衛霊公第十五 14 子曰躬自厚而薄責於人章
393(15-14)
子曰、躬自厚、而薄責於人、則遠怨矣。
子曰、躬自厚、而薄責於人、則遠怨矣。
子曰く、躬自ら厚くして、薄く人を責むれば、則ち怨みに遠ざかる。
現代語訳
- 先生 ――「自分を重く責め、他人は軽くとがめれば、うらまれなくてすむ。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様がおっしゃるよう、「自分を責めることが厳重で、他人を責めることが寛大であれば、人をも怨まず、人からも怨まれないものぞ。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師がいわれた。――
「自分を責めることにきびしくて、他人を責めることがゆるやかであれば、人に怨まれることはないものだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 躬自 … 「躬」「自」は、ともに自分自身の意。
- 躬自厚 … 自分自身を厳しく責めること。「厚」の下に「責」の字があるものとして解釈する。なお、伊藤仁斎は「自分の身を治めることを厚くする」と解釈している。これに対し、荻生徂徠は「責」の字を補うのが古来相伝の説であるとし、仁斎の説を否定している。「補説」参照。
- 薄責於人 … 他人に対してあまり深く責めず、寛大に接する。
- 遠怨 … 他人から怨まれることが少なくなる。怨みごとから遠ざかる。
補説
- 『注疏』に「此の章は人の己を責むるを戒むるなり」(此章戒人責己也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 躬自厚、而薄責於人、則遠怨矣。 … 『集解』に引く孔安国の注に「自ら己を責むること厚くして、人を責むること薄きは、怨咎を遠ざかる所以なり」(自責己厚、責人薄、所以遠怨咎也)とある。怨咎は、怨みと咎め。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「躬は、身なり。君子は己を責むること厚くして、小人は人を責むること厚し。人を責むること厚ければ、則ち怨みの府と為り、己を責むること厚ければ、人の怨みを見ず。故に怨みに遠ざかると云う」(躬、身也。君子責己厚、小人責人厚。責人厚、則爲怨之府、責己厚、人不見怨。故云遠怨)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「躬は、身なり。言うこころは凡そ事自ら責むること厚く、薄く人を責むるは、則ち怨咎に遠ざかる所以なり」(躬、身也。言凡事自責厚、薄責於人、則所以遠怨咎也)とある。また『集注』に「己を責むること厚し。故に身益〻修まる。人を責むること薄し。故に人従い易し。人の得て之を怨みざる所以なり」(責己厚。故身益修。責人薄。故人易從。所以人不得而怨之)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「自ら治むること厚くして、人を責むること薄き者は、仁者の用心にて、何くに往くとして怨み有らんや。小人は此に反す。蓋し怨みに遠ざかる者は、徳の符なり。怨み多き者は、讐の招きなり。故に君子は謹む。昔宋の呂祖謙、性太だ褊急、適〻論語を読みて、此に至りて大いに自ら感悟し、後来一向に、寛厚和易なり。善く論語を読む者と謂う可し」(自治厚、而責人薄者、仁者之用心、何往而有怨哉。小人反此。蓋遠怨者、德之符。多怨者、讎之招。故君子謹焉。昔宋呂祖謙性太褊急、適讀論語、至此大自感悟、後來一向、寛厚和易也。可謂善讀論語者矣)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「孔安国曰く、己を責むること厚く、人を責むること薄きは、怨咎に遠ざかる所以なり、と。是れ一の責の字を補う。亦た古来相伝の説なり。仁斎曰く、自ら治むること厚くして人を責むること薄し、と。是れ其の意に以為えらく責の字無しと。故に易うるに治を以てす。然れども亦た豈に治むること有らんや。亦た古文辞を知らざるの失のみ」(孔安國曰、責己厚、責人薄、所以遠怨咎。是補一責字。亦古來相傳之説也。仁齋曰、自治厚而責人薄。是其意以爲無責字。故易以治。然亦豈有治哉。亦不知古文辭之失已)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
こちらの章もオススメ!
学而第一 | 為政第二 |
八佾第三 | 里仁第四 |
公冶長第五 | 雍也第六 |
述而第七 | 泰伯第八 |
子罕第九 | 郷党第十 |
先進第十一 | 顔淵第十二 |
子路第十三 | 憲問第十四 |
衛霊公第十五 | 季氏第十六 |
陽貨第十七 | 微子第十八 |
子張第十九 | 堯曰第二十 |