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陽貨第十七 14 子曰道聽而塗説章

448(17-14)
子曰、道聽而塗說、德之棄也。
いわく、みちきてみちくは、とくつるなり。
現代語訳
  • 先生 ――「行きずりの受け売り口は、道徳をすてるものだ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「今途中でいたことをすぐそのまま途中で話してそれきりかけ流しにするようでは、せっかくいことを聞いても、身につかず心の養いにならぬ。これは全く徳をてるというものじゃ。聴いたことをトックリとがんし善いと思ったら実践じっせんせよ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「途中でよいことをきいて、さっそくそれを途中で人にいって聞かせる。それでは徳を棄てるようなものだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 道 … 道路。道ばた。行く道の途中。
  • 塗 … 「途」に同じ。道路。道ばた。
  • 道聴而塗説 … 道ばたで聞いたことを、そのまま道で他人に話すこと。すぐ他人に受け売りすること。ここから「道聴塗説」という熟語が出来た。故事成語「道聴塗説」参照。
  • 棄 … 棄てる。廃棄する。
補説
  • 『注疏』に「此の章は時人の習わずして之を伝うるをにくむなり」(此章疾時人不習而傳之也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 道聴而塗説、徳之棄也 … 『集解』に引く馬融の注に「之を道路に聞けば、則ち伝えて之を説く」(聞之於道路、則傳而説之)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「道は、道路なり。塗も亦た道路なり。記問の学は、以て人の師と為るに足らず。人に師たるものは必ず当に故きを温めて新しきを知るべし。研精習久して、然る後に乃ち人の為に伝え説く可きのみ。若し之を道路に聴きて、道路に仍即すなわち人の為に伝え説けば、必ず謬妄多からん。有徳の者の棄つる所と為る所以なり。亦た自ら其の徳を棄つるなり。江熙云う、今の学者は己の為にせざる者なり。況んや道聴の者なるをや。末を逐うこと愈〻甚だしく、徳を棄つること弥〻深きなり、と」(道、道路也。塗亦道路也。記問之學、不足以爲人師。師人必當温故而知新。研精習久、然後乃可爲人傳説耳。若聽之於道路、道路仍即爲人傳説、必多謬妄。所以爲有德者所棄也。亦自棄其德也。江熙云、今之學者不爲己者也。況乎道聽者哉。逐末愈甚、棄德彌深也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「塗も亦た道なり。之を道路に聞きて、則ち道路に於いて伝えて之を説くは、必ず謬妄多く、有徳者の棄つる所と為るを言うなり」(塗亦道也。言聞之於道路、則於道路傳而説之、必多謬妄、爲有德者所棄也)とある。また『集注』に「善言を聞くと雖も、己の有と為らず。是れ自ら其の徳を棄つるなり」(雖聞善言、不爲己有。是自棄其德也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 也 … 『義疏』に「也」の字なし。
  • 『集注』に引く王安石の注に「君子は多く前言往行を識りて、以て其の徳をたくわう。道に聴き塗に説くは、則ち之を棄つるなり」(君子多識前言往行、以畜其德。道聽塗説、則棄之矣)とある。
  • 『荀子』勧学篇に「こうがく」「こうすんがく」という言葉がある。受け売りで身についていない学問、耳学問のことをいう。「小人の学は、耳より入りて、口より出づ。こうかんは、則ちすんのみ。いずくんぞ以て七尺しちせきとするに足らんや」(小人之學也、入乎耳、出乎口。口耳之間、則四寸耳。曷足以美七尺之軀哉)とある。ウィキソース「荀子/勸學篇」参照。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ夫子後世道徳の下り衰うるを歎ずるなり。蓋し在昔ざいせき、道を尊ぶこと甚だ篤くして、敢えて容易に之を論ぜず、必ずやに行い心に得、爛熟融釈、己に余り有りて、後に人に応ず。故に之を聴く者は益する所有りて、之を用うる者は、必ず其の可に当たるなり。後世に至るに及びて、道に聴き塗に説きて、其の実を要せず、軽浮浅露、ぜんとして俗を成す。其れ或いは書を著し文を作り、ぜんとして天下の事を談ずること、巧麗富藻、悦ぶ可きが若しと雖も、然れども実に道に聴きて塗に説くの流、要は尚ぶに足らず」(此夫子歎後世道德之下衰也。蓋在昔尊道甚篤、而不敢容易論之、必也躬行心得、爛熟融釋、有餘於己、而後應於人。故聽之者有所益、而用之者、必當其可也。及至後世、道聽塗説、不要其實、輕浮淺露、靡然成俗。其或著書作文、肆然談天下之事、巧麗富藻、雖若可悦、然實道聽塗説之流、要不足尚焉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「どうちょうしてせつするは、こうがくを謂うなり。道・塗も亦た喩えのみ。馬融以て道塗の伝説と為す。亦た言語の道を識らず。徳を之れ棄つるなりは、徳言を棄つるを謂うなり。徳言なる者は、有徳の人の言を謂うなり。古えこれを師に受け、学んで諸を己に得、諸を其の行いに験して然るのち言う。孔子曰く、徳有る者は言有り、と。古えの徳言を貴ぶなり。口耳の学は、己に得る所無しと雖も亦た之を言う。己に得ずして之を言うに至りては、則ち言う可からざる者無し。是の人其の知弁をせ、粲然さんぜんとして聴く可し。故に有徳の言、此れに由って棄てらるるなり。朱子曰く、善言を聞くと雖も、己がゆうと為さざるは、是れ自ら其の徳を棄つるなり、と。辞に失すと謂う可きのみ」(道聽而塗説、謂口耳之學也。道塗亦喩耳。馬融以爲道塗之傳説。亦不識言語之道矣。德之棄也、謂棄德言也。德言者、謂有德人之言也。古者受諸師、學而得諸己、驗諸其行然後言。孔子曰、有德者有言。古之貴德言也。口耳之學、雖無所得於己亦言之。至於不得於己而言之、則無不可言者。是人騁其知辨、粲然可聽。故有德之言、由此見棄也。朱子曰、雖聞善言、不爲己有、是自棄其德也。可謂失於辭已)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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