>   論語   >   微子第十八   >   3

微子第十八 3 齊景公待孔子章

463(18-03)
齊景公待孔子曰、若季氏、則吾不能。以季孟之間待之。曰、吾老矣。不能用也。孔子行。
せい景公けいこうこうちていわく、季氏きしごとくするは、すなわわれあたわず。もうかんもっこれたん。いわく、われいたり。もちうることあたわざるなり、と。こうる。
現代語訳
  • 斉(セイ)の景(殿)さまが孔先生の待遇について ――「(魯の一の家老の)季氏なみには、わしはしてやれない。季氏と(末の家老の)孟氏の中間の待遇にしよう。」また ――「わしも先がみじかい。使いこなせまいて…。」孔先生は去った。(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がせいの国に行かれたとき、斉の景公けいこうが、採用しようかどうか、採用するならどのくらいの待遇で、ということを近臣と相談して、「たいのうちで上席の季氏きしほどの待遇をすることは力及ばず、さりとて末席のもう程度では気の毒故、まず季孟の中間ぐらいのところで待遇しようか。」と話し合ったが、やがて気が変わって、「わしももう年が年だから、孔子のような遠大のはかりごとす者を用いてもしかたがない。」と言った。孔子様がれ聞かれて、待遇問題はともかく、このあんばいではとうていこころざしは行われぬと断念して、斉を去られた。(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • せい景公けいこうが、先師を採用するにつき、その待遇のことでいった。――
    「季氏ほどに待遇してやることは、とても力に及ばないので、季氏と孟氏との間ぐらいのところにしたいと思う」
    しかし、あとになって、またいった。
    「自分も、もうこの老年になっては、孔子のような遠大な理想をもっている人を用いても仕方があるまい」
    先師はそのことをもれ聞かれて、斉の国を去られた。(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 斉 … 周代に太公望りょしょうの建てた国。今の山東省に存在した。桓公の代に管仲を用いて覇者となった。戦国時代の斉(田斉)と区別して姜斉ともいう。ウィキペディア【姜斉】参照。
  • 景公 … 春秋時代、斉の君主。在位前547~前490。霊公の子、荘公の弟。名はしょきゅう。ウィキペディア【景公 (斉)】参照。
  • 待 … 待遇する。
  • 季氏 … 魯の国の大夫、季孫氏。三桓の中で最も勢力があった。ウィキペディア【三桓氏】参照。
  • 季孟之間 … 季氏と孟氏の中間の待遇。
  • 吾 … 斉の景公を指す。
  • 行 … ここでは「さる」と読む。「去」に同じ。
補説
  • 『注疏』に「此の章は孔子所を失うを言うなり」(此章言孔子失所也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 斉景公待孔子曰 … 『義疏』に「孔子斉に往く。而して景公初め孔子を待ちて共に為政の化を処せんと欲するなり」(孔子往齊。而景公初欲處待孔子共爲政化也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「待は、遇なり。禄位を以て孔子を接遇するを謂うなり」(待、遇也。謂以祿位接遇孔子也)とある。
  • 若季氏、則吾不能 … 『義疏』に「景公聖を慕うも篤からず。初め待せんと欲すと雖も、而れども末又た悔いを生ず。此の言を発するなり。季氏とは、魯の上卿なり。惣じて魯の政を知り、専ら一国を任ず。今、景公云う、若し我をして国政を以て孔子に委任せしめば、魯の季氏に任ずるが如くするは、則ち能わざる可きなり、と」(景公慕聖不篤。初雖欲待、而末又生悔。發此言也。季氏者、魯之上卿也。惣知魯政、專任一國。今景公云、若使我以國政委任孔子、如魯之任季氏、則可不能也)とある。
  • 以季孟之間待之 … 『集解』に引く孔安国の注に「魯の三卿、季氏を上卿と為す、最も貴し。孟氏を下卿と為す、事を用いず。言うこころは之を待つこと二者の間を以てするなり」(魯三卿、季氏爲上卿、最貴。孟氏爲下卿、不用事。言待之以二者之閒也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「孟とは、魯の下卿なり。任用せられざる者なり。景公えらく、我孔子を用うる能わざること、魯の季氏を処するが如し。又た令の事無きを容れざること、魯の孟氏を処するが如きなり。我当に事有るも事無きの間を以て之を処すべし。故に云う、季・孟の間を以て之を待たん、と」(孟者、魯之下卿也。不被任用者也。景公言、我不能用孔子、如魯處季氏。又不容令之無事、如魯之處孟氏也。我當以有事無事之間處之。故云、以季孟之閒待之也)とある。また『注疏』に「魯の三卿、季氏を上卿と為して最も貴く、孟氏を下卿と為し、事を用いず。景公言う、我孔子を待つに上卿の位を以てせん。魯の季氏の若くすること則ち能わざるは、其の田氏政を専らにする故有るを以てなり。又た其の位をして卑くすること魯の孟氏の若くせしむ可からず。故に之を待つに季・孟の二者の間を以てせんと欲す、と」(魯三卿、季氏爲上卿最貴、孟氏爲下卿、不用事。景公言、我待孔子以上卿之位。若魯季氏則不能、以其有田氏專政故也。又不可使其位卑若魯孟氏。故欲待之以季孟二者之間)とある。また『集注』に「魯の三卿は、季氏最も貴く、孟氏は下卿たり」(魯三卿、季氏最貴、孟氏爲下卿)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 吾老矣。不能用也 … 『集解』の何晏の注に「聖道成り難きを以て、故に云う、老いたり。用うること能わざるなり、と」(以聖道難成、故云、老矣。不能用也)とある。また『義疏』に「景公初め之を待するに季・孟の間に於いてすと云うと雖も、而れども末又た悔ゆ。故に自ら我が老に託して、復た孔子を用うる能わざるなり」(景公初雖云待之於季孟之閒、而末又悔。故自託我老、不能復用孔子也)とある。また『注疏』に「時に景公臣下の制する所と為り、孔子の道をよろこぶと雖も、而も終に用うること能わず。故に託して云う、聖道は成し難し、吾老いて用うること能わざるなり、と」(時景公爲臣下所制、雖説孔子之道、而終不能用。故託云、聖道難成、吾老不能用也)とある。
  • 孔子行 … 『義疏』に「孔子己を用うる能わざるを聞く。故に行き去るなり。江熙云う、麟は豺歩を為す能わず、鳳は隼撃を為す能わず。夫子の陳ぶる所は、必ず正道ならん。景公用うる能わず。故に吾が老に託す。合す可くんば則ち往き、離るるに於いて則ち去る。聖人は常無き者なり、と」(孔子聞不能用己。故行去也。江熙云、麟不能爲豺歩、鳳不能爲隼擊。夫子所陳、必正道也。景公不能用。故託吾老。可合則往、於離則去。聖人無常者也)とある。また『注疏』に「斉を去りて魯に帰るなり」(去齊而歸魯也)とある。また『集注』に「孔子之を去る、事は世家に見ゆ。然れども此の言は必ず面して孔子にぐるに非ず。蓋し自ら以て其の臣に告げて、孔子之を聞くのみ」(孔子去之、事見世家。然此言必非面語孔子。蓋自以告其臣、而孔子聞之爾)とある。
  • 『集注』に引く程顥または程頤の注に「季氏は強臣、君之を待つの礼極めて隆なり。然れども孔子を待つ所以に非ざるなり。季・孟の間を以て之を待てば、則ち礼も亦た至れり。然れども復た曰く、吾老いたり。用うること能わざるなり、と。故に孔子之を去る。蓋し待つの軽重にかかわらず、だ用いられざるを以て去るのみ」(季氏強臣、君待之之禮極隆。然非所以待孔子也。以季孟之間待之、則禮亦至矣。然復曰、吾老矣。不能用也。故孔子去之。蓋不繫待之輕重、特以不用而去爾)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「愚謂えらく、景公既に季・孟の間を以て之を待すると曰いて、にわかに又た吾老いたり、用うること能わずと曰う可からず、故に夫子衛霊公陳を問うに対えずしてるの例にならいて此の語を以て、夫子の言と為す。按ずるに旧説、史記世家に拠って此を以て魯の昭公二十五年の事と為す。此の時孔子年三十五、名位未だ顕れず、想うに景公季・孟を以て之を待するの理無からん、恐らくは佗日の事ならん」(愚謂、景公既曰以季孟之間待之、而不可遽又曰吾老矣、不能用也、故傚夫子不對衞靈公問陳而行之例以此語、爲夫子之言。按舊説、據史記世家以此爲魯昭公二十五年之事。此時孔子年三十五、名位未顯、想無景公以季孟待之之理、恐佗日之事)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「曰く吾老いぬ、用うること能わじ、古来以て景公の言と為す。而るに仁斎乃ち孔子の言と謂う。下文に孔子る有れば、則ち曰くの景公の曰くたること、豈に然らざらんや。辞にくらくして奇を好む。祇だ人に笑いをのこすのみ」(曰吾老矣不能用也、古來以爲景公言。而仁齋乃謂孔子言。下文有孔子行、則曰之爲而景公曰、豈不然乎。昧乎辭而好奇。祇貽人笑耳)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十