咨汝舜也。所以歎而命之者、言舜之德美兼合用我命也)とある。咨嗟は、舌打ちして感嘆すること。また『注疏』に「此の下は是れ堯の舜に命ずるに天命を以てするの辞なり。咨は、咨嗟なり。爾は、なんじなり」(此下是堯命舜以天命之辭也。咨、咨嗟也。爾、女也)とある。また『集注』に「此れ堯の舜に命じてゆずるに帝位を以てするの辞なり。咨は、たんの声」(此堯命舜而禪以帝位之辭。咨、嗟歎聲)とある。
  • 天之暦数、在爾躬 … 『集解』の何晏の注に「暦数は、列次を謂うなり」(暦數、謂列次也)とある。また『義疏』に「天は、天位なり。暦数は、天位の列次を謂うなり。爾は、汝なり。躬は、身なり。堯舜に命じて云う、天位の列次、次汝の身に在り。故に我今命じて汝に授与するなり、と」(天、天位也。暦數、謂天位列次也。爾、汝也。躬、身也。堯命舜云、天位列次、次在汝身。故我今命授與汝也)とある。また『注疏』に「暦数は、列次を謂うなり。堯の姓は伊祁、名は放勛なり。舜の姓は姚、名は重華なり。謚法に、善を翼け聖を伝うるを堯と曰う。仁義の盛明なるを舜と曰う、と云う。堯の子の丹朱は不肖、位を嗣ぐに堪えず。虞舜はそくなるも、堯之が聦明なるを聞き、将に位を嗣がしめんとす。故に先ず咨嗟し歎じて之に命じ、其の事を重んぜしめんと欲す。言うこころは天位の列次は、当に女の身に在るべし。故に我今命じて女に授くるなり」(暦數、謂列次也。堯姓伊祁、名放勛。舜姓姚、名重華。謚法云、翼善傳聖曰堯。仁義盛明曰舜。堯子丹朱不肖、不堪嗣位。虞舜側微、堯聞之聦明、將使嗣位。故先咨嗟歎而命之、欲使重其事。言天位之列次、當在女身。故我今命授於女也)とある。側微は、身分が低くて卑しいこと。また『集注』に「暦数は、帝王相継ぐの次第。猶お歳時気節の先後のごときなり」(暦數、帝王相繼之次第。猶歳時氣節之先後也)とある。
  • 允執其中。四海困窮、天禄永終 … 『集解』に引く包咸の注に「允は、信なり。困は、極なり。永は、長なり。言うこころは政を為すにまことに其の中を執れば、則ち能く四海に窮めくして、天禄長く終わる所以なり」(允、信也。困、極也。永、長也。言爲政信執其中、則能窮極四海、天祿所以長終也)とある。また『義疏』に「允は、信なり。執は、持なり。中は、中正の道を謂うなり。言うこころは天位の運次既に汝の身に在れば、則ち汝宜しく信に中正の道を執持すべきなり。四海は、四方の蛮夷、じゅうてきの国を謂うなり。困は、極なり。窮は、尽なり。若し内中正の道を執れば、則ち徳教外四海に被りて、一切化に服して極尽せざるは莫きなり。永は、長なり。終は、猶お卒竟うるがごときなり。若し内中国を正しくし、外四海に被らしめば、則ち天祚禄位長く汝の身に卒竟えん。其の中を執れば、則ち能く四海を窮極せん。天禄長く終うる所以なり」(允、信也。執、持也。中、謂中正之道也。言天位運次既在汝身、則汝宜信執持中正之道也。四海、謂四方蠻夷戎狄之國也。困、極也。窮、盡也。若内執中正之道、則德教外被四海、一切服化莫不極盡也。永、長也。終、猶卒竟也。若内正中國、外被四海、則天祚禄位長卒竟汝身也。執其中、則能窮極四海。天禄所以長終也)とある。また『注疏』に「此れ堯の舜を戒むるに君たるの法を以てするなり。允は、信なり。困は、極なり。永は、長なり。言うこころは政を為すに信に其の中を執れば、則ち能く四海を窮極し、天の禄籍の、長く汝の身に終うる所以なり」(此堯戒舜以爲君之法也。允、信也。困、極也。永、長也。言爲政信執其中、則能窮極四海、天之祿籍、所以長終汝身)とある。また『集注』に「允は、信なり。中とは、過不及無きの名なり。四海の人困窮すれば、則ち君禄も亦た永く絶ゆ。之を戒むるなり」(允、信也。中者、無過不及之名。四海之人困窮、則君禄亦永絶矣。戒之也)とある。
  • 舜亦以命禹 … 『集解』に引く孔安国の注に「舜も亦た堯の己に命ずるの辞を以て禹に命ずるなり」(舜亦以堯命己之辭命禹也)とある。また『義疏』に「此れ二の重、舜禹に譲るを明らかにするなり。舜堯の禅を受けて位に在り。年老いて譲りて禹に与う。亦た堯己に命ずるの辞を用いて、以て禹に命ずるなり。故に云う、舜も亦た以て禹に命ずるなり、と。別に辞を為さざる所以の者は、同じく是れ揖譲して授くるを明らかにするなり。当に舜曰く、ああ爾禹、天の暦数、と以下の言を云うべし」(此二重、明舜讓禹也。舜受堯禪在位。年老而讓與禹。亦用堯命己之辭、以命於禹也。故云、舜亦以命禹也。所以不別爲辭者、明同是揖讓而授也。當云舜曰、咨爾禹、天之暦數、以下之言也)とある。また『注疏』に「舜に子の商均有るも、亦た不肖なり。禹に治水の大功有り、故に舜位をゆずりて禹にあたう。故に亦た堯の己に命ずるの辞を以て禹に命ずるなり」(舜有子商均、亦不肖。禹有治水大功、故舜禪位與禹。故亦以堯命己之辭命禹也)とある。また『集注』に「舜後に位を禹にゆずるも、亦た此の辞を以て之に命ず。今、虞書の大禹謨に見ゆ。此に比ぶれば詳を加う」(舜後遜位於禹、亦以此辭命之。今見於虞書大禹謨。比此加詳)とある。
  • 予小子履、敢用玄牡、敢昭告于皇皇后帝 … 『集解』に引く孔安国の注に「履は、殷の湯の名なり。此れ桀を伐つとき天に告するの文なり。殷家は白を尚ぶも、未だ夏の礼を変えず。故に玄牡を用うるなり。皇は、大なり。后は、君なり。大大君帝は、天帝を謂うなり。墨子は湯誓を引く、其の辞此くの若きなり」(履、殷湯名也。此伐桀告天文也。殷家尚白、未變夏禮。故用玄牡也。皇、大也。后、君也。大大君帝、謂天帝也。墨子引湯誓、其辭若此也)とある。また『義疏』に「此れ第三の重、湯桀を伐つを明らかにするなり。伐つと授くると異なり。故に前の揖譲に因らざるの辞なり。澆淳ぎょうじゅん既に異なれば、揖譲の道行われず。禹人の禅を受くれども人にゆずらず。乃ち位を伝うるに其の子孫に与う。末孫桀に至りて無道、天下の苦患と為る。湯聖徳有りて、天に応じ民に従い、天に告げて之を伐つ。此れ以下は是れ其の辞なり。予は、我なり。小子は、湯自ら称して謙するなり。履は、湯の名なり。将に天に告げんとして、故に自ら我小子と称して、又た名を称するなり。敢は、果なり。玄は、黒なり。牡は、雄なり。夏は黒を尚ぶ。の時湯猶お未だ夏の色を改めず。故に猶お黒牡を用いて、以て天に告ぐ。故に云う、果たして敢えて玄牡を用う、と。昭は、明なり。皇は、大なり。后は、君なり。帝は、天帝なり。玄牡を用いて天に告げて云う、敢えて明らかに大大たる君天帝に告ぐなり、と」(此第三重、明湯伐桀也。伐與授異。故不因前揖讓之辭也。澆淳既異、揖讓之道不行。禹受人禪而不禪人。乃傳位與其子孫。至末孫桀無道、爲天下苦患。湯有聖德、應天從民、告天而伐之。此以下是其辭也。予、我也。小子、湯自稱謙也。履、湯名也。將告天、故自稱我小子、而又稱名也。敢、果也。玄、黑也。牡、雄也。夏尚黑。爾時湯猶未改夏色。故猶用黑牡、以告天。故云、果敢用於玄牡也。昭、明也。皇、大也。后、君也。帝、天帝也。用玄牡告天而云、敢明告于大大君天帝也)とある。また『注疏』に「此の下は湯の桀を伐つときに天に告ぐる辞なり。禹は舜の禅を受け、位を子孫に伝え、桀に至りては無道なり。湯に聖徳有りて、天に応じ人に順い、干戈を挙げて之を伐ち、遂に桀を南巣に放ち、自ら立ちて天子と為り、而して此の辞を以て天に告ぐるなり。履は、殷の湯の名なり。小子と称するは、謙なり。玄牡は、黒牲なり。殷の白を尚びて而も黒牲を用うるは、未だ夏礼を変えざるが故なり。昭は、明なり。皇は、大なり。后は、君なり。大大たる君帝は、天帝を謂うなり。牲を殺して明らかに天帝に告ぐるに桀を伐つの意を以てするを謂う」(此下湯伐桀告天辭也。禹受舜禪、傳位子孫、至桀無道。湯有聖德、應天順人、舉干戈而伐之、遂放桀於南巢、自立爲天子、而以此辭告天也。履、殷湯名。稱小子、謙也。玄牡、黑牲也。殷尚白而用黑牲者、未變夏禮故也。昭、明也。皇、大也。后、君也。大大君帝、謂天帝也。謂殺牲明告天帝以伐桀之意)とある。また『集注』に「此れ商書の湯誥とうこうの辞を引く。蓋し湯既に桀を放ちて諸侯に告ぐ。書の文と大同小異なり。曰の上に当に湯の字有るべし。履は、蓋し湯の名ならん。玄牡を用うとは、夏は黒を尚び、未だ其の礼を変えざるなり」(此引商書湯誥之辭。蓋湯既放桀而告諸侯也。與書文大同小異。曰上當有湯字。履、蓋湯名。用玄牡、夏尚黑、未變其禮也)とある。
  • 有罪不敢赦 … 『集解』に引く包咸の注に「天に従い法を奉じ、罪有る者は、敢えてほしいままには赦さざるなり」(從天奉法、有罪者、不敢擅赦也)とある。また『義疏』に「湯既に天に応じ、天罪を赦さず。故に凡そ罪有る者は、則ち湯も亦た敢えてほしいままには赦さざるなり」(湯既應天、天不赦罪。故凡有罪者、則湯亦不敢擅赦也)とある。また『注疏』に「言うこころは己は天に順い法を奉じ、罪有る者は敢えてほしいままには放赦せざるなり」(言己順天奉法、有罪者不敢擅放赦也)とある。
  • 帝臣不蔽。簡在帝心 … 『集解』の何晏の注に「言うこころは桀帝臣の位に居るなり。罪過有りて隠蔽す可からず。已に簡ぶこと天の心に在るなり」(言桀居帝臣之位也。有罪過不可隱蔽。已簡在天心也)とある。また『義疏』に「此れ罪有るの人を明らかにするなり。帝臣は、桀を謂うなり。桀は是れ天子なり。天子は天に事うる、猶お臣の君に事うるがごとし。故に桀を帝臣と為すと謂うなり。蔽わずとは、言うこころは桀の罪顕著にして、天地共に知り、隠蔽す可からざるなり」(此明有罪之人也。帝臣、謂桀也。桀是天子。天子事天、猶臣事君。故謂桀爲帝臣也。不蔽者、言桀罪顯著、天地共知、不可隱蔽也)とある。また『注疏』に「帝は、天なり。帝臣は、桀を謂うなり。桀は是れ天子、天子の天に事うること、猶お臣の君に事うるがごとし。故に桀を謂いて帝臣と為すなり。言うこころは桀帝臣の位に居るも、罪過を隠蔽す可からざるは、其の簡閲すること天心に在るが故を以てなり」(帝、天也。帝臣、謂桀也。桀是天子、天子事天、猶臣事君。故謂桀爲帝臣也。言桀居帝臣之位、罪過不可隱蔽、以其簡閲在天心故也)とある。また『集注』に「簡は、閲なり。言うこころは桀罪有れば、己敢えて赦さず。而れども天下の賢人は皆上帝の臣なれば、己敢えて蔽わず。簡ぶこと帝の心に在れば、惟だ帝の命ずる所のままにするなり。此れ其の初めに命を請いて桀を伐つを述ぶるの辞なり」(簡、閲也。言桀有罪、己不敢赦。而天下賢人皆上帝之臣、己不敢蔽。簡在帝心、惟帝所命。此述其初請命而伐桀之辞也)とある。
  • 朕躬有罪、無以万方。万方有罪、罪在朕躬 … 『集解』に引く孔安国の注に「万方を以てすること無しは、万方あずからざるなり。万方罪有るは、我が身の過ちなり」(無以萬方、萬方不與也。萬方有罪、我身之過也)とある。また『義疏』に「朕は、我なり。万方は、猶お天下のごときなり。湯言う、我自ら罪有れば、則ち我自ら之に当つるに有り。敢えて天下万方に関預せざるなり、と。若し万方の百姓罪有れば、則ち我が身に由るなり。我民の主と為りて、我善を欲して民善なり。故に罪有れば、則ち責を我に帰するなり」(朕、我也。萬方、猶天下也。湯言、我自有罪、則我自有當之。不敢關預於天下萬方也。若萬方百姓有罪、則由我身也。我爲民主、我欲善而民善。故有罪、則歸責於我也)とある。また『注疏』に「言うこころは我が身に罪有れば、汝の万方を用てすること無きは、万方はあずからざるなり。万方に罪有るは、過ちは我が身に在り。自ら化の至らざるを責むるなり」(言我身有罪、無用汝萬方、萬方不與也。萬方有罪、過在我身。自責化不至也)とある。また『集注』に「又た君に罪有るは、民の致す所に非ず、民に罪有るは、実に君の為す所なりと言えば、其の己を責むるに厚く、人を責むるに薄きの意を見る。此れ其の諸侯に告ぐるの辞なり」(又言君有罪、非民所致、民有罪、實君所爲、見其厚於責己、薄於責人之意。此其告諸侯之辭也)とある。
  • 罪在朕躬 … 『義疏』に「罪」の字なし。
  • 周有大賚。善人是富 … 『集解』の何晏の注に「周は、周家なり。賚は、賜なり。言うこころは周家天の大賜を受け、善人を富ますなり。乱臣十人有りは、是れなり」(周、周家也。賚、賜也。言周家受天大賜、富於善人也。有亂臣十人、是也)とある。また『義疏』に「此れ第四の重、周家の法を明らかにするなり。此れ以下は、是れ周紂を伐つとき民に誓うの辞なり。舜と堯とは同じく是れ揖譲す。謙して共に一辞を用う。武と湯と同じく是れ干戈なり。故に別に天に告ぐるの文をつくらず。即ち湯の天に告ぐるの文を用うるなり。而して此れ周民に誓うの文を述ぶ。而して湯の民に誓うの文を述べざるは、尚書も亦た湯誓有るなり。今、記す者互いに以て相明らかにせんと欲す。故に下に周誓を挙ぐれば、則ち湯其れ知る可きなり。周は、周家なり。賚は、賜なり。言うこころは周家天の大いなる賜を受く。故に富善人に足らしむるなり。或いは云う、周家大いに財帛を天下の善人に賜う。善人故に是れ富むるなり、と」(此第四重、明周家法也。此以下、是周伐紂誓民之辭也。舜與堯同是揖讓。謙共用一辭。武與湯同是干戈。故不爲別告天之文。即用湯之告天文也。而此述周誓民之文。而不述湯誓民文者、尚書亦有湯誓也。今記者欲互以相明。故下舉周誓、則湯其可知也。周、周家也。賚、賜也。言周家受天大賜。故富足於善人也。或云、周家大賜財帛於天下之善人。善人故是富也)とある。また『注疏』に「周は、周家なり。文王・武王岐周に居りて天下に王たり。故に周家と曰う。賚は、賜なり。周家は天の大いなる賜を受け、善人に富めり、乱臣十人有りは、是れなり」(周、周家也。文王武王居岐周而王天下。故曰周家。賚、賜也。周家受天大賜、富於善人、有亂臣十人、是也)とある。また『集注』に「此れ以下は、武王の事を述ぶ。賚は、予なり。武王商に克ち、大いに四海にたまう。周書の武成篇に見ゆ。此れ其の富む所の者は皆善人なるを言うなり。詩序に云う、賚は、善人にせきする所以なり、と、蓋し此に本づくならん」(此以下、述武王事。賚、予也。武王克商、大賚於四海。見周書武成篇。此言其所富者皆善人也。詩序云、賚、所以錫予善人、蓋本於此)とある。
  • 雖有周親、不如仁人。百姓有過、在予一人 … 『集解』に引く孔安国の注に「親にして不賢・不忠なれば、則ち之を誅す。管・蔡是れなり。仁人は、箕子・微子なり。来たれば則ち用うるなり」(親而不賢不忠、則誅之。管蔡是也。仁人、箕子微子。來則用也)とある。また『義疏』に「言うこころは周と親有りと雖も、而れども善を為さざれば、則ち罪せられてしりぞけらる。親無しと雖も、而れども仁者必ず禄爵有るに如かざるなり。此れ武王咎を引き自ら責むるの辞なり。江熙云う、此れより以上、大いにたまうに至るまで、周天に告ぐるの文なり。此れより以下は、修むる所の政なり。ゆずる者は命有るも告ぐる無し。舜の禹に命ずる一に堯に準ず。周天に告ぐる文少しく殷に異なる。異なる所の者此くの如し。其の体を存し備えを録せざるなり、と。侃按ずるに、湯桀を伐つの辞、皆天を云う。故に是れ天に告ぐるを知るなり。周紂を伐つの文、句句人を称す。故に是れ人に誓うを知るなり、と」(言雖與周有親、而不爲善、則被罪黜。不如雖無親、而仁者必有禄爵也。此武王引咎自責辭也。江熙云、自此以上、至大賚、周告天之文也。自此以下、所修之政也。禪者有命無告。舜之命禹一準於堯。周告天文少異於殷。所異者如此。存其體不録備也。侃按、湯伐桀辭、皆云天。故知是告天也。周伐紂文、句句稱人。故知是誓人也)とある。また『注疏』に「此れ武王の紂を誅すときに衆に誓うの辞なり。湯も亦た位を子孫に伝え、末孫の帝紂に至りて無道なり。周の武王伐ちて之を滅ぼさんとして、此の辞を以て衆に誓う。言うこころは周の親有りと雖も、不賢・不忠ならば、則ち之を誅す。管・蔡の若きは是れなり。仁徳有るの人の賢にして且つ忠なるには如かず。箕子・微子の来たらば則ち之を用うるが若きなり。百姓は、天下の衆民を謂うなり。言うこころは若し百姓を教えずして罪有らしむるは、過ちは当に我が一人の化の至らざるに在るべきなり」(此武王誅紂誓衆之辭。湯亦傳位子孫、至末孫帝紂無道。周武王伐而滅之、而以此辭誓衆。言雖有周親、不賢不忠、則誅之。若管蔡是也。不如有仁德之人賢而且忠。若箕子微子來則用之也。百姓、謂天下衆民也。言若不教百姓使有罪、過當在我一人之化不至也)とある。また『集注』に「此れ周書の泰誓の辞なり。孔氏曰く、周は、至るなり、と。言うこころは紂には至親多しと雖も、周家の仁人多きに如かず」(此周書泰誓之辭。孔氏曰、周、至也。言紂至親雖多、不如周家之多仁人)とある。
  • 謹権量、審法度、修廃官、四方之政行焉 … 『集解』に引く包咸の注に「権は、秤なり。量は、こくなり」(權、秤也。量、斗斛也)とある。また『義疏』に「此れ以下は第五の重、二帝三王の修むる所の政同じきを明らかにするなり。国をおさめざれば則ち已む。既に便ち当然と為すなり。謹は、猶お慎のごときなり。権は、称なり。量は、斗斛なり。当に称尺斗斛を謹慎すべきなり。審は、猶お諦のごときなり。法度は、国を治む可きの制典を謂うなり。宜しく之を審諦に分明ならしむべきなり。故を治むるを修と曰う。若し旧官廃する者有れば、則ちあらためて之を修立するなり。自ら権を謹み、若し皆法を得れば、則ち四方の風政並びに服行するなり」(此以下第五重、明二帝三王所修之政同也。不爲國則已。既爲便當然也。謹、猶愼也。權、稱也。量、斗斛也。當謹愼於稱尺斗斛也。審、猶諦也。法度、謂可治國之制典也。宜審諦分明之也。治故曰修。若舊官有廢者、則更修立之也。自謹權、若皆得法、則四方風政並服行也)とある。また『注疏』に「此の下は二帝・三王の政を行う所の法を揔言するなり。権は、秤なり。量は、斗斛なり。之をきんちょくして鈞平ならしむるなり。法度は、車服・旌旂の礼儀を謂うなり。之を審察して貴賤に別有りておかせまること無からしむるなり。官に廃闕する有れば、復た之を修治し、むなしきこと無からしむるなり。此くの如くんば、則ち四方の政化は興り行われん」(此下揔言二帝三王所行政法也。權、秤也。量、斗斛也。謹飭之使鈞平。法度、謂車服旌旂之禮儀也。審察之使貴賤有別無僭偪也。官有廢闕、復脩治之、使無曠也。如此、則四方之政化興行焉)とある。また『集注』に「権は、称錘なり。量は、斗斛なり。法度は、礼楽制度皆是れなり」(權、稱錘也。量、斗斛也。法度、禮樂制度皆是也)とある。
  • 四方之政行焉 … 『義疏』では「四方之政行矣」に作る。
  • 興滅国、継絶世、挙逸民、天下之民帰心焉 … 『義疏』に「若し国前人理に非ずして之を滅ぼすを為す者有れば、新王当にあらたつくりて之を興起すべきなり。賢人の世に絶たれて祀らざる者の若きは、当に為に後を立てて之に係り、仍ち享祀するを得しむべきなり。民中に才行超逸して仕えざる者有るが若きは、則ち躬ら之を朝廷に挙げて、官爵と為すなり。既に能く興・継、逸を挙ぐ。故に為に天下の民皆心を帰し、繦負して至るなり」(若有國爲前人非理而滅之者、新王當更爲興起之也。若賢人之世被絶不祀者、當爲立後係之、使得仍享祀也。若民中有才行超逸不仕者、則躬舉之於朝廷、爲官爵也。既能興繼、舉逸。故爲天下之民皆歸心、繦負而至也)とある。また『注疏』に「諸侯の国、人の理に非ざるの為に之を滅ぼさるる者は、復興して之を立つ。賢者は当に世に祀らるべきに、人の理に非ざるの為に之を絶たるる者は、則ち其の子孫を求めて、復た之を継がしむ。節行の超逸するの民の、隠居して未だ仕えざる者は、則ち挙げて之を用う。政化此くの若くんば、則ち天下の民は心を帰して、離析せざるなり」(諸侯之國、爲人非理滅之者、復興立之。賢者當世祀、爲人非理絶之者、則求其子孫、使復繼之。節行超逸之民、隱居未仕者、則舉用之。政化若此、則天下之民歸心焉、而不離析也)とある。また『集注』に「滅びたるを興し絶えたるを継ぐは、黄帝・堯・舜・夏・商の後を封ずるを謂う。逸民を挙ぐは、箕子の囚をゆるし、商容の位を復するを謂う。三者は皆人心の欲する所なり」(興滅繼絶、謂封黄帝堯舜夏商之後。舉逸民、謂釋箕子之囚、復商容之位。三者皆人心之所欲也)とある。
  • 所重民食喪祭 … 『集解』に引く孔安国の注に「民を重んずるは、国の本なればなり。食を重んずるは、民の命なればなり。喪を重んずるは、哀を尽くす所以なり。祭を重んずるは、敬を致す所以なり」(重民、國之本也。重食、民之命也。重喪、所以盡哀也。重祭、所以致敬也)とある。また『義疏』に「此の四事は並びに又た天下を治むる所、宜しく重かるべき者なり。国は民を以て本と為す。故に民を重んずるを先と為すなり。民は食を以て活を為す。故に次に食を重んずるなり。生有れば必ず死有り。故に次に喪を重んずるなり。喪わりて之が宗廟をつくり、鬼を以て之を享す。故に次に祭を重んずるなり」(此四事並又治天下所、宜重者也。國以民爲本。故重民爲先也。民以食爲活。故次重食也。有生必有死。故次重於喪也。喪畢爲之宗廟、以鬼享之。故次重祭也)とある。また『注疏』に「帝王の重んずる所に此の四事有るを言う。民を重んずるは、国の本なればなり。食を重んずるは、民の命なればなり。喪を重んずるは、哀を尽くす所以なり。祭を重んずるは、敬を致す所以なり」(言帝王所重有此四事。重民、國之本也。重食、民之命也。重喪、所以盡哀。重祭、所以致敬)とある。また『集注』に「武成曰く、民に重んずるは五教、惟れ食喪祭、と」(武成曰、重民五教、惟食喪祭)とある。
  • 寛則得衆、信則民任焉。敏則有功、公則説 … 『集解』に引く孔安国の注に「言うこころは政教公平なれば、則ち民悦ぶ。凡そ此れ二帝・三王の治むる所以なり。故に伝えて以て後世に示すなり」(言政教公平、則民悦矣。凡此二帝三王所以治也。故傳以示後世也)とある。また『義疏』に「君上若し能く寛を為せば、則ち衆の共に帰する所なり。故に云う、衆を得るなり、と。君事を行うに若し儀用て敏疾なれば、則ち功大いに成し易し。故に云う、功有るなり、と。君若し事を為すに公平なれば、則ち百姓皆歓悦するなり」(爲君上若能寛、則衆所共歸。故云、得衆也。君行事若儀用敏疾、則功大易成。故云、有功也。君若爲事公平、則百姓皆歡悦也)とある。また『注疏』に「又た帝王の徳は、務めて寬簡・示信・敏速・公平に在るを言うなり。寬なれば則ち人の帰附する所となる。故に衆を得。信なれば則ち民は聴きて惑わず、皆己の任用と為す。敏なれば則ち事は成らざる無し。故に功有り。政教公平なれば、則ち民は説ぶ。凡そ此の上事は、二帝・三王の治むる所以なり。故に之を伝えて以て後世に示す」(又言帝王之德、務在寬簡示信敏速公平也。寬則人所歸附。故得衆。信則民聽不惑、皆爲己任用焉。敏則事無不成。故有功。政教公平、則民説。凡此上事、二帝三王所以治也。故傳之以示後世)とある。また『集注』に「此れ武王の事に於いて見る所無し。恐らくは或いはひろく帝王の道を言うならん」(此於武王之事無所見。恐或泛言帝王之道也)とある。
  • 信則民任焉 … 『義疏』にはこの句なし。
  • 公則説 … 『義疏』では「公則民説」に作る。
  • 公 … 宮崎市定は「ここにあるような公平という德目の意に使われている例は外にないのである」と指摘し、「惠」に改めている。詳しくは『論語の新研究』88頁以下参照。
  • 『集注』に引く楊時の注に「論語の書、皆聖人の微言にして、其の徒之を伝え守り、以て斯道を明らかにする者なり。故に終篇に於いてつぶさに堯舜咨命の言、湯武誓師の意と、これを政事に施す者とを載せて、以て聖学の伝うる所の者、是に一なるを明らかにするのみ。二十篇の大旨を著明にする所以なり。孟子の終篇に於けるも、亦た堯・舜、湯・文、孔子相承くるの次を暦叙す。皆此の意なり」(論語之書、皆聖人微言、而其徒傳守之、以明斯道者也。故於終篇具載堯舜咨命之言、湯武誓師之意、與夫施諸政事者、以明聖學之所傳者、一於是而已。所以著明二十篇之大旨也。孟子於終篇、亦暦叙堯舜湯文孔子相承之次。皆此意也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「上古の聖人、其の道磅礴ほうはくこうびょう、中行に過ぎて、人倫に切ならず。天下国家の治に益無き者、或いは之れ有り。故に堯まことに其の中を執れというを以て、之を舜に命ず。而して舜庶物に明らかに、人倫に察し、仁義に由りて行う。仁義を行うに非ざるなり。此れ舜の能く堯の道を継ぐ所以なり。論に曰く、古文尚書大禹謨の篇に、亦た此の言を載せ、加うるに人心道心、危微精一等の語を以てす。然れども此の篇唯だ舜亦た以て禹に命ずと曰うを見れば、則ち堯の舜に命じ、舜の禹に命ずる、皆此の二十二字に止まりて、危微精一等の語無きこと、知る可し。宋明の諸儒亦た或いは大禹謨の真の古文に非ざるを疑いて、以て漢儒の偽作と為す。大抵たいてい諸経論孟中の語に依り傚い、併せて其の字句を窃みて、之を縁飾す。而るに荀子も亦た人心之れ危うく、道心之れ微なりの二句を引き、道経に曰くと称して、虞書と称せざれば、則ち知る此の語本堯舜授受の語に非ざること明らかなるを。蓋し唐虞の際、其の言論平易朴実、専ら人を知り政を論ずるの間に在りて、後世心性精微の論無し。故に知る大禹謨の篇は、実に漢儒の手に出でて、堯舜告命の詞、此の二十二字に止まるのみ、と。……堯舜湯武の道は、天を敬し民を重んずる二者に過ぎずして、天を敬するは其の本なり。曰く、天の暦数爾のに在り、と。曰く、えらぶこと帝の心に在り、と。曰く、周に大いなるたまもの有り、と。皆天を敬する所以に非ざること莫きなり。凡そ善を賞し悪を罰し、己を責め人を恕するは、此の心を推す所以なり。夫子祖述憲章する所以の者、此に外ならず。……此の章旧本には前章に通じて、合わせて一章と為す。然れども武王の事に於いて見ること無し。而して前篇子張仁を問うの章と、略〻ほぼ同じくして其の半ばを逸す。かしこには恭なれば則ち侮られずの一句有りて、公なれば則ち説ぶを、恵なれば則ち以て人を使うに足るに作る。疑うらくは下章子張の問い有るに因りて、誤りて再び出だすかと。論に曰く、宋儒つねに公の字を以て、学問の緊要と為す。曰く、天理の公、と。曰く、公にして人を以て之を体す、と。是れなり。然れども公の字屢〻しばしば老荘の書に見ゆれども、吾が聖人の書に於いて之れ無し。何となれば是を是として非を非とし、少しくも偏私する所無し、之を公と謂う。然れども親疎を択ばず、概して之を行えば、則ち必ず義に害有り。夫れ父は子の為に隠し、子は父の為に隠し、越人弓をきて之を射れば、則ち己談笑して之をい、其の兄弓をきて之を射れば、則ち涕泣を垂れて之を道うは、公と謂う可からず。然れども人情の至りは、道の存する所なり。故に聖人は仁以て其の愛を尽くし、義以て其の弁を立つ。猶お天道の陰陽有り、地道の剛柔有るがごとく、偏廃す可からざるなり。故に仁にして義無ければ、則ち墨子の仁にして、行う可からざるなり。義にして仁無ければ、則ち楊子の義にして、従う可からざるなり。苟くも仁に居り義に由れば、則ち公を言うことを待たずして、自ら偏私する所無し、と」(上古之聖人、其道磅礴浩渺、過乎中行、而不切於人倫。無益於天下國家之治者、或有之。故堯以允執其中、命之於舜。而舜明於庶物、察於人倫、由仁義行。非行仁義也。此舜之所以能繼堯之道也。論曰、古文尚書大禹謨篇、亦載此言、加以人心道心、危微精一等語。然見此篇唯曰舜亦以命禹、則堯之命舜、舜之命禹、皆止此二十二字、而無危微精一等語、可知矣。宋明諸儒亦或疑大禹謨之非眞古文、以爲漢儒之僞作。大抵依傚諸經論孟中語、併竊其字句、而縁飾之。而荀子亦引人心之危、道心之微二句、稱道經曰、而不稱虞書、則知此語本非堯舜授受之語明矣。蓋唐虞之際、其言論平易朴實、專在於知人論政之間、而無後世心性精微論。故知大禹謨篇、實出於漢儒之手、而堯舜告命之詞、止於此二十二字耳矣。……堯舜湯武之道、不過敬天重民二者、而敬天其本也。曰天之暦數在爾躳。曰簡在帝心。曰周有大賚。皆莫非所以敬天也。凡賞善罸惡、責己恕人、所以推此心也。夫子所以祖述憲章者、不外於此。……此章舊本通前章、合爲一章。然於武王之事無見。而與前篇子張問仁章、略同而逸其半。彼有恭則不侮一句、而公則説、作惠則足以使人。疑因下章有子張之問、而誤再出歟。論曰、宋儒毎以公字、爲學問之緊要。曰天理之公。曰公而以人體之。是也。然公字屢見老莊之書、而於吾聖人之書無之。何者是是而非非、少無所偏私、謂之公。然不擇親疎、槩而行之、則必有害於義。夫父爲子隱、子爲父隱、越人關弓而射之、則己談笑而道之、其兄關弓而射之、則垂涕泣而道之、不可謂公。然人情之至、道之所存也。故聖人仁以盡其愛、義以立其辨。猶天道之有陰陽、地道之有剛柔、不可偏廢也。故仁而無義、則墨子之仁、不可行也。義而無仁、則楊子之義、不可從也。苟居仁由義、則不待言公、而自無所偏私矣)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「天の暦数爾の躬に在り。何晏曰く、暦数は、列次を謂うなり。朱子之に因りて曰く、帝王相継ぐの次第、猶お歳時節気の先後のごときなり、と。仁斎曰く、暦数とは、歳時節気をしるして以て民に時を授くる者なり。爾の躬に在りは、天地の道を財成輔相するを謂うなり。書に所謂天工人其れ之に代わる、是れなり、と。古書は誠に艱奥なり。然れども二説皆謎の如し。豈に之れ有らんや。且つ仁斎の財成輔相の解は、亦た高妙なるかな。唐・の時豈に是の言有らんや。蓋し古先聖王の道、天を奉ずるを以て本と為す。故に堯典には它事無く、唯だつつしんで昊天こうてんしたがい、民に時を授くること有るのみ。舜典の天叙・天秩・天工、皆天を称して以て之を行い、義・和天官を以て四岳を分主し方伯と為る。夫れ唐虞夏の道は一なり。故に左伝・呂覧二典三謨を合称し夏書と為す。孔子曰く、夏の時を行う、と。此れ堯舜の時に在りては、其の所謂暦数なる者、政治の道是れに尽く。故に孔子の所謂夏の時は、建寅けんいんの一事を指すのみならざるのみ。暦数は人の作る所なるに、天の暦数と曰うも、亦た猶お天叙・天秩の如きのみ。四岳は即ちはくにして、舜の百揆たること久し。既已すでに躬其の職に任じたれば、故に爾の躬に在りと曰う。おうを語るなり。まことに其のちゅうを執るは、帝位を践むを謂うなり。古来過不及無きの理を執ると相伝うるは、非なり。蓋し中を執るは猶おすうを執ると云うがごとし。古え皇極を訓じて大中と為す。是れ亦た漢時古えより相伝授するの説にして、非とす可からざるなり。古先聖王つつしみて昊天にしたがいて以て民に臨む。かみに天有り、しもに民有り、而うして天子其の中間に立ち、其の枢柄を握る。是れ所謂皇極なり。故に古え帝位を践むを謂いて其のちゅうを執ると為すのみ。然らずんば、子思中庸の書を作り、援引具至せるに、何ぞ一たび堯舜授受の言をきて以て根本と為さざるや。若し旧解に従いて、以て過不及無きの理を執ると為せば、則ち上下の文勢大いに相こうむらず。豈に是の理有らんや。四海困窮せば、天禄永く終えん。註は憒憒かいかいたり。朱子之を得たり。堯舜に授け、舜禹に授くる、惟だ天を奉じて儆戒けいかいするのみ。孔子顔淵に仁を為すを告ぐるに、唯だ身を修むるを以てす。先聖後聖其のは一なりと謂う可し。後儒は必ず一びょうの言の道徳仁義の如き者を得て、以て孔子の祖述する所を見んと欲す。是れ自ずから理学者流のけんにして、ろうなるかな。仁斎又た此の章及び荀子の道経の言に拠りて、大禹謨の危微精一を以て漢儒の偽作と為す。是れ其の人深く孟子を信じ、是れに坐するが故に復た意を書に留めず、徒らに朱子の解を以て書を解して之をそしるのみ。蓋し民心の畏る可きこと、きゅうさくりくぎょするが如し、故に人心惟れ危うしと曰う。民心を導くこと、其の微に於いてし、其のあらわれたるに於いてせずんば、以て其の治を保つ可きにちかし。故に道心惟れ微と曰う。精とは静なり。天下を治むる者、清静専一を務め、敢えて軽忽けいこつにせずして、以て其の位を践む。故に惟れ精惟れ一まことに其の中を執ると曰う。荀子の文を味わうに、其の意亦た此くの如し。而うして所謂道経も、亦た夏・道篆文相近きが故に誤るのみ。夫れ荀子は儒者なり。豈に老・墨の書をかんや。故に尚書の言う所も、亦た惟だ儆戒の言にして、其の実は論語の載する所と殊なる者有ること莫し。故に曰く、舜も亦た以て禹に命ず、と。豈に仁斎が字数にかかわる者の比の如くならんや。孟子ばくが中を執るを譏る。中の執るというを以て言う可からざるを見る可きのみ。皇皇たる后帝、孔安国曰く、皇は大、后は君なり。大大たる君帝は天帝を謂うなり、と。朱註此れを引かず。故に詳らかにす。帝臣、古註に以て桀と為す。朱註之を得たり。周に大賚たいらい有り、善人に是れ富む。何晏曰く、言うは周家天の大賜を受け、善人に富む。乱臣十人有り、と。之を得たり。朱註に、富む所の者は皆善人、と。聖世と雖も豈に是の理有らんや。周親有りと雖も、仁人に如かず。朱註に、紂は至親多しと雖も、周家の仁人多きに如かず、と。之を得たり。孔安国は管・蔡を誅し箕・微を用うというを以て之を解す。殊に辞に得ずと為す。廃官を修む、仁斎古え官を世〻よよにして子孫相守るというを以て之を解す。古えは誠に之れ有り。然れども豈に之を此に引く可けんや。且つ古えの官を世〻にするは、亦た有司を謂うのみ。春秋に官を世〻にすることを譏れば、則ち公卿大夫の官を世〻にせざるは、古えの道なり。寬なるときは則ち衆を得。信なるときは則ち民任ず。敏なるときは則ち功有り。公なるときは則ち説ぶ。仁斎曰く、此の章旧本には前章に通じて合わせて一章とす。然れども武王の事に於いて見ゆる無し。而うして前篇の子張問仁章と略〻ほぼ同じうして其の半ばを逸す。かしこに恭なるときは則ち侮られずの一句有りて、公なるときは則ち説ぶを恵なるときは則ち以て人を使うに足るに作る。疑うらくは下章に子張の問い有るに因りて誤って再出するかと。善く論語を読むと謂う可きのみ。然れども又たいずくんぞ其の孔子別に言う所有りて子張に答うる者と相類するに非ざるを知らんや。其の論語に公の字無きを以てして宋儒を駁するに至りては、則ちあつものに懲りてせいを吹く者の比のみ。宋儒の所謂天理の公は、其のみなもと誠に老荘の見に出づ。然れども聖人豈に公を悪まんや。偏無く党無しは、皇極の敷言なり。民の好む所は之を好み、民の悪む所は之を悪むは、豈に公に非ずや。君子の道、一を執りて百を廃するを悪む。故に宋儒が一の公の字を拈ずると、仁斎が公の字を悪むとは、其の失まさに相同じきなり」(天之暦數在爾躬。何晏曰、暦數、謂列次也。朱子因之曰、帝王相繼之次第、猶歳時節氣之先後也。仁齋曰、暦數者、紀歳時節氣以授民時者也。在爾躬、謂財成輔相天地之道。書所謂天工人其代之、是也。古書誠艱奧。然二説皆如謎。豈有之哉。且仁齋財成輔相之解、亦高妙哉。唐虞時豈有是言乎。蓋古先聖王之道、以奉天爲本。故堯典無它事、唯有欽若昊天、授民時耳。舜典天叙天秩天工、皆稱天以行之、義和以天官分主四嶽爲方伯。夫唐虞夏之道一矣。故左傳呂覽合稱二典三謨爲夏書。孔子曰、行夏時。此在堯舜時、其所謂暦數者、政治之道盡是焉。故孔子所謂夏時、不啻指建寅一事已。暦數人所作、而曰天之暦數、亦猶如天叙天秩焉耳。四嶽即百揆、舜爲百揆日久。既已躬任其職、故曰在爾躬。語已往也。允執其中、謂踐帝位也。古來相傳執無過不及之理、非也。蓋執中猶云執樞。古訓皇極爲大中。是亦漢時自古相傳授之説、不可非也。古先聖王欽若昊天以臨民。上有天、下有民、而天子立其中間、握其樞柄。是所謂皇極也。故古謂踐帝位爲執其中耳。不然、子思作中庸書、援引具至、何不一援堯舜授受之言以爲根本也。若從舊解、以爲執無過不及之理、則上下文勢大不相蒙。豈有是理乎。四海困窮、天祿永終。何註憒憒。朱子得之。堯授舜、舜授禹、惟奉天儆戒而已。孔子告顏淵爲仁、唯以脩身。可謂先聖後聖其揆一也。後儒必欲得一微眇之言如道德仁義者、以見孔子所祖述。是自理學者流之見、陋矣哉。仁齋又據此章及荀子道經之言、而以大禹謨危微精一爲漢儒僞作。是其人深信孟子、坐是故不復留意於書、徒以朱子解解書而譏之耳。蓋民心可畏、如朽索之馭六馬、故曰人心惟危。導民心、於其微、不於其著、庶可以保其治。故曰道心惟微。精者靜也。治天下者、務清靜專一、不敢輕忽、以踐其位。故曰惟精惟一允執其中。味荀子之文、其意亦如此。而所謂道經、亦夏道篆文相近故誤耳。夫荀子儒者也。豈援老墨之書邪。故尚書所言、亦惟儆戒之言、其實與論語所載莫有殊者。故曰、舜亦以命禹。豈如仁齋拘字數者比乎。孟子譏子莫執中。可見中之不可以執言也已。皇皇后帝、孔安國曰、皇大、后君也。大大君帝謂天帝也。朱註不引此。故詳焉。帝臣、古註以爲桀。朱註得之。周有大賚、善人是富。何晏曰、言周家受天大賜、富於善人。有亂臣十人。得之。朱註、所富者皆善人。雖聖世豈有是理乎。雖有周親、不如仁人。朱註、紂至親雖多、不如周家之多仁人。得之。孔安國以誅管蔡用箕微解之。殊爲不得乎辭矣。脩廢官、仁齋以古者世官子孫相守解之。古誠有之。然豈可引之於此乎。且古之世官、亦謂有司耳。春秋譏世官、則公卿大夫不世官、古之道也。寬則得衆。信則民任焉。敏則有功。公則説。仁齋曰、此章舊本通前章合爲一章。然於武王之事無見。而與前篇子張問仁章略同而逸其半。彼有恭則不侮一句、而公則説作惠則足以使人。疑因下章有子張之問而誤再出歟。可謂善讀論語已。然又烏知其非孔子別有所言而與答子張者相類邪。至於其以論語無公字而駁宋儒、則懲羹吹齏者比已。宋儒所謂天理之公、其原誠出老莊之見焉。然聖人豈惡公邪。無偏無黨、皇極之敷言也。民之所好好之、民之所惡惡之、豈非公乎。君子之道、惡執一而廢百。故宋儒拈一公字、與仁齋惡公字、其失適相同也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十