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子張第十九 12 子游曰子夏之門人小子章

483(19-12)
子游曰、子夏之門人小子、當洒埽應對進退、則可矣。抑末也。本之則無。如之何。子夏聞之曰、噫、言游過矣。君子之道、孰先傳焉、孰後倦焉。譬諸草木區以別矣。君子之道、焉可誣也。有始有卒者、其唯聖人乎。
ゆういわく、子夏しか門人もんじんしょうは、洒埽さいそう応対おうたい進退しんたいあたりては、すなわなり。抑〻そもそもすえなり。これもとづくればすなわし。これ如何いかん子夏しかこれきていわく、ああ言游げんゆうあやまてり。くんみちは、いずれをかさきにしてつたえ、いずれをかのちまん。これ草木そうもくにしてもっべつあるにたとう。くんみちは、いずくんぞけんや。はじおわものは、聖人せいじんか。
現代語訳
  • 子游 ――「子夏の弟子の若い者たちは、庭はきや、応対、取りつぎなどは、まあいい。だが末のことだ。大もととなると、なんにもない。どうしたことか…。」子夏がそれをきき ――「いや、子游はまちがってる。人物をつくるには、どれを先に教え、どれをあとまわしにできよう…。ただ草木を、植え場所で区別するようなものだ。人物をつくるには、無理押しではダメなんだ。もとも末もできているのは、聖人だけだろうからね。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • ゆう(言游)が、「子夏しかくんもんの青年たちは水をまいたりそうしたり来客の接待せったい進退しんたいほうなどはよくできる。しかしそれらは元来すえのことで、根本のりんについては一向いっこう教えられておらん。どうしたものじゃ」と言った。子夏が後にこれを聞いて言うよう、「イヤハヤ言游君げんゆうくんも飛んだまちがったことを言うものかな。君子たるの道は、どれを先に教え、どれはめんどうだから後回あとまわしにする、という風にきまっているものではない。たとえば草木もその種類に応じて育て方が違うようなものだ。くんどうを教えるに無理をすべきだろうか。始めと終り、すなわち道の本末ほんまつを同時にそなるのは聖人だけで、その以下の者に至っては、小より始めて大に終らざるを得ないのだ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 子游がいった。――
    「子夏の門下の青年たちは、掃除や、応対や、いろんな作法などはなかなかうまくやっている。しかし、そんなことはそもそも末だ。根本になることは何も教えられていないようだが、いったいどうしたというのだろう」
    子夏がそれをきいていった。――
    「ああ、言游もとんでもないまちがったことをいったものだ。君子が人を導くには、何が重要だから先に教えるとか、何が重要でないから当分ほっておくとか、一律にきめてかかるべきではない。たとえば草木を育てるようなもので、その種類に応じて、取りあつかいがちがっていなければならないのだ。君子が人を導くのに、無理があっていいものだろうか。道の本末がすべて身についているのは、ただ聖人だけで、一般の人々には、その末になることさえまだ身についていないのだから、むしろそういうことから手をつけるのが順序ではあるまいか」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 子游 … 前506~前443?。姓はげん、名はえん、子游はあざな。呉の人。孔門十哲のひとり。「文学には子游・子夏」といわれ、子夏とともに文章・学問に優れているとされた。武城の町の宰(長官)となった。ウィキペディア【子游】参照。
  • 子夏 … 前507?~前420?。姓はぼく、名は商、あざなは子夏。衛の人。孔子より四十四歳年少。孔門十哲のひとり。「文学には子游・子夏」といわれ、子游とともに文章・学問に優れていた。ウィキペディア【子夏】参照。
  • 小子 … 年少者。
  • 洒埽 … 掃除。「洒」は、水をまいて掃除すること。「埽」は、掃くこと。「掃」に同じ。
  • 応対 … 来客への接待。
  • 進退 … 立ち居振舞い。挙止。
  • 可矣 … よくできる。
  • 抑 … 「そもそも」と読み、「しかしながら」「そうではあるが」「それとも」と訳す。話題や内容を転換する意を示す。
  • 末 … 瑣末なこと。
  • 本 … 倫理の根本。本質的なこと。
  • 噫 … ああ。嘆息をあらわす。
  • 言游 … 「言」は、子游の姓。
  • 孰 … 「いずれをか」と読み、「どちらを~」と訳す。
  • 後倦 … 面倒なので、後回しにすること。
  • 区以別 … 種類によって区別し、別々に植えること。
  • 誣 … 欺く。ごまかす。曲解する。
  • 有始有卒 … 始めから終わりまで。「始」は「本」、「卒」は「末」を指す。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人の業を学ぶに先後の法有るを論ずるなり」(此章論人學業有先後之法也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子游 … 『孔子家語』七十二弟子解に「言偃げんえんひとあざなは子游。孔子よりわかきこと三十五歳。時に礼を習い、文学を以て名を著す。仕えて武城の宰と為る。嘗て孔子に従いて衛にく。将軍の子蘭と相善し。之をして学を夫子に受けしむ」(言偃魯人、字子游。少孔子三十五歳。時習於禮、以文學著名。仕爲武城宰。嘗從孔子適衞。與將軍之子蘭相善。使之受學於夫子)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「言偃はひとあざなは子游。孔子よりわかきこと四十五歳」(言偃呉人。字子游。少孔子四十五歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 子夏之門人小子、当洒埽応対進退、則可矣。抑末也。本之則無。如之何 … 『集解』に引く包咸の注に「言うこころは子夏の弟子、但だ当に賓客に対し、威儀礼節の事を修むるに於いては則ち可なり。然れども此れは但だ是れ人の末事なるのみ。其の本を無みす可からざるなり。故に云う、之を本づくれば則ち無し。之を如何せん、と」(言子夏弟子、但於當對賓客、修威儀禮節之事則可。然此但是人之末事耳。不可無其本也。故云、本之則無。如之何也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此れより下、第三子游の語、自ら二章有り。門人小子は、子夏の弟子を謂うなり。子游言う、子夏の諸弟子は広く先王の道を学ぶこと能わず、唯だ堂宇を洒掃し、当に賓客に対し、進退威儀の少礼すべきを可とするのみ。此に於いて乃則すなわち可なりと為すのみ、と。抑は、助の語なり。洒掃より以下の事は、抑〻そもそも但だ是れ末の事のみ。本の事の若きんば則ち無きこと、之を如何いかん。本は、先王の道を謂う」(此下、第三子游語、自有二章。門人小子、謂子夏之弟子也。子游言、子夏諸弟子不能廣學先王之道、唯可洒掃堂宇、當對賓客、進退威儀之少禮。於此乃則爲可也耳矣。抑、助語也。洒掃以下之事、抑但是末事耳。若本事則無、如之何也。本、謂先王之道)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「子游は、言偃なり。門人小子は、弟子を謂うなり。応は、当なり。抑は、語辞なり。本は、先王の道を謂う。言偃時有りて子夏の弟子を評論す、但だ賓客に対して威儀・礼節の事を修むるに当たりては則ち可なり。然れども此れは但だ是れ人の末事なるのみ。其の本無かる可からず。今子夏の弟子は、其の先王の道に本づくに於いては、則ち有る無し。奈何ともす可からず、と。故に之を如何せんと云うなり」(子游、言偃也。門人小子、謂弟子也。應、當也。抑、語辭也。本、謂先王之道。言偃有時評論子夏之弟子、但當對賓客脩威儀禮節之事則可。然此但是人之末事耳。不可無其本。今子夏弟子、於其本先王之道、則無有。不可奈何。故云如之何也)とある。また『集注』に「子游、子夏の弟子を譏る。威儀容節の間に於いては、則ち可なり。然れども此れ小学の末のみ。其の本を推すこと、大学の正心誠意の事の如きは、則ち有ること無し」(子游譏子夏弟子。於威儀容節之間、則可矣。然此小學之末耳。推其本、如大學正心誠意之事、則無有)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子夏 … 『孔子家語』七十二弟子解に「卜商は衛人えいひとあざなは子夏。孔子よりわかきこと四十四歳。詩を習い、能く其の義に通ず。文学を以て名を著す。人と為り性弘からず。好みて精微を論ず。じん以て之にくわうる無し。嘗て衛に返り、史志を読る者を見る。云う、晋の師、秦を伐つ。さん河を渡る、と。子夏曰く、非なり。がいのみ。史志を読む者、これを晋の史に問う。果たして己亥と曰う。是に於いて衛、子夏を以て聖と為す。孔子しゅっして後、西河のほとりに教う。魏の文侯、之に師事して国政をはかる」(卜商衞人、字子夏。少孔子四十四歳。習於詩、能通其義。以文學著名。爲人性不弘。好論精微。時人無以尚之。嘗返衞見讀史志者。云、晉師伐秦。三豕渡河。子夏曰、非也。己亥耳。讀史志者、問諸晉史。果曰己亥。於是衞以子夏爲聖。孔子卒後、教於西河之上。魏文侯師事之、而諮國政焉)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「卜商あざなは子夏。孔子よりわかきこと四十四歳」(卜商字子夏。少孔子四十四歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 子夏聞之曰、噫 … 『集解』に引く孔安国の注に「噫は、心不平の声なり」(噫、心不平之聲也)とある。また『義疏』に「噫は、不平の声なり。子夏は子游己の門人を鄙するを聞く。故に不平の声を為すなり」(噫、不平之聲也。子夏聞子游鄙己門人。故爲不平之聲也)とある。また『注疏』に「噫は、心不平の声なり。子夏既に子游の言を聞き、中心之を不平とす。故に噫、言游は過てりと曰うは、言偃の説く所をば過失と為すと謂うなり」(噫、心不平之聲。子夏既聞子游之言、中心不平之。故曰噫、言游過矣者、謂言偃所説爲過失也)とある。
  • 言游過矣 … 『義疏』に「既に之を平らかならず、而して又た云う、言游の説実に過ちと為すなり、と」(既不平之、而又云言游之説實爲過矣也)とある。
  • 君子之道、孰先伝焉、孰後倦焉 … 『集解』に引く包咸の注に「言うこころは先に大業を伝うる者は、必ず先に厭倦えんけんす。故に我が門人は、先に教うるに小事を以てし、後に将に教うるに大道を以てせんとするなり」(言先傳大業者、必先厭倦。故我門人、先教以小事、後將教以大道也)とある。また『義疏』に「既に子游の説は是れ過てりと云う。故に更に我先に教うるに小事を以てする所以の由を説くなり。君子の道は、先王の道を謂うなり。孰は、誰なり。言うこころは先王の大道は、即ち既に深く且つ遠し。而して我誰をか先にして能く伝えて而る後に能く倦懈する者を知らんや。故に云う、孰れをか先にして伝え、孰れをか後にして倦まん、と。既に誰かを知らず。故に先に小事を歴試す。然る後に乃ち教うるに大道を以てするなり。張憑云う、人性同じからざるなり、先ず習う者或いは早くおこたり、おそく学ぶ者或いは後に倦む、当に功を歳の終わりに要すべし、一限を以てす可からざるなり、と」(既云子游之説是過。故更説我所以先教以小事之由也。君子之道、謂先王之道也。孰、誰也。言先王大道、即既深且遠。而我知誰先能傳而後能倦懈者邪。故云、孰先傳焉、孰後倦焉。既不知誰。故先歴試小事。然後乃教以大道也。張憑云、人性不同也、先習者或早懈、晩學者或後倦、當要功於歳終、不可以一限也)とある。また『注疏』に「言うこころは君子の人に教うるの道は、先に業を伝うる者は、必ず先ず厭倦す。誰か先に伝えて而る後に倦む者有らんや。子夏言う、我の意は、門人大道を聞きて厭倦するを恐る、故に先ず教うるに小事を以てし、後に将に教うるに大道を以てせんとするなり、と」(言君子教人之道、先傳業者、必先厭倦。誰有先傳而後倦者乎。子夏言、我之意、恐門人聞大道而厭倦、故先教以小事、後將教以大道也)とある。また『集注』に「倦は、人をおしえて倦まずの倦の如し」(倦、如誨人不倦之倦)とある。
  • 譬諸草木区以別矣 … 『集解』に引く馬融の注に「言うこころは大道と小道とはしゅあり。譬えば草木類を異にして区別あるが如し。言うこころは学当に次を以てすべきなり」(言大道與小道殊異。譬如草木異類區別。言學當以次也)とある。また『義疏』に「言うこころは大道と小道とは殊異あり。譬えば草木類を異にして区別あるが如し。学とは当に次を以てすべし。一往学ぶ可からざるも、生を致して厭倦するなり」(言大道與小道殊異。譬如草木異類區別。學者當以次。不可一往學、致生厭倦也)とある。また『注疏』に「諸は、之なり。言うこころは大道と小道とは殊異すること、之を草木の異類・区別あるに譬う。学は当に次を以てすべきを言うなり」(諸、之也。言大道與小道殊異、譬之草木異類區別。言學當以次也)とある。また『集注』に「区は、猶お類のごときなり」(區、猶類也)とある。
  • 君子之道、焉可誣也 … 『集解』に引く馬融の注に「君子の道は、焉くんぞ我が門人をして但だ能く洒掃するのみと誣言せしむ可けんや」(君子之道、焉可使誣言我門人但能洒掃而已也)とある。また『義疏』に「君子の大道既に深し。故に学を伝うるには次有り。豈に発初其の儀を誣罔して、并びに之を学ばしむ可けんや」(君子大道既深。故傳學有次。豈可發初使誣罔其儀、而幷學之乎)とある。また『注疏』に「言うこころは君子の道は、当に学業を知るには次を以てすべく、安くんぞ便ち誣罔して我が門人は但だ洒掃を能くするのみと言う可けんや」(言君子之道、當知學業以次、安可便誣罔言我門人但能洒掃而已)とある。
  • 有始有卒者、其唯聖人乎 … 『集解』に引く孔安国の注に「終始一の如きは、唯だ聖人のみ」(終始如一、唯聖人耳)とある。また『義疏』に「唯だ聖人のみ始め有り、終わり有り。学能く倦まず。故に先に大道を学ぶ可きのみ。自ら聖人に非ざれば、則ち先に小より起こさざる可からざるなり。張憑云う、これを草木に譬う。或いは春花にして風に落ち、或いは秋栄にして早く実る。君子の道も亦た遅速有り。焉くんぞ誣う可けんや。唯だ聖人のみ始終一の如し。永く先後の異無しと謂う可きなり、と」(唯聖人有始、有終。學能不倦。故可先學大道耳。自非聖人、則不可不先從小起也。張憑云、譬諸草木。或春花而風落、或秋榮而早實。君子之道亦有遲速。焉可誣也。唯聖人始終如一。可謂永無先後之異也)とある。また『注疏』に「卒は、猶お終のごときなり。言うこころは人の道を学ぶや、初め有らざることく、く終わり有ることすくなし。能く終始一の如く、厭倦せざる者は、其れ唯だ聖人のみ」(卒、猶終也。言人之學道、靡不有初、鮮克有終。能終始如一、不厭倦者、其唯聖人耳)とある。また『集注』に「言うこころは君子の道は、其の末を以て先と為して之を伝うるに非ず、其の本を以て後と為して教うるに倦むに非ず。但だ学者の至る所に、自ら浅深有ること、草木の大小有り、其の類固より別有るが如し。若し其の浅深を量らず、其の生熟を問わずして、おおむね高く且つ遠き者を以て、強いて之に語れば、則ち是れ之を誣うるのみ。君子の道は、豈に此くの如かる可けんや。夫の始終本末、一以て之を貫くが若きは、則ち惟だ聖人のみ然りと為す。豈に之を門人小子に責む可けんや」(言君子之道、非以其末爲先而傳之、非以其本爲後而倦教。但學者所至、自有淺深、如草木之有大小、其類固有別矣。若不量其淺深、不問其生熟、而槩以高且遠者、強而語之、則是誣之而已。君子之道、豈可如此。若夫始終本末、一以貫之、則惟聖人爲然。豈可責之門人小子乎)とある。
  • 『集注』に引く程顥または程頤の注に「君子人を教うるに序有り。先ず伝うるに小なる者近き者を以て、而る後に教うるに大なる者遠き者を以てす。先ず伝うるに近小を以てして、而る後に教うるに遠大を以てせざるに非ざるなり」(君子教人有序。先傳以小者近者、而後教以大者遠者。非先傳以近小、而後不教以遠大也)とある。
  • 『集注』に引く程顥の注に「洒掃応対は、便ち是れ形而上なる者なり。理に大小無きが故なり。故に君子は只だ独りを謹むに在るのみ」(洒掃應對、便是形而上者。理無大小故也。故君子只在謹獨)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「聖人の道、更に精粗無し。洒掃応対より、義を精しくし神に入るとは、貫通して只だ一理なり。洒掃応対と雖も、只だ然る所以の如何を看るのみ」(聖人之道、更無精粗。從洒掃應對、與精義入神、貫通只一理。雖洒掃應對、只看所以然如何)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「凡そ物に本末有り。本末を分かち両段の事と為す可からず。洒掃応対是れ其れ然り、必ず然る所以有り」(凡物有本末。不可分本末爲兩段事。洒掃應對是其然、必有所以然)とある。
  • 『集注』に引く程顥または程頤の注に「洒掃応対の上より、便ち聖人の事に到る可し」(自洒掃應對上、便可到聖人事)とある。
  • 『集注』に「愚按ずるに、程子の第一条は、此の章の文意を説くこと、最も詳しく尽くすと為す。其の後の四条は、皆以て精粗・本末、其の分は殊なりと雖も、而れども理は則ち一にして、学者当に序に循いて漸く進むべく、末を厭いて本を求むる可からざることを明らかにす。蓋し第一条の意と、実に相表裏す。末は即ち是れ本にして、但だ其の末のみを学べば本は便ち此に在りと謂うに非ざるなり」(愚按、程子第一條、説此章文意、最爲詳盡。其後四條、皆以明精粗本末、其分雖殊、而理則一、學者當循序而漸進、不可厭末而求本。蓋與第一條之意、實相表裏。非謂末即是本、但學其末而本便在此也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「倦むは、朱氏曰く、人をおしえて倦まずの倦むの如し、と。言うこころは君子の教え、初めより定法無し、各〻其の材に随いて之を施す。其の末を以て之を先ず伝え、其の本を以て後と為して之を倦むに非ず。我の門人の若き、当に教うるに洒掃・応対・進退の節を以てすべきのみ。之を隠すに非ざるなり。区は、域なり。古えはえんに草木を育するに、各〻区域を分かちて、之を種芸す。……論に曰く、集註に子游の小学の叙有るを知らざることを譏る。然れども游・夏同じく孔門に学ぶ。子夏独り小学の叙有るを知りて、子游之を知らざらんや。子夏君子の道焉くんぞ誣う可けんやと曰うを観れば、蓋し子游其の隠す所有るを疑いて、之を譏るなり、と」(倦、朱氏曰、如誨人不倦之倦。言君子之教、初無定法、各隨其材而施之。非以其末而先傳之、以其本爲後而倦之。若我之門人、當教以洒掃應對進退之節耳。非隱之也。區、域也。古者園圃毓草木、各分區域、種藝之。……論曰、集註譏子游之不知有小學之敘。然游夏同學于孔門。子夏獨知有小學之敘、而子游不知之乎。觀子夏曰君子之道焉可誣也、蓋子游疑其有所隱、而譏之也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「もとの則ち無き、言うこころは其の本を求むるときは則ち有ること莫しとなり。本なる者は先王天下国家を治むるの道を謂うなり。先王の道を立つるは、其の意と以て天下後世を安んぜんことを求むるが故なり。後儒は性命の奥を以て本と為す。孔門諸子の意に非ず。いずれをか先に伝えん。孰れをかのちに倦まん、包咸曰く、言うこころは先に業を伝うる者は、必ず先に厭倦せん、と。邢昺曰く、君子の人を教うるの道、先に業を伝うる者は、必ず先に厭倦す。誰か先に伝えて後に倦む者有らんや。子夏言う、我の意、門人大道を聞きて厭倦せんことを恐る、故に先に教うるに小事を以てす、と。朱子曰く、其の末を以て先と為して之を伝うるに非ず、其の本を以て後と為して教うるに倦むに非ず、但だ学者の至る所、自ずから浅深有り、と。是れ包・邢は孰字に失し、朱子は倦字にくらし。皆従う可からず。蓋し言うこころは君子の道、何者か当に先に之を伝うべき、何者か当に後に之を伝うべき、何者かかれの先に倦む所、何者か彼の後に倦む所と。之を伝うるに先後有る所以の者は、彼の能く堪うると堪えざるとを以てなり。堪うる所の者は後に倦み、堪えざる所の者は先に倦む。必ず其の能く堪うる所を量りて之を教う。人に敏不敏有り、道に浅深有り、これを草木の区にして以て別なるに譬う。区、朱子は類と訓ず。非なり。升庵外集に、蘇子由云う、ちゅう芋区うくの区の如し、と。仁斎曰く、区は、域なり。古え園圃に草木を育するに、各〻区域を分かちて之を種芸す。はんしょう区種の法をつくる、是れなり。草木区にして別かるるは、其の明らかなるを言うなり。書に曰く、なること草木の若し、と。是の説之を得たり。蓋し其の次第等級、へいとして丹青の如きなり。焉くんぞ誣う可けんや、言うこころは堪えざるを以て堪うと為し、教うるに其の大なる者を以てし、門人小子をしてほしいままに其の大なる者を言わしむるは、則ち是れ人を誣うるなり、君子の道、安くんぞくの如くなる可けんやと。上には君子の道、其の人を量りて之を教うるを言い、ここには君子の道は人を誣いざるを言う。二つの君子の道は、意自ずから同じからざるなり。始め有りおわり有りとは、倦まざるを謂うなり。学んで倦まずは、孔子の自ら道う所、故に其れ惟だ聖人かと曰う。其の以て門人小子に望む可からざるを言うなり。朱子は始終本末一以て之を貫くというを以て説を為す。仁斎は本末倶に挙げ両端竭尽けつじんすというを以て説を為す。皆其の解を得ざる者のみ。夫れ両端をたたきて之をくすは、孔子の鄙夫ひふに告ぐる所以なり。是れ豈に難事にして常人の能くせざる所ならんや。此の章は朱子以て大小学の序と為す。大小学は自ずから其の見る所のみ。孔子の時豈に之れ有らんや。仁斎乃ち言う、子游其の隠す所有るを疑いて之を譏る、と。而うして焉くんぞ誣う可けんやを以て君子の道、しょうせき明白、得て掩蔵えんぞうす可からずと為す。是れ亦た誣字の義に昧し。誣は豈に掩蔵の義ならんや。蓋し子游の意は子夏の教えに倦むを以て之を規するのみ。故に子夏答うるに弟子の堪えずして倦むことを以てす。以て見る可きのみ」(本之則無、言求其本則莫有也。本者謂先王治天下國家之道也。先王之立道、其意本求以安天下後世故也。後儒以性命之奧爲本。非孔門諸子之意矣。孰先傳焉。孰後倦焉、包咸曰、言先傳業者、必先厭倦。邢昺曰、君子教人之道、先傳業者、必先厭倦。誰有先傳而後倦者乎。子夏言、我之意、恐門人聞大道而厭倦、故先教以小事。朱子曰、非以其末爲先而傳之、非以其本爲後而倦教、但學者所至、自有淺深。是包邢失乎孰字、朱子昧乎倦字。皆不可從矣。蓋言君子之道、何者當先傳之、何者當後傳之、何者彼所先倦、何者彼所後倦。傳之所以有先後者、以彼之能堪與不堪也。所堪者後倦、所不堪者先倦。必量其所能堪而教之。人有敏不敏、道有淺深、譬諸草木區以別矣。區、朱子訓類。非矣。升庵外集、蘇子由云、如瓜疇芋區之區。仁齋曰、區、域也。古者園圃毓草木、各分區域種藝之。氾勝之爲區種法、是也。草木區別、言其明也。書曰、賁若草木。是説得之。蓋其次第等級、炳如丹靑也。焉可誣也、言以不堪爲堪、教以其大者、俾門人小子肆言其大者、則是誣人也、君子之道、安可如此乎。上言君子之道量其人教之、此言君子之道不誣人。二君子之道、意自不同也。有始有卒者、謂不倦也。學而不倦、孔子所自道、故曰其惟聖人乎。言其不可以望門人小子也。朱子以始終本末一以貫之爲説。仁齋以本末倶擧兩端竭盡爲説。皆不得其解者耳。夫扣兩端而竭之、孔子所以告鄙夫也。是豈難事而常人所不能哉。此章朱子以爲大小學之序。大小學自其所見耳。孔子時豈有之乎。仁齋乃言、子游疑其有所隱而譏之。而以焉可誣也爲君子之道、昭晰明白、不可得而掩藏。是亦昧乎誣字之義矣。誣豈掩藏之義乎。蓋子游之意以子夏之倦於教規之耳。故子夏答以弟子之不堪而倦焉。可以見已)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十