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衛霊公第十五 1 衞靈公問陳於孔子章

380(15-01)
衞靈公問陳於孔子。孔子對曰、俎豆之事、則嘗聞之矣。軍旅之事、未之學也。明日遂行。在陳絶糧。從者病、莫能興。子路慍見曰、君子亦有窮乎。子曰、君子固窮。小人窮斯濫矣。
えい霊公れいこうじんこうう。こうこたえていわく、とうことは、すなわかつこれけり。軍旅ぐんりょことは、いまこれまなばざるなりと。明日めいじつついる。ちんりてりょうつ。じゅうしゃみて、つことし。子路しろいかりてまみえていわく、くんきゅうすることるか。いわく、くんもとよりきゅうす。しょうじんきゅうすればここみだる。
現代語訳
  • 衛の国の霊(殿)さまが陣だてのことを孔先生にきく。孔先生のお答え ――「祭りのおそなえなら、聞いて知っておりますが…。軍のそなえのことは、不案内でございます。」と、あくる日にげだした。陳の土地で食糧がなくなる。供の人たちは弱って、起きあがれない。子路がうらめしそうに、面とむかっていう、「人物でも行きづまるものですか。」先生 ――「人物でも行きづまりはするさ。俗物は行きづまると、取りみだすがね。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 衛の霊公が孔子様を引見いんけんされて戦争のことを問われたので、孔子が、「私も祭具のならべ方は以前に聞いたことがござりますが、軍隊のならべ方はまだ学んだことがござりません。」と答えて、そのあくる日、衛の国を去った。それは自分に軍事を問われるようでは、礼楽れいがくをもって国を治めようという自分の意見の採用される見込みはない、と断念されたからである。そしての国へ行こうと思って陳の国に通りかかったとき、誤解のために軍隊に包囲され、数日間糧食が絶えたので、お供の門人たちがえ疲れて立つこともできないほどであった。そこで子路が孔子様の前に出て、「われわれごとき君子がかようにきゅうはくするとは、あろうことか、あるまいことか、誠に心外しんがい千万せんばんでござる。」と憤慨ふんがいした。孔子様が泰然たいぜんとしておっしゃるよう、「君子だとてもちろん窮迫することはある。しかし小人が窮迫すると、取り乱してわるあがきするものぞ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 衛の霊公が戦陣のことについて先師に質問した。先師がこたえていわれた。――
    「私は祭具の使い方については学んだことがありますが、軍隊の使い方については学んだことがございません」
    翌日先師はついに衛を去られた。――
    ちんにおいでの時に、食糧攻めにあわれた。お伴の門人たちは、すっかり弱りきって、起きあがることもできないほどであった。子路が憤慨して先師にいった。――
    「君子にも窮するということがありましょうか」
    すると、先師がいわれた。――
    「君子もむろん窮することがある。しかし、窮してもとりみださない。小人は窮すると、すぐにとりみだすのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 霊公 … 春秋時代、衛の君主。名は元。在位は前534~前493。ウィキペディア【霊公 (衛)】参照。
  • 陳 … 「じん」と読む。陣の古字。戦闘のための軍勢の配置の形。陣立て。
  • 対 … 目上の人に丁寧に答えるときに用いる。
  • 俎豆之事 … 祭具の並べ方など、祭りの儀式に関した事柄。「俎」は、供物を積み重ねてのせる台。「豆」は、供物を盛る高坏たかつき
  • 軍旅之事 … 軍事・軍隊のこと。一万二千五百人を「軍」といい、五百人を「旅」という。
  • 明日 … 「めいじつ」と読む。「あくる日」の意。「みょうにち」と読むと「あした」の意になる。
  • 陳 … 「ちん」と読む。国名。今の河南省淮陽わいよう県を中心とした地にあった小国。春秋時代末にに滅ぼされた。ウィキペディア【陳 (春秋)】参照。
  • 在陳絶糧 … 陳の国で食糧がなくなった。
  • 従者 … 孔子の供の者。孔子の弟子たちを指す。
  • 病 … 飢えて疲れはてる。
  • 莫能興 … 「よくたつことなし」と読む。「興」は、起つ。「莫」は「無」に同じ。「起ち上がることができなかった」と訳す。
  • 子路 … 前542~前480。姓はちゅう、名は由。あざなは子路、または季路。魯のべんの人。孔門十哲のひとり。孔子より九歳年下。門人中最年長者。政治的才能があり、また正義感が強く武勇にも優れていた。ウィキペディア【子路】参照。
  • 慍 … 「いかる」「うらむ」と読む。不平不満を顔に出す。
  • 見 … 「まみゆ」と読み、「お目にかかる」と訳す。
  • 亦 … ~もまた。
  • 窮 … 困窮する。行き詰まる。
  • 乎 … 「か」「や」と読み、「~であろうか」と訳す。疑問の意を示す。
  • 固 … 「もとより」と読み、「もちろん」「いうまでもなく」「もともと」と訳す。
  • 斯 … 「ここに」と読む。「則」に同じ。
  • 濫 … 「らんす」と読んでもよい。乱れる。度を越した行いをする。自暴自棄になる。
  • 矣 … 置き字。
補説
  • 衛霊公第十五 … 『集解』に「凡そ四十一章」(凡四十一章)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「衛霊公とは、衛国の無道の君なり。所以に前者に次ぐ。憲、既に仕を問う。故に時仕う可からざるの君を挙ぐ。故に衛霊公は憲問に次ぐなり」(衞靈公者、衞國無道之君也。所以次前者。憲既問仕。故舉時不可仕之君。故衞靈公次憲問也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「此の章は孔子の礼を先にし兵を後にし、乱を去り治に就くを記し、并せて忠信・仁知・勧学、邦をおさむるに毀誉する所無く、必ず好悪を察し、志士・君子の道、事君・相師の儀を明らかにす。皆恥有りて且つただすの事なり、故に前篇に次するなり」(此章記孔子先禮後兵、去亂就治、幷明忠信仁知勸學、爲邦無所毀譽、必察好惡、志士君子之道、事君相師之儀。皆有耻且格之事、故次前篇也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「凡そ四十一章」(凡四十一章)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『注疏』に「此の章は孔子の礼を先にし兵を後にするの事を記するなり」(此章記孔子先禮後兵之事也)とある。
  • 衛霊公問陳於孔子 … 『集解』に引く孔安国の注に「軍陳行列の法なり」(軍陳行列之法也)とある。また『義疏』に「孔子衛に至り、文教を行わんと欲す。而るに霊公勝業を慕わず。唯だ軍陳の事を問うを知るのみなり」(孔子至衞、欲行文教。而靈公不慕勝業。唯知問於軍陳之事也)とある。また『注疏』に「軍陳・行列の法を孔子に問うなり」(問軍陳行列之法於孔子也)とある。また『集注』に「陳は、軍師行伍の列を謂う」(陳、謂軍師行伍之列)とある。
  • 子路 … 『孔子家語』七十二弟子解に「仲由は卞人べんひと、字は子路。いつの字は季路。孔子よりわかきこと九歳。勇力ゆうりき才芸有り。政事を以て名を著す。人と為り果烈にして剛直。性、にして変通に達せず。衛に仕えて大夫と為る。蒯聵かいがいと其の子ちょうと国を争うに遇う。子路遂に輒の難に死す。孔子之を痛む。曰く、吾、由有りてより、悪言耳に入らず、と」(仲由卞人、字子路。一字季路。少孔子九歳。有勇力才藝。以政事著名。爲人果烈而剛直。性鄙而不達於變通。仕衞爲大夫。遇蒯聵與其子輒爭國。子路遂死輒難。孔子痛之。曰、自吾有由、而惡言不入於耳)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「仲由、字は子路、べんの人なり。孔子よりもわかきこと九歳。子路性いやしく、勇力を好み、志こうちょくにして、雄鶏を冠し、とんび、孔子を陵暴す。孔子、礼を設け、ようやく子路をいざなう。子路、後に儒服してし、門人に因りて弟子たるを請う」(仲由字子路、卞人也。少孔子九歳。子路性鄙、好勇力、志伉直、冠雄鷄、佩豭豚、陵暴孔子。孔子設禮、稍誘子路。子路後儒服委質、因門人請爲弟子)とある。伉直は、心が強くて素直なこと。豭豚は、オスの豚の皮を剣の飾りにしたもの。委質は、はじめて仕官すること。ここでは孔子に弟子入りすること。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 俎豆之事、則嘗聞之矣 … 『集解』に引く孔安国の注に「俎豆は、礼器なり」(俎豆、禮器也)とある。また『義疏』に「俎豆は、礼器なり。孔子は武文自然に兼ね能くす。今、霊公を抑う。故に唯だ嘗て俎豆の事を聞くのみなり」(俎豆、禮器也。孔子武文自然兼能。今抑靈公。故唯嘗聞俎豆事也)とある。また『集注』に「俎豆は、礼器なり」(俎豆、禮器)とある。
  • 軍旅之事、未之学也 … 『集解』に引く鄭玄の注に「万二千五百人を軍と為し、五百人を旅と為す。軍旅は末事なり。本未だ立たざれば、則ち教うるに末事を以てす可からざるなり」(萬二千五百人爲軍、五百人爲旅。軍旅末事。本未立、則不可教以末事也)とある。また『義疏』に「之を拒む。故に嘗て軍旅を学ばずと云うなり。鄭玄曰く、万二千五百人を軍と為し、五百人を旅と為すなり、と。周礼小司徒職に云う、五人を伍と為し、五五を両と為し、四両を卒と為し、五卒を旅と為し、五旅を師と為し、五師を軍と為すなり、と」(拒之。故云不嘗學軍旅也。鄭玄曰、萬二千五百人爲軍、五百人爲旅也。周禮小司徒職云、五人爲伍、五五爲兩、四兩爲卒、五卒爲旅、五旅爲師、五師爲軍也)とある。また『注疏』に「俎豆は、礼器なり。万二千五百人を軍と為し、五百人を旅と為す。孔子の意にては、国を治むるには礼義を以て本と為し、軍旅を末と為す。本未だ立たずんば、則ち教うるに末事を以てす可からず。今、霊公は但だ軍陳を問うのみ、故に対えて曰く、俎豆・行礼の事は、則ち嘗て之を聞けり。軍旅・用兵の事は、未だ之を学ばざるなり、と」(俎豆、禮器。萬二千五百人爲軍、五百人爲旅。孔子之意、治國以禮義爲本、軍旅爲末。本未立、則不可教以末事。今靈公但問軍陳、故對曰、俎豆行禮之事、則嘗聞之。軍旅用兵之事、未之學也)とある。また『集注』に引く尹焞の注に「衛の霊公は無道の君なり。復た戦伐の事に志有り。故に答うるに未だ学ばざるを以てして之を去る」(衞靈公無道之君也。復有志於戰伐之事。故答以未學而去之)とある。
  • 明日遂行 … 『義疏』に「孔子衛に至る。既に武を問うを為す。故に其の明日遂にりて衛に留まらざるなり」(孔子至衞。既爲問武。故其明日遂行不留衞也)とある。
  • 在陳絶糧 … 『集解』に引く孔安国の注に「孔子衛を去り、曹にく。曹容れず、又た宋にく。匡人の難に遭い、又た陳に之く。会〻たまたま呉陳を伐ち、陳乱る。故に食を乏しくするなり」(孔子去衞、如曹。曹不容、又之宋。遭匡人之難、又之陳。會呉伐陳、陳亂。故乏食也)とある。また『義疏』に「明日遂にる。初め曹に往く。曹容れず。又た宋に往く。宋に在りて匡人の囲みに遭う。又た陳に往き、呉陳を伐つに遇う。陳大いに乱る。故に糧食を乏絶す」(明日遂行。初往曹。曹不容。又往宋。在宋遭匡人之圍。又往陳、遇呉伐陳。陳大亂。故乏絶糧食矣)とある。また『注疏』に「孔子衛を去りて曹にく。曹容れず、又た宋にく。宋にて匡人の難に遭い、又た陳に之き、会〻たまたま呉陳を伐ち、陳乱る。故に食を乏しくす」(孔子去衞如曹。曹不容、又之宋。宋遭匡人之難、又之陳、會呉伐陳、陳亂。故乏食)とある。また『集注』に「孔子衛を去りて陳にく」(孔子去衞適陳)とある。
  • 従者病、莫能興 … 『集解』に引く孔安国の注に「従者は、弟子なり。興は、起つなり」(從者、弟子也。興、起也)とある。また『義疏』に「従者は、諸弟子の孔子の行に従いて陳に在りし者なり。病は、飢困なり。興は、起つなり。既に糧を絶つ。故に行に従う弟子皆餓困し、能く起つ者莫きなり」(從者、諸弟子從孔子行在陳者也。病、飢困也。興、起也。既絶糧。故從行弟子皆餓困、莫能起者也)とある。また『注疏』に「従者は、弟子なり。興は、起なり」(從者、弟子。興、起也)とある。また『集注』に「興は、起なり」(興、起也)とある。
  • 子路慍見 … 『義疏』に「諸子皆病み、能く起つ者無し。唯だ子路のみ剛強にして独り能く起つなり。心に君子の行道乃ち此くの如く困乏するに至るを恨む。故に便ちうんしょくして孔子にまみゆるなり」(諸子皆病無能起者。唯子路剛強獨能起也。心恨君子行道乃至如此困乏。故便慍色而見孔子也)とある。
  • 曰、君子亦有窮乎 … 『義疏』に「此れ慍見の辞なり。曾て孔子に聞きて云う、学ぶや禄其の中に在り、と。則ち君子応に窮乏すべからず。今日此くの如くなるは、孔子の言と乖く。故に問いて云う、君子も亦た窮するか、と」(此慍見之辭也。曾聞孔子云、學也禄在其中。則君子不應窮乏。今日如此、與孔子言乖。故問云、君子亦窮乎)とある。
  • 君子亦有窮乎 … 『義疏』に「有」の字なし。
  • 君子固窮。小人窮斯濫矣 … 『集解』の何晏の注に「濫は、溢なり。君子固より亦た窮する時有り。但だ小人の窮すれば、則ち濫溢らんいつして非を為すが如くならざるなり」(濫、溢也。君子固亦有窮時。但不如小人窮、則濫溢爲非也)とある。また『義疏』に「孔子此を言いて答う。因って小人を抑うるなり。君子なるの人固より窮すと言う。亦た窮する時有るのみ。若し窮するに安んぜずして濫溢を為さば、則ち是れ小人ならん。故に小人窮すれば斯に濫すと云う者なり」(孔子言此答。因抑小人也。言君子之人固窮。亦有窮時耳。若不安窮而爲濫溢、則是小人。故云小人窮斯濫者矣)とある。また『注疏』に「濫は、溢なり。君子も固より亦た窮する時有り。但だ小人の窮するときには則ち濫溢して非を為すが如くならざるなり」(濫、溢也。君子固亦有窮時。但不如小人窮則濫溢爲非)とある。また『集注』に引く何晏の注に「濫は、溢なり。言うこころは君子固より窮する時有れども、小人窮すれば則ち放溢して非を為すがごとからず」(濫、溢也。言君子固有窮時、不若小人窮則放溢爲非)とある。また『集注』に「程子(程頤)曰く、窮に固しとは、固く其の窮を守る、と。亦た通ず。愚謂えらく、聖人当に行うべくして行い、顧慮する所無く、困にれどもとおり、怨悔する所無きこと、此に於いて見る可し。学者宜しく深く之を味わうべし」(程子曰、固窮者、固守其窮。亦通。愚謂、聖人當行而行、無所顧慮、處困而亨、無所怨悔、於此可見。學者宜深味之)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「或ひと曰く、春秋戦国の時に在りて、軍旅の事、宜しく先んずる所に在るべくして、俎豆の事、疑うらくは急ならざる者の若し、と。殊に知らず国の国たる所以の者は、夫の天叙天秩なる者有りて、実に之を維持するを以てなるを。苟くも礼譲を以て国をおさむれば、則ち孝順和睦の風興こり、君民上下の情親しく、力をあわせ心を一にし、君を尊び上に親しむ、其の強きいずれかふせがん。然らずんば三綱しずみ、九法やぶれ、人離心有りて、国誰と与にか立たん。軍旅くわしと雖も、果たして何の用いる所ならん。故に曰く、天下をおどすに、兵革の利を以てせず、と。王道の易易たるを言うなり。霊公夫子の大聖を得て、其の問う所を失う、惜しいかな」(或曰、在春秋戰國之時、軍旅之事、宜在所先、而俎豆之事、疑若不急者。殊不知國之所以爲國者、以有夫天叙天秩者、實維持之也。苟以禮讓爲國、則孝順和睦之風興、君民上下之情親、協力一心、尊君親上、其強孰禦焉。不然三綱淪、九法斁、人有離心、國誰與立。軍旅雖精、果何所用哉。故曰、威天下、不以兵革之利。言王道易易也。靈公得夫子之大聖、而失其所問、惜哉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「俎豆は猶おそんのごとし。かんかいを謂う。……蓋し兵威を以て隣国を服するは、礼を以て之を率いるに如かず。……曰く、孔子何ぞ知らざらんや。何となれば、孔子用いらるれば、必ず卿たり。……而うして孔子の云うこと爾る所以の者は、恭なり。……知れども知らずと曰い、能くすれども能くせずと曰うは、皆礼なり。……而るに孔子は知らざる所無しと謂う者は、它人の言のみ。……うんは、孔子に怒るに非ず。払鬱ふつうつの至り、此の言を発す。故にうんしてあらわると曰う。亦た孔子を以てと為すなり。難に遭いて払鬱し、方寸まさに乱れんとす。故に告ぐるに小人窮すればここに濫すというを以てす。何となれば、孔子を以て迂と為さば、其のきわめは必ず濫するに至ればなり」(俎豆猶樽俎。謂衣冠之會。……蓋以兵威服鄰國、不如以禮率之。……曰、孔子何不知也。何則、孔子見用、必爲卿矣。……而孔子所以云爾者、恭也。……知而曰不知、能而曰不能、皆禮也。……而謂孔子無所不知者、它人之言耳。……慍、非怒孔子矣。拂欝之至、發此言。故曰慍見。亦以孔子爲迂也。遭難而拂欝、方寸將亂。故告以小人窮斯濫矣。何則、以孔子爲迂、其究必至濫也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十