為政第二 16 子曰攻乎異端章
032(02-16)
子曰、攻乎異端、斯害也已。
子曰、攻乎異端、斯害也已。
子曰く、異端を攻むるは、斯れ害あるのみ。
現代語訳
- 先生 ――「他流の末に走ると、損するばかりだ。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様がおっしゃるよう、「学者は正統な聖人の道を専攻すべきで、異端の学の横道に踏み込むのは、有害無益だからやめるがよい。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師がいわれた。――
「異端の学問をしても害だけしかない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 異端 … 聖人の教えとは違う教え。正統でない教え。老荘などの教えを指す。
- 攻 … 治める。専攻する。調べる。研究する。
- 也已 … 「のみ」と訓読し、断定をあらわす助辞。
補説
- 『注疏』に「此の章は人に雑学を禁ず」(此章禁人雜學)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 攻乎異端、斯害也已 … 『集解』の何晏の注に「攻は、治なり。善道に統有り。故に途を殊にするも帰を同じくす。異端は、帰を同じくせざるなり」(攻、治。善道有統。故殊途而同歸。異端、不同歸也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此の章は人の雑学、諸子百家の書を禁ずるなり。攻は、治なり。古人学を謂いて治と為す。故に書史に人の経を専らにして学問する者を載するに、皆云う、其の書を治め、其の経を治むるなり。異端は、雑書を謂うなり。言うこころは人若し六籍の正典を学ばずんば、諸子百家に雑学す。此れ則ち害を為すこと深し。故に云う、異端を攻むるは、斯れ害あるのみ、と。斯れ害あるのみとは、害を為すこと深きなり。善道は、即ち五経の正典なり。統有りの統は、本なり。皆善道を以て本と為すを謂うなり。途を殊にすは、詩・書・礼・楽、教えと為すの途、同じからざるを謂うなり。帰を同じうすれば、明らかにする所、各〻異端なりと雖も、同に善道に帰するを謂うなり。諸子百家並びに是れ虚妄、其の理不善にして、教化に益無し。故に是れ帰を同じうせざるなり」(此章禁人雜學諸子百家之書也。攻、治也。古人謂學爲治。故書史載人專經學問者、皆云、治其書、治其經也。異端、謂雜書也。言人若不學六籍正典、而雜學於諸子百家。此則爲害之深。故云、攻乎異端、斯害也已矣。斯害也已矣者、爲害之深也。善道、即五經正典也。有統統、本也。謂皆以善道爲本也。殊途、謂詩書禮樂爲教之途、不同也。同歸、謂雖所明、各異端、同歸於善道也。諸子百家竝是虛妄、其理不善、無益教化。故是不同歸也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「攻は、治なり。異端は、諸子百家の書を謂うなり。人若し正経・善道を学ばずして、異端の書を治むるは、斯れ則ち害と為ることの深きを言うなり。其の善道には統有るを以て、故に塗を殊にすれども帰を同じくす。異端は則ち帰を同じくせざるなり」(攻、治也。異端、謂諸子百家之書也。言人若不學正經善道、而治乎異端之書、斯則爲害之深也。以其善道有統、故殊塗而同歸。異端則不同歸也)とある。また『集注』に引く范祖禹の注に「攻は、専ら治むるなり。故に木石金玉を治むるの工を攻と曰う。異端は、聖人の道に非ずして、別に一端を為す。楊・墨の如きは是れなり。其れ天下を率いれば、父を無し君を無するに至る。専ら治めて之に精ならんと欲すれば、害を為すこと甚だし」(攻、專治也。故治木石金玉之工曰攻。異端、非聖人之道、而別爲一端。如楊墨是也。其率天下、至於無父無君。專治而欲精之、爲害甚矣)とある。楊墨は、戦国時代の思想家、楊朱と墨子。仏氏は、仏教。孔子の時代には、まだこれらの思想は存在していない。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また安井息軒『論語集説』(『漢文大系(一)』冨山房)の頭注に「聖人ノ書ヲ棄テテ他ノ雜書ヲ耽リ讀ムトキハ、大切ノ人物修養ニ妨害ニナルモノナレバ戒ムベシ」とある。
- 也已 … 『義疏』では「也已矣」に作る。
- 『集注』に引く程顥の注に「仏氏の言、之を楊・墨に比すれば、尤も理に近きと為す。其の害尤も甚だしと為す所以なり」(佛氏之言、比之楊墨、尤爲近理。所以其害爲尤甚)とある。
- 『集注』に引く程顥または程頤の注に「学者当に淫声美色の如くにして以て之を遠ざくべし。爾らざれば、則ち駸駸然として其の中に入らん」(學者當如淫聲美色以遠之。不爾、則駸駸然入於其中矣)とある。
- 吉川幸次郎は「異端とは異端邪説という言葉があるように、正しくないことがはじめからはっきりしている学説をいう言葉であると、ふつうには理解されている」と解説しているが、「異端という言葉は、『論語』のこの条のみに見え、その確実な意味を帰納しうべき更なる使用例が、他の書に見えない」とし、「もっとも慎重な態度をとれば、この条の本来の意味は、わからない」とも言っている(『論語 上』朝日選書)。
- 宮崎市定は「新しい流行の真似をするのは、害になるばかりだ」と訳し、「流行と訳したのは、根本の大きな道は永久不変であり、そこからはみ出たものが時と共に浮沈するというのが儒家の思想だからである」と言っている(『論語の新研究』)。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「異端は、古えの方語、其の端相異にして一ならざるを謂うなり。言うこころは力を根本に用いずして、徒に其の端の異なる所を治むれば、則ち益無くして害有るのみなり。……論に曰く、異端の称は、古より之れ有り。後人の専ら仏老の教えを指して、異端と為す者は、誤れり。孟子の時、或いは邪説暴行と称し、或いは直ちに楊墨の徒と称す。見る可し其の時猶お未だ異端を以て之を称せざりしことを。若し夫れ仏老の教えは、即ち所謂邪説暴行にして、亦た異端の上に在り。豈に攻むるを待ちて後に害有らんや、と」(異端、古之方語、謂其端相異而不一也。言不用力於根本、而徒治其端之所異、則無益而有害也。……論曰、異端之稱、自古有之。後人專指佛老之教、爲異端者、誤矣。孟子之時、或稱邪説暴行、或直稱楊墨之徒。可見其時猶未以異端稱之。若夫佛老之教、即所謂邪説暴行、而亦在異端之上。豈待攻而後有害耶)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「異端は明解無しと雖も、善道と対して言う。故に正義に曰く、諸子百家の書を謂うなり、と。朱子之に因り、旁ら仏・老に及べり。然れども孔子の時に、豈に諸子百家有らんや。且つ攻は治むるなりとは、諸を周礼の攻金の工、攻木の工に本づく。治めて器を成すを謂うなり。故に攻の字は諸を学ぶ者に用う可く、諸を道芸に用う可からず。故に六経を治むとは、古え是の言無し。況んや諸子百家を治めて之を成すの理有らんや」(異端雖無明解、與善道對言。故正義曰、謂諸子百家之書也。朱子因之、旁及佛老。然孔子之時、豈有諸子百家哉。且攻治也、本諸周禮、攻金之工、攻木之工。謂治而成器也。故攻字可用諸學者、不可用諸道藝。故治六經、古無是言。況有治諸子百家而成之之理哉)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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