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泰伯第八 20 舜有臣五人章

204(08-20)
舜有臣五人、而天下治。武王曰、予有亂臣十人。孔子曰、才難。不其然乎。唐虞之際、於斯爲盛。有婦人焉、九人而已。三分天下有其二、以服事殷。周之德、可謂至德也已矣。
しゅんしんにんりて、てんおさまる。おういわく、われ乱臣らんしんじゅうにんり。こういわく、さいかたしと。しからずや。とうさいこれよりさかんなりとす。じんり、にんのみ。てん三分さんぶんしてたもち、もっいんふくす。しゅうとくは、とくきのみ。
現代語訳
  • 舜帝には部下が五人いて、世のなかがおさまった。(周の)武王は、「うできき十人をかかえた。」といった。孔先生 ――「『人物難』とは、まったくだな。堯・舜のころよりも、周のほうが多い。だが女がいたから、じつは九人だ。それで天下を三つにした二つをもち、しかも殷につかえていた。周のゆかしさは、この上もないものといえるだろう。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 舜には賢臣が五人あって天下が治まった。武王は、自分には乱を治める重臣が十人ある、と言った。それについて孔子様がおっしゃるよう、「人才はがたし、という古語があるが、なるほどそうではないか。堯舜以来周が人材あることにおいて一番盛んだったが、十人のうち一人は女で男は九人だった。しかしともかくもそれだけの人材があったので、天下の三分の二までがその勢力下にはいったが、それでもなおいんに臣としてつかえていた。文王ぶんのう時代の周はまことに徳のごくなものといってさしつかえない。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 舜帝には五人の重臣があって天下が治まった。周の武王は、自分には乱を治める重臣が十人あるといった。それに関連して先師がいわれた。――
    「人材は得がたいという言葉があるが、それは真実だ。とうの時代をのぞいて、それ以後では、周が最も人材に富んだ時代であるが、それでも十人に過ぎず、しかもその十人のうち一人は婦人で、男子の賢臣はわずかに九人にすぎなかった」
    またいわれた。――
    「しかし、わずかの人材でも、その有る無しでは大変なちがいである。周の文王は天下を三分してその二を支配下におさめていられたが、それでもいんに臣事して秩序をやぶられなかった。文王時代の周の徳は至徳というべきであろう」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 舜 … 古代の伝説上の聖天子。姓はよう。虞に国を建てたので虞舜、または有虞氏と呼ばれる。堯から譲位を受け皇帝となった。ウィキペディア【】参照。
  • 臣五人 … 賢臣が五人。しょくせつ皋陶こうよう伯益はくえきを指す。すべて伝説上の人物。禹は、舜から譲位を受け皇帝となった。夏王朝の始祖。大洪水を治め、治水に功績があった。ウィキペディア【】参照。稷は、后稷。周王朝の始祖。姓は姫、名は棄。高辛氏帝こくの子。舜に仕え、后稷(農事を掌る官)となったことから、后稷と呼ばれる。ウィキペディア【后稷】参照。契は、殷王朝の始祖。帝こくの子。禹を助けて功績があった。ウィキペディア【契 (殷)】参照。皋陶は、字は廷堅。刑罰を掌り、獄を作ったという。ウィキペディア【皋陶】参照。伯益は、皋陶の子。舜に仕え、虞官(山沢を掌る官)に任ぜられた。ウィキペディア【益 (中国神話)】参照。
  • 武王 … 周王朝の初代の王。文王の子。姓は姫、名は発。殷のちゅう王を滅ぼして周の国を建てた。ウィキペディア【武王 (周)】参照。
  • 乱臣 … 天下をよく治める賢臣。「乱」は、治めるという意。これを反訓はんくん(一つの字の中に正反対の意味を含むこと)という。
  • 十人 … 周公旦・召公せき・太公望・畢公・栄公・太顚・閎夭こうよう・散宜生・南宮かつたい(文王の正妻)を指す。
  • 才難 … 人材は得難い。古語。
  • 唐虞之際 … 堯・舜の時代以降。「唐」は、陶唐氏の略で堯のこと。「虞」は、有虞氏の略で舜のこと。「際」は、以下・以降。劉宝楠『論語正義』に「際は、猶おのごときなり、後なり」(際、猶下也、後也)とある。なお古注では「際」を「交代期」「移行期」と解釈している。
  • 於斯為盛 … 「斯」は、周の創業時代を指す。「於斯」を「ここに於いて」と読み、「周の創業時代が、最も人材に恵まれた」と解釈する説と、「これより」と読み、「周の創業時代よりも、ずっと人材に恵まれた」と解釈する説とに分かれる。
  • 三分天下有其二 … 天下を三つに分け、その二つを支配下におさめた。
  • 服事 … 服従して仕えること。
  • 至徳 … 最上の徳。
  • 也已矣 … 「のみ」と読み、「~なのだ」と訳す。強い断定をあらわす助辞。「也已」よりも強い。
補説
  • 『注疏』に「此の章は大才の得難きを論ずるなり」(此章論大才難得也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 舜有臣五人、而天下治 … 『集解』に引く孔安国の注に「しょくせつ皋陶こうよう伯益はくえきなり」(禹、稷、契、皋陶、伯益也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「記す者又た舜の徳をむるなり。五人とは、禹一・稷二・契三・皋陶四・伯益五なり。言うこころは舜此の五臣有りて、共に天下を治む。故に治まるなり」(記者又美舜德也。五人者、禹一、稷二、契三、皋陶四、伯益五也。言舜有此五臣、共治天下。故治也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「言うこころは帝舜の時、大才の臣五人有りて、天下大いに治まる。五人とは、禹なり、稷なり、契なり、皐陶なり、伯益なり」(言帝舜時、有大才之臣五人、而天下大治。五人者、禹也、稷也、契也、皐陶也、伯益也)とある。また『集注』に「五人は、禹・稷・契・皋陶・伯益」(五人、禹、稷、契、皋陶、伯益)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 武王曰、予有乱臣十人 … 『集解』に引く孔安国(『義疏』では馬融)の注に「乱は、治なり。官をおさむる者は十人なり。周公旦・召公せき・太公望・畢公・栄公・太顚・閎夭こうよう・散宜生・南宮かつを謂うなり。其の余の一人を文母と謂うなり」(亂、治也。理官者十人也。謂周公旦、召公奭、太公望、畢公、榮公、太顚、閎夭、散宜生、南宮适也。其餘一人謂文母也)とある。また『義疏』に「武王は、周の発なり。予は、我なり。乱は、理なり。武王曰く、我共に天下を理むる者有り。十人有るなり」(武王、周發也。予、我也。亂、理也。武王曰、我有共理天下者。有十人也)とある。また『注疏』に「乱は、治なり。周の武王曰く、我に治官の臣十人有りとは、謂えらく周公旦なり、召公奭なり、太公望なり、畢公なり、栄公なり、太顚なり、閎夭なり、散宜生なり、南宮适なり。其の一人は文母を謂うなり、と」(亂、治也。周武王曰、我有治官之臣十人者、謂周公旦也、召公奭也、太公望也、畢公也、榮公也、太顚也、閎夭也、散宜生也、南宮适也。其一人謂文母也)とある。また『集注』に「十人は、周公旦・召公せき・太公望・畢公・栄公・太顚・閎夭こうよう・散宜生・南宮かつを謂い、其の一人を文母と謂う。劉侍読以為おもえらく、子に母を臣とするの義無し。蓋しゆうきょうならん。九人は外を治め、邑姜は内を治む。或ひと曰く、乱は、本と乿に作る。古えの治の字なり」(十人、謂周公旦、召公奭、太公望、畢公、榮公、太顚、閎夭、散宜生、南宮适、其一人謂文母。劉侍讀以為子無臣母之義。蓋邑姜也。九人治外、邑姜治内。或曰、亂、本作乿。古治字也)とある。乿は、治の異体字。
  • 乱臣十人 … 『経典釈文』では「乱十人」に作り、「と或いは乱臣十人に作る、非なり」(本或作亂臣十人、非)とある。ウィキソース「經典釋文 (四庫全書本)/卷24」参照。
  • 孔子曰 … 『集注』に「孔子と称する者は、上は武王の君臣の際に係われば、記す者之を謹む」(稱孔子者、上係武王君臣之際、記者謹之)とある。
  • 才難。不其然乎 … 『義疏』に「記す者先ず虞・周二国の臣数を列して、而る後に孔子の言を下に書するなり。孔子歎じて曰く、良才の得難きこと其れ此くの如からずや、と。此くの如くなるを言う」(記者先列虞周二國之臣數、而後書孔子之言於下也。孔子歎曰、良才之難得不其如此乎。言如此)とある。また『注疏』に「記する者舜及び武王の時の大才の人を上に挙げ、遂に孔子の言を下に載す」(記者舉舜及武王之時大才之人於上、遂載孔子之言於下)とある。また『集注』に「才難しは、蓋し古語にして、孔子之を然りとするなり。才は、徳の用なり」(才難、蓋古語、而孔子然之也。才者、徳之用也)とある。
  • 唐虞之際、於斯為盛。有婦人焉、九人而已 … 『集解』に引く孔安国の注に「唐とは、堯の号なり。虞とは、舜の号なり。際とは、堯・舜交会の間なり。斯は、此なり。此れ周に於けるなり。言うこころは堯・舜交会の間、此の周に比すれば、周は最も盛んにして、賢多し。然るに尚お一婦人有り、其の余は九人のみ。大才の得難きは、豈に然らざらんや」(唐者、堯號也。虞者、舜號也。際者、堯舜交會之間也。斯、此也。此於周也。言堯舜交會之間、比於此周、周最盛、多賢。然尚有一婦人、其餘九人而已。大才難得、豈不然乎)とある。また『義疏』に「此れは是れ才難きの証なり。唐・虞は、堯・舜天下をたもつの号なり。際とは、堯・舜の交代の間を謂うなり。斯は、此なり。此は、周を謂うなり。言うこころは唐・虞二代の交際、共に此の五臣有り。若し此の周に比すれば、周最も盛んなりと為すなり。盛んなりと為すと雖も、尚お十人に満たず。十人の中に文母有り。一婦人を十人の数と為す。所以に是れ才難きなり。季彪難くして曰く、舜の五臣は、一聖四賢なり。八元、八凱、十有六人あり。左氏の明文に拠るに、或いは斉聖と称し、或いは明哲と云う、聖人に非ずと雖も、抑〻そもそも亦た其の次なり。周公一人は禹と対を為す可し、太公召公は是れ稷契に当たる、畢公より以下は、恐らくは元凱に及ばざらんことを。就いて復た強いて相攀じ継ぐとも数交〻こもごも少なし、何が故ぞ唐虞の人士反って周朝の盛んなるに如かざらんや。彪以為おもえらく斯は此なり、蓋し周と。今云く、唐虞の際は、此に於いて盛んなりと為す、言うこころは唐虞の朝、周室より盛んなり。周室隆んなりと雖も、唐虞に及ばざること、由来ひさし。故に曰く、巍巍蕩蕩として之を能く名づくること莫し、と。今更に唐虞の人士を周室に如かずと謂いて、旧義に反易すれば、更に殊説を生じて、しろ異端を攻めて、正訓を害すること有らんか、と。侃案ずるに、師の説に曰く、季氏の意は極めて自らまことに春秋にかない、堯舜にかない当たる、但だ既に多才にして周に勝れりとす、而して孔子唯だ両代に五人有りと云うことは、別にゆえ有るなり。周の徳の唐虞より隆んにして、賢才堯舜にまされども、而れども猶お殷の紂に事うることを盛んに美めんと欲す、故に特に唐虞は五にして周代は十と云うなり。又た明らかに婦人有りと言うことは、周代の盛んなるを明らかにす、唯だ丈夫の才のみにあらず、抑〻そもそも婦人は之れ能く政化をただたすくるなり、と」(此是才難之證也。唐虞、堯舜有天下之號也。際者、謂堯舜交代之間也。斯、此也。此、謂周也。言唐虞二代交際、共有此五臣。若比於此周、周最爲盛。雖爲盛、尚不滿十人。十人之中有文母。一婦人爲十人之數。所以是才難也。季彪難曰、舜之五臣、一聖四賢。八元、八凱、十有六人。據左氏明文、或稱齊聖、或云明哲、雖非聖人、抑亦其次也。周公一人可與禹爲對、太公召公是當稷契、自畢公以下、恐不及元凱。就復強相攀繼而數交少、何故唐虞人士反不如周朝之盛也耶。彪以爲斯此也、蓋周也。今云、唐虞之際、於此爲盛、言唐虞之朝、盛於周室。周室雖隆、不及唐虞、由來尚矣。故曰、巍巍蕩蕩、莫之能名。今更謂唐虞人士不如周室、反易舊義、更生殊説、無乃攻乎異端、有害於正訓乎。侃案、師説曰、季氏之意極自允會春秋、合當堯舜、但既多才勝周、而孔子唯云兩代有五人者、別有以也。欲盛美周德隆於唐虞、賢才多乎堯舜、而猶事殷紂、故特云唐虞五而周十也。又明言有婦人者、明周代之盛、匪唯丈夫之才、抑婦人之能匡弼於政化也)とある。また『注疏』に「唐とは、堯の号、虞とは、舜の号、際とは、堯・舜の交会の間なり。斯は、此なり。言うこころは堯・舜の交会の間は、此の周に比せられ、周を最も盛んにして賢才多しと為すなり。然れども尚お一婦人有りて、其の余は九人のみ。大才は得難しとは、豈に然らざらんや」(唐者、堯號、虞者、舜號、際者、堯舜交會之間也。斯、此也。言堯舜交會之間、比於此周、周最爲盛多賢才也。然尚有一婦人、其餘九人而已。大才難得、豈不然乎)とある。また『集注』に「唐虞は、堯舜の天下をたもつの号。際は、交会の間。言うこころは周室の人才の多き、惟だ唐・虞の際のみ、乃ち此より盛んなり。夏・商より降りて、皆及ぶこと能わず。然るに猶お但だ此の数人有るのみ。是れ才の得難きなり」(唐虞、堯舜有天下之號。際、交會之間。言周室人才之多、惟唐虞之際、乃盛於此。降自夏商、皆不能及。然猶但有此數人爾。是才之難得也)とある。
  • 三分天下有其二、以服事殷 … 『集解』に引く包咸の注に「殷の紂は淫乱にして、文王は西伯と為りて聖徳有り。天下の周に帰する者は、三分して二をたもつも、而れども猶お以て殷に服事す。故に之を至徳と謂うなり」(殷紂淫亂、文王爲西伯而有聖德。天下之歸周者、三分有二、而猶以服事殷。故謂之至德也)とある。また『義疏』に「参は、三なり。天下に九州有り。文王は雍州の西伯と為り、六州は文王に化属す。故に天下を三分して二をたもつも、猶お殷に服事すと云うなり」(參、三也。天下有九州。文王爲雍州西伯、六州化屬文王。故云三分天下有二、猶服事於殷也)とある。また『注疏』に「此れ孔子因りて周の文王の至聖の徳有るを美むるなり。言うこころは殷紂は淫乱、文王西伯と為りて聖徳有り。天下周に帰する者は三分して二を有つも、而も猶お以て殷に服事す。……鄭玄又た云う、時に於いて天下を三分し、其の二をたもち、以て殷に服事す。故に雍・梁・荊・豫・徐・楊の人、な其の徳を被りて之に従う、と」(此孔子因美周文王有至聖之德也。言殷紂淫亂、文王爲西伯而有聖德。天下歸周者三分有二、而猶以服事殷。……鄭玄又云、於時三分天下、有其二、以服事殷。故雍、梁、荊、豫、徐、楊之人、咸被其德而從之)とある。また『集注』に「春秋伝に曰く、文王、商の畔国を率いて、以て紂に事う、と。蓋し天下文王に帰す者六州、荊・梁・雍・・徐・揚なり。惟だ青・えんのみ、尚お紂に属すのみ」(春秋傳曰、文王率商之畔國、以事紂。蓋天下歸文王者六州、荊、梁、雍、豫、徐、揚也。惟青、兖、冀、尚屬紂耳)とある。
  • 三分 … 『義疏』では「參分」に作る。
  • 周之徳、可謂至徳也已矣 … 『義疏』に「聖徳の盛んなりと雖も、猶お悪逆の君に服事す。故に徳の至極を為すと謂う可き者なり」(雖聖德之盛、猶服事惡逆之君。故可謂爲德之至極者也)とある。また『注疏』に「故に之を至徳と謂うなり」(故謂之至德也)とある。
  • 周之徳 … 『義疏』では「周徳」に作る。
  • 可謂至徳 … 『義疏』はじめ諸本では「其可謂至徳」に作る。
  • 『集注』に引く范祖禹の注に「文王の徳、以て商に代わるに足れり。天之に与え、人之に帰す。乃ち取らずして服事す。至徳と為す所以なり。孔子武王の言に因りて、文王の徳に及ぶ。且つ泰伯と皆至徳を以て之を称す。其の指微なり」(文王之德、足以代商。天與之、人歸之。乃不取而服事焉。所以爲至德也。孔子因武王之言、而及文王之德。且與泰伯皆以至德稱之。其指微矣)とある。
  • 『集注』に「或ひと曰く、宜しく三分以下を断ちて、別に孔子曰くを以て之を起こして、自ら一章と為すべし、と」(或曰、宜斷三分以下、別以孔子曰起之、而自爲一章)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「周の徳は、文王及び武王商をたざるの前に通して言う。蓋し武王初年専ら文王の心を承けて、殷に服事して未だ敢えて誅伐の心有らず、其の悪稔あくじん虐極に及んで、已むことを得ずして而る後に之を伐つ、然れども其れ本心に非ず、故に至徳と曰うなり。……且つ其の心を五臣十乱に寄せば、則ち聖人の治と雖も、亦た必ずけんりて、以て其の功を成すこと、従いて知る可し」(周之德、通文王及武王未伐商之前而言。蓋武王初年專承文王之心、服事殷而未敢有誅伐之心、及其惡稔虐極、不得已而後伐之、然非其本心、故曰至德也。……且其寄心于五臣十亂、則雖聖人之治、亦必資賢佐、以成其功、可從而知矣)とある。賢佐は、君主に仕える賢い補佐役の人。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「按ずるに乱は治むるなりとは、釈詁の文なり。……朱子は内を治め外を治むと謂うは、皆非なり。蓋し乱につの才を謂う。……且つ朱子は翻顚して解をし、斯より盛んなりとすと謂うは、未だ文例を見ず、従う可からず。……周之徳は、包咸・朱子皆文王を指すと謂う。仁斎先生独り以為おもえらく通じて武王未だ商に克たざる以前を指すと。……武王其の志を継いで其の事を述ぶれば、則ち文王を言って而うして武王は自ずから其のうちに在り、豈に差別を生ず可けんや。……泰伯・文王は恭譲の至りを極む、故に至徳と称す。……吾が邦の明経家の論語を講ずる者、皆臣の字を除いて読まず。蓋し文母は臣とす可からず、故に臣は衍文とす」(按亂治也、釋詁文。……朱子謂治内治外、皆非矣。蓋謂戡亂之才。……且朱子翻顚作解、謂爲盛於斯、未見文例、不可從矣。……周之德、包咸朱子皆謂指文王。仁齋先生獨以爲通指武王未克商以前。……武王繼其志述其事、則言文王而武王自在其中、豈可生差別乎。……泰伯文王極恭讓之至、故稱至德。……吾邦明經家講論語者、皆除臣字不讀。蓋文母不可爲臣、故臣爲衍文)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十