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先進第十一 22 子畏於匡顏淵後章

275(11-22)
子畏於匡。顏淵後。子曰、吾以女爲死矣。曰、子在。回何敢死。
きょうす。顔淵がんえんおくれたり。いわく、われなんじもっせりとす。いわく、います。かいなんえてせん。
現代語訳
  • 先生が匡(キョウ)の土地で災難のとき、顔淵はみなにおくれた。先生 ――「おまえは死んだかと思ったぞ。」顔淵 ―― 「先生よりさきに、どうして死ねましょう…。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がきょうでご難のとき、顔淵が一行からおくれて行方不明になったので、心配しておられたら、やがて追いついた。孔子様がおっしゃるよう、「わしはお前が死んだかと思ったよ。」顔淵が申すよう、「先生がおいでになります。顔回何とて軽々かるがるしく死にましょうや。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がきょうの難にわれた時、顔淵は一行におくれて一時消息不明になっていたが、やっと追いつくと、先師はいわれた。――
    「私は、お前が死んだのではないかと、気が気でなかったよ」
    すると、顔淵はいった。――
    「先生がおいでになるのに、なんで私が軽々しく死なれましょう」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 匡 … 衛の国の地名。
  • 畏 … 生命の危険にさらされる。ここでは孔子の容貌が陽虎に似ていたため、匡の住民に間違われて包囲され、五日間も拘禁されたことを指す。「子罕第九5」参照。
  • 顔淵 … 前521~前490頃。孔子の第一の弟子、顔回。姓は顔、名は回。あざなえんであるので顔淵とも呼ばれた。の人。徳行第一といわれた。孔子より三十歳年少。早世し孔子を大いに嘆かせた。孔門十哲のひとり。ウィキペディア【顔回】参照。
  • 後 … 一行におくれて消息不明になった。
  • 吾以女為死矣 … 私はお前が死んだものと思ったよ。
  • 女 … 「汝」に同じ。
  • 回 … 顔淵の名。ここでは「わたくし」。
  • 何敢死 … どうして死ねましょう。「何敢」は「なんぞあえて~せん」と読み、「どうして~しようか、~しない」と訳す。
補説
  • 『注疏』に「此の章は仁者には必ず勇有るを言うなり」(此章言仁者必有勇也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子畏於匡 … 『義疏』に「猶お是れ前に、匡人に誤り囲まるるがごとし」(猶是前被匡人誤圍)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 顔淵 … 『孔子家語』七十二弟子解に「顔回はひと、字は子淵。孔子よりわかきこと三十歳。年二十九にして髪白く、三十一にして早く死す。孔子曰く、吾に回有りてより、門人日〻益〻親しむ、と。回、徳行を以て名を著す。孔子其の仁なるをたたう」(顏回魯人、字子淵。少孔子三十歳。年二十九而髮白、三十一早死。孔子曰、自吾有回、門人日益親。回以德行著名。孔子稱其仁焉)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「顔回は、魯の人なり。字は子淵。孔子より少きこと三十歳」(顏回者、魯人也。字子淵。少孔子三十歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 顔淵後 … 『集解』に引く孔安国の注に「言うこころは孔子と相失い、故に後に在るなり」(言與孔子相失、故在後也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「時に顔淵孔子と倶に匡の為に囲まる。孔子先に出づるを得て還りて家に至る。而るに顔淵後れて、乃ち出づるを得て還り至るなり」(時顏淵與孔子倶爲匡圍。孔子先得出還至家。而顏淵後、乃得出還至也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「孔子匡に畏れし時、顔回と相失い、既に免れて回後方に在りて至るを言うなり」(言孔子畏於匡時、與顏回相失、既免而回在後方至也)とある。また『集注』に「後は、相失いて後に在るを謂う」(後、謂相失在後)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子曰、吾以女為死矣 … 『義疏』に「淵後れて至る。而して孔子云う、汝還らざりしとき、我言う、汝当に匡の難中に死すべし、と」(淵後至。而孔子云、汝不還、我言、汝當死於匡難中)とある。また『注疏』に「孔子顔淵に謂いて曰く、吾なんじを以て死を致して匡人と闘うと為すなり、と」(孔子謂顏淵曰、吾以女爲致死與匡人鬬也)とある。
  • 女 … 『義疏』では「汝」に作る。
  • 曰、子在。回何敢死 … 『集解』に引く包咸の注に「言うこころは夫子在すに、已に敢えて死する所無きなり」(言夫子在、已無所敢死也)とある。また『義疏』に「顔淵の答え、其れゆえ有るなり。夫れ聖賢の影響は、天の時雨を降すとき、山沢必ず先ず為に雲を出だすが如し。孔子既に世に在せば、則ち顔回理として死するを得ず。死せば則ち孔道便ち絶ゆ。故に淵死して孔云う、天、予を喪ぼせり、と。庾翼云う、顔子未だ理の妙を尽くし窮むること能わず、妙尽くさざること有るときは、則ち以て険津をわたる可からず、理未だ窮めざること有るときは、則ち以て屯路を冒す可からず。故に賢は聖に遭わざれば、運否にして則ち必ず隠る、聖も賢に値わざれば、微言顕れず。是を以て夫子匡に畏るるに因りて問いを発す、顔子其の旨を体して仰酬す。入室を称して指南を為して、門徒にひらくに、出処を以てす、豈に聖賢の誠に非ざらんや、言うこころは互いに相ともに予を起こすことを為す者なり、と」(顏淵之答、其有以也。夫聖賢影響、如天降時雨、山澤必先爲出雲。孔子既在世、則顏回理不得死。死則孔道便絶。故淵死而孔云、天喪予也。庾翼云、顏子未能盡窮理之妙、妙有不盡、則不可以渉險津、理有未窮、則不可以冒屯路。故賢不遭聖、運否則必隱、聖不値賢、微言不顯。是以夫子因畏匡而發問、顏子體其旨而仰酬。稱入室爲指南、啓門徒、以出處、豈非聖賢之誠、言互相與爲起予者也)とある。また『注疏』に「言うこころは夫子若し危難に陥らば、則ち回は必ず死を致さん。今夫子在せば、己は則ち敢えて死する所無し。敢えて死を致さざるを言うなり」(言夫子若陷於危難、則回必致死。今夫子在、己則無所敢死。言不敢致死也)とある。また『集注』に「何ぞ敢えて死せんは、闘に赴きて必ずしも死せざるを謂うなり」(何敢死、謂不赴鬪而必死也)とある。
  • 『集注』に引く胡寅の注に「先王の制は、民、三に生ず。之に事うること一の如し、惟だ其の在る所には、則ち死を致す。況んや顔淵の孔子に於ける、恩義兼ね尽くす。又た他人の師弟子と為る者のみに非ず。即ち夫子不幸にして難に遇えば、回必ず生をてて以て之に赴く。生を捐てて以て之に赴き、幸にして死せざれば、則ち必ず上は天子に告げ、下は方伯に告げ、討ちて以て讐を復すことを請う。但には已まざるなり。夫子にして在せば、則ち回なんれぞ其の死をおしまず、以て匡人の鋒を犯さんや」(先王之制、民生於三。事之如一、惟其所在、則致死焉。況顏淵之於孔子、恩義兼盡。又非他人之爲師弟子者而已。即夫子不幸而遇難、回必捐生以赴之矣。捐生以赴之、幸而不死、則必上告天子、下告方伯、請討以復讎。不但已也。夫子而在、則回何爲而不愛其死、以犯匡人之鋒乎)とある。三に生ずとは、父・師・君に生かされているということ。『国語』晋語に「民、三に生ず。之に事うること一の如し。父は之を生み、師は之を教え、君は之をやしなう」(民生於三。事之如一。父生之、師教之、君食之)とあるのに基づく。ウィキソース「國語/卷07」参照。方伯は、諸侯の長。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「夫子愛護の厚き、顔子契合けいごうの深き、倶に道に在りて、恩義兼ね尽くるのみに非ざるなり」(夫子愛護之厚、顏子契合之深、倶在於道、而非恩義兼盡而已也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「蓋し顔子ことさらに後に在りて以て孔子を護る。蓋し闘うなり。……蓋し顔子は其の闘いて以て夫子を護りしを言わずして、夫子つつがければ、回敢えて闘わずと曰う。一は以て其の労にほこること無く、一は以て夫子の心を安んず。藹然あいぜんたる君子の言なり。故に記す。死と曰う者は、皆死を犯すを謂うなり。史のしゅ死して戦うの如きなり。朱子古言を知らず。懞憧もうどうなるかな」(蓋顏子故在後以護孔子。蓋鬪也。……蓋顏子不言其鬪以護夫子、而曰夫子無恙、回不敢鬪。一以無伐其勞、一以安夫子之心。藹然君子之言也。故記焉。曰死者、皆謂犯死也。如史殊死戰也。朱子不知古言。懞憧哉)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
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公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
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陽貨第十七 微子第十八
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