子張第十九 4 子夏曰雖小道章
475(19-04)
子夏曰、雖小道、必有可觀者焉。致遠恐泥。是以君子不爲也。
子夏曰、雖小道、必有可觀者焉。致遠恐泥。是以君子不爲也。
子夏曰く、小道と雖も、必ず観る可き者有り。遠きを致すには恐らく泥まん。是を以て君子は為さざるなり。
現代語訳
- 子夏 ――「小器用というが、それにもよさはあるはず。だが大局的には、邪魔になろう。だから人物になると手をださないんだ。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 子夏の言うよう、「一技一藝の小さい道にもそれぞれ取り得はあるが、遠大なる聖人の道を成就せんことを志す者としては、さようの末技にたずさわると、それに引っかかって大成を妨げる心配があるから、君子はそれをせぬのである。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 子夏がいった。――
「一技一芸の小さな道にも、それぞれに意義はある。しかし、そうした道で遠大な人生の理想を行なおうとすると、おそらく行き詰まりがくるであろう。だから君子はそういうことに専念しないのである」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 子夏 … 前507?~前420?。姓は卜、名は商、字は子夏。衛の人。孔子より四十四歳年少。孔門十哲のひとり。「文学には子游・子夏」といわれ、子游とともに文章・学問に優れていた。ウィキペディア【子夏】参照。
- 小道 … 一芸一能の小さい道。各種の技芸の類。当時は、農業・医術・卜筮などの技術から、碁・将棋などを指したらしい。
- 致遠 … 遠大なことに到達しようとする。遠大なこととは、君子の道を指す。
- 泥 … 泥土に足を踏み入れたように、動きがとれないようになる。邪魔になる。障害になる。
- 是以 … 「ここをもって」と読み、「こういうわけで」「このゆえに」「それゆえに」「だから」と訳す。「以是」は「これをもって」と読み、「この点から」「これにより」「これを用いて」と訳す。
- 不為也 … 「為ばざるなり」と読んでもよい。習おうとしない。やらない。
補説
- 『注疏』に「此の章は人に大道・正典を学び為むるを勉むるなり」(此章勉人學爲大道正典也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 子夏 … 『孔子家語』七十二弟子解に「卜商は衛人、字は子夏。孔子より少きこと四十四歳。詩を習い、能く其の義に通ず。文学を以て名を著す。人と為り性弘からず。好みて精微を論ず。時人以て之に尚うる無し。嘗て衛に返り、史志を読る者を見る。云う、晋の師、秦を伐つ。三豕河を渡る、と。子夏曰く、非なり。己亥のみ。史志を読む者、諸を晋の史に問う。果たして己亥と曰う。是に於いて衛、子夏を以て聖と為す。孔子卒して後、西河の上に教う。魏の文侯、之に師事して国政を諮る」(卜商衞人、字子夏。少孔子四十四歳。習於詩、能通其義。以文學著名。爲人性不弘。好論精微。時人無以尚之。嘗返衞見讀史志者。云、晉師伐秦。三豕渡河。子夏曰、非也。己亥耳。讀史志者、問諸晉史。果曰己亥。於是衞以子夏爲聖。孔子卒後、教於西河之上。魏文侯師事之、而諮國政焉)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「卜商字は子夏。孔子より少きこと四十四歳」(卜商字子夏。少孔子四十四歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
- 雖小道、必有可観者焉 … 『集解』の何晏の注に「小道は、異端を謂うなり」(小道、謂異端也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「小道は、諸子百家の書を謂うなり。一往看覧するも、亦た微かに片理有り。故に云う、必ず観る可き者有り、と」(小道、謂諸子百家之書也。一往看覽、亦微有片理。故云、必有可觀者焉也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「小道は異端の説、百家の語を謂うなり。小道と曰うと雖も、亦た必ずや小理の観覧す可き者有り」(小道謂異端之説、百家語也。雖曰小道、亦必有小理可觀覽者焉)とある。また『集注』に「小道は、農圃医卜の属の如し」(小道、如農圃醫卜之屬)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 致遠恐泥 … 『集解』に引く包咸の注に「泥は、難くして通ぜざるなり」(泥、難不通也)とある。また『義疏』に「致は、至なり。遠は、久なり。泥は、泥み難きを謂うなり。小道は一往観る可しと雖も、若し行事を持して、遠きに至り久しきを経れば、則ち恐らくは泥み難くして通ずる能わざるなり」(致、至也。遠、久也。泥、謂泥難也。小道雖一往可觀、若持行事、至遠經久、則恐泥難不能通也)とある。また『注疏』に「然れども遠きを致し久しきを経るには、則ち泥み難くして通ぜざるを恐る」(然致遠經久、則恐泥難不通)とある。また『集注』に「泥は、通ぜざるなり」(泥、不通也)とある。
- 是以君子不爲也 … 『義疏』に「為は、猶お学ぶのごときなり。既に遠きを致せば、必ず恐らく泥まん。故に君子の人は正典を秉り持ちて、百家を学ばざるなり」(爲、猶學也。既致遠、必恐泥。故君子之人秉持正典、不學百家也)とある。また『注疏』に「是を以て君子は学ばざるなり」(是以君子不學也)とある。
- 『集注』に引く楊時の注に「百家衆技は、猶お耳目口鼻の、皆明らかにする所有れども、而れども相通ずること能わざるがごとし。観る可きこと無きに非ざるなり。遠きに致せば則ち泥む。故に君子は為さざるなり」(百家衆技、猶耳目口鼻、皆有所明、而不能相通。非無可觀也。致遠則泥矣。故君子不爲也)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「小道は、諸子百家の属の如き、是れなり。泥は、通ぜざるなり。此れ言う、小道は、多く事を便にして、且つ効を見ること速やかなり。故に俗士庸輩、多く悦びて之を為す。然れども之を遠きに致すときは、則ち泥みて通ぜず。故に観る可き者有りと雖も、君子は為さざるなり、と」(小道、如諸子百家之屬、是也。泥、不通也。此言、小道、多便于事、且見效速。故俗士庸輩、多悦爲之。然致之於遠、則泥而不通。故雖有可觀者、君子不爲也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「小道と雖も必ず観る可き者有り、朱註に、小道は、農圃医卜の属の如し、と。之を得たり。何晏は以て異端と為す。仁斎之に因る。然れども諸子百家は、子夏の時の無き所なり。然りと雖も、当今の世、諸子百家は、応に是くの如しと作して観るべし。仏老と雖も必ず観る可き者有り」(雖小道必有可觀者焉、朱註、小道、如農圃醫卜之屬。得之。何晏以爲異端。仁齋因之。然諸子百家、子夏之時所無。雖然、當今之世、諸子百家、應作如是觀。雖佛老必有可觀者焉)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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