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郷党第十 6 君子不以紺緅飾章

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君子不以紺緅飾。紅紫不以爲褻服。當暑袗絺綌、必表而出之。緇衣羔裘、素衣麑裘、黃衣狐裘。褻裘長、短右袂。必有寢衣、長一身有半。狐貉之厚以居。去喪無所不佩。非帷裳、必殺之。羔裘玄冠、不以弔。吉月必朝服而朝。
くんかんしゅうもっかざらず。こうもっ褻服せつふくさず。しょたってはひとえげきかならひょうしてこれいだす。緇衣しいにはこうきゅう素衣そいにはげいきゅうこうにはきゅうせつきゅうながく、みぎたもとみじかくす。かならしんり、なが一身有半いっしんゆうはんかくあつきをもっる。のぞけばびざるところし。しょうあらざれば、かならこれさいす。こうきゅう玄冠げんかんしては、もっちょうせず。吉月きつげつにはかならちょうふくしてちょうす。
現代語訳
  • ご自身はコンやクリ色(のような喪服ふう)のヘリをつけず、赤や紫(のようなハデな色)はふだん着にもつくらなかった。夏にはひとえの麻ごろもで、かならず下着をかさねる。黒い服には黒ヒツジの皮、白い服には子ジカの白皮、黄色の服にはキツネの皮をあしらう。ふだん着は長くし、右ソデをつめる。ネマキは別にして、身のたけと半分。キツネやムジナの毛ぶかい皮が家庭着。喪中のほかは、玉などをいつも身につける。祭りばかまのほかは、みなヒダをとらぬ。羊の皮に黒かんむりでは、おくやみにゆかぬ。ついたちには、宮中服で参内する。(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様の服装はすこぶる礼儀正しいものであった。紺色こんいろや栗梅色はの色だから、その色の布をえり袖口そでぐちにしなかった。紅や紫ははででなまめかしいから、ふだんぎにしなかった。暑い時には麻のひとえをきるが、客に会ったり外出するときには、必ずその上にうわぎをきた。黒衣には子羊の黒い毛皮、白衣には鹿じかの白い毛皮、黄衣には黄色のきつねの毛皮、という風に上着も下着も同色を用いた。ふだんぎの毛皮は、暖かきを主として長めにし、右の袖をたくし上げうるように仕立てた。ねるには必ずねまきにきかえ、ねまきは身長一倍半のたけにした。の時以外は玉その他一通りの装身具をつける。礼服の場合の一幅ひとはばのきれで腰の部分にひだを取るが、その以外は上をそぎ下をわせる。黒は吉礼の色だから、黒い冠や黒い毛皮ではちょうもん葬式そうしきに行かない。たいをやめた後でも、毎月朔日ついたちには大礼服たいれいふくで朝廷に参賀される。(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先生は衣服にもこまかな注意を払われる。紺色や淡紅色は喪服の飾りだから、それを他の場合の襟の飾りには用いられないし、また平常服に赤や紫のようなはでな色を用いられることもない。暑い時には単衣のかたびらを着られるが、下着なしに着られることはない。黒衣の下には黒羊の皮衣、白服の下には白鹿の皮衣、黄衣の下には狐の皮衣を用いられる。平常服の皮衣は温かいように長目に仕立てられるが、働きよいように右袂を短くされる。寝衣は必ず別にされ、長さは身長の一倍半である。家居には、狐やむじなの毛皮を用いて暖かにされる。喪の時以外は玉その他の装身具をきちんと身につけていられる。官服・祭服のほかは簡略にして布地を節約される。黒羊の皮衣や黒の冠で弔問されることはない。退官後も、毎月朔日ついたちには礼服を着て参賀される。(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 君子 … ここでは孔子を指す。
  • 紺 … 紺色。
  • 緅 … 赤茶色。
  • 飾 … えりへり
  • 紅紫 … 紅色や紫色。正色(赤・黄・青・白・黒)ではなく、派手な間色なので平服には用いない。
  • 褻服 … 平服。平常服。普段着。
  • 袗 … ひと
  • 当暑 … 暑い季節には。
  • 絺綌 … 「」は、葛の繊維で織った目の細かい布。「げき」は、葛の繊維で織った目の粗い布。
  • 必表而出之 … 必ず下着を着て、その上に絺綌を着ること。異説も多い。
  • 緇衣 … 黒い木綿の上着。
  • 羔裘 … 小羊の毛皮。
  • 素衣 … 白の上着。
  • 麑裘 … 子鹿の皮でつくった毛皮。
  • 黄衣 … 黄色の上着。
  • 狐裘 … 黄色い狐の毛皮。
  • 褻裘長 … ふだん着の皮衣は温かくするため、丈を長目に作る。
  • 短右袂 … 右の袖は短くして働きやすくした。
  • 寝衣 … 「寝る時に着る着物、寝間着」という説と、「掛け布団」という説とがある。
  • 長一身有半 … 身長の一倍半。
  • 狐貉之厚以居 … 家にいる時は、狐やむじなの暑い毛皮を普段着に着る。
  • 去喪無所不佩 … 喪に服する時以外は、宝石その他の装身具を腰に下げた。
  • 帷裳 … 朝廷に出仕したり、または祭事のときに着用するもすそ
  • 必殺之 … 「殺」は、裁断して狭く切り込むこと。下を広く、上を狭くし、ひだなしで仕立てること。
  • 玄冠 … 黒い布をかぶせた冠。当時、黒は吉事に、白は凶事に用いられた。
  • 吉月 … 毎月の最初の日。ついたち。
  • 朝服而朝 … 朝廷の礼服を着て出仕された。
補説
  • 『注疏』では次章の「齊必有明衣布」までを本章とし、「此の一節は孔子の衣服の礼を記するなり」(此一節記孔子衣服之禮也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 君子不以紺緅飾 … 『集解』に引く孔安国の注に「一入を緅と曰う。飾とは、以て領袖の縁をつくらざるなり。紺とは、斎服の盛色にして、以て飾を為るに、斎服を衣るがごとし。緅とは、三年の練、緅を以て衣を飾り、ために其れ喪服を衣るが似し。故に皆以て衣を飾らざるなり」(一入曰緅。飾者、不以爲領袖緣也。紺者、齋服盛色、以爲飾、似衣齋服也。緅者、三年練、以緅飾衣、爲其似衣喪服。故皆不以飾衣也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「君子とは、士より以上なり。士以上は衣服法有り、雑色ある可からざるなり。紺緅とは、孔の意に言う、紺は是れ玄色なり。緅は是れ浅絳色なり。飾りとは、衣の領袖の縁なり。紺緅を用いずして、衣の領袖の飾りと為す所以の者なり。玄は是れ斎服なり。若し紺を用いて衣の飾りと為さば、是れ斎服をるがごとし。故に用いざるなり。又た三年の喪、練して浅絳を受けて縁と為すなり。若し緅を用いて衣の飾りと為さば、是れ喪服を衣るがごとし。故に敢えて用いざるなり。故に云う、君子は紺緅を以て飾らざるなり」(君子者、自士以上也。士以上衣服有法、不可雜色也。紺緅者、孔意言紺是玄色也。緅是淺絳色也。飾者、衣之領袖緣也。所以不用紺緅、爲衣領袖飾者。玄是齋服。若用紺爲衣飾、是似衣齋服。故不用也。又三年之喪、練而受淺絳爲緣也。若用緅爲衣飾、是似衣喪服。故不敢用也。故云、君子不以紺緅飾也)とある。なお、「君子者」は底本では「君子有」に作るが、諸本に従い改めた。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「君子は、孔子を謂うなり。紺は、玄色なり。緅は、浅絳色なり。飾とは、領縁なり。紺とは、斉服の盛色、以て飾衣を為るに、斉服をるに似たり。緅とは、三年の練にして、緅を以て衣を飾り、其の喪服を衣るに似たるが為に、故に皆以て飾衣を為らず」(君子、謂孔子也。紺、玄色。緅、淺絳色。飾者、領緣也。紺者、齊服盛色、以爲飾衣、似衣齊服。緅者、三年練、以緅飾衣、爲其似衣喪服、故皆不以爲飾衣)とある。また『集注』に「君子は、孔子を謂う。紺は、深青揚赤色、斉服なり。緅は、絳色。三年の喪に、以て練服に飾するなり。飾は、領縁なり」(君子、謂孔子。紺、深青揚赤色、齊服也。緅、絳色。三年之喪、以飾練服也。飾、領緣也)とある。絳色は、淡紅色。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 紅紫不以為褻服 … 『集解』に引く王粛の注に「䙝服は、私居にして、公会の服に非ず。皆正しからず。䙝すら尚お衣ず。正服は施す所無きなり」(䙝服、私居、非公會之服。皆不正。䙝尚不衣。正服無所施也)とある。また『義疏』に「紅紫は正色に非ざるなり。䙝服は、私䙝の服、正衣に非ざるなり。䙝すら尚お衣ざれば、則ち正服の故に宜しく用いざるべきなり。此を言う所以の者は、時に多く紅紫を重しと為して正色を棄つればなり。故に孔子之を衣ざるなり。故に後巻に云う、紫の朱を奪うを悪むなり、と」(紅紫非正色也。䙝服、私䙝之服、非正衣也。䙝尚不衣、則正服。故宜不用也。所以言此者、爲時多重紅紫棄正色故孔子不衣之也。故後卷云、惡紫之奪朱也)とある。また『注疏』に「紅は、南方の間色なり。紫は、北方の間色なり。褻服は、私居の服にして、公会の服に非ず。其の紅・紫の二色は皆正しからざるを以て、故に以て褻服と為さず。褻服すら尚お用いざれば、則ち正服には施す所無きこと知る可きなり。但だ紅紫を言うのみなれば、則ち五方の間色は皆用いざるなり」(紅、南方間色。紫、北方間色。褻服、私居服、非公會之服。以其紅紫二色皆不正、故不以爲褻服。褻服尚不用、則正服無所施可知也。但言紅紫、則五方間色皆不用也)とある。また『集注』に「紅紫は、間色にして正しからず。且つ婦人女子の服に近し。褻服は、私居の服なり。此を言えば、則ち以て朝祭の服と為さざるを知る可し」(紅紫、間色不正。且近於婦人女子之服也。褻服、私居服也。言此則不以爲朝祭之服可知)とある。
  • 当暑袗絺綌、必表而出之 … 『集解』に引く孔安国の注に「暑ければ則ち単服す。絺綌は、葛なり。必ず表して之を出だすは、上衣を加うるなり」(暑則單服。絺綌、葛也。必表而出之、加上衣)とある。また『義疏』に「暑は、熱なり。縝は、単なり。絺は、細練の葛なり。綌は、大練の葛なり。表にすは、上衣を加うるを謂うなり。古人冬には則ち裘を、夏には則ち葛を衣るなり。若し家に在らば、則ち裘・葛の上、亦た別に衣を加うること無し。若し出で行きて賓に接すれば、皆上衣を加う。暑に当たっては熱して絺綌ひとえなる可しと雖も、若し出づるときは、ひとえなる可からず、則ち必ず上衣を加う。故に云う、必ず表にして出だす、と。然るに裘上も出づるときは亦た必ず衣を加う、而るに独り暑に当たっては絺綌と云うは、暑熱は加えざるにうたがいあり、故に特に之を明らかにするなり。然して又た衣の裏の裘は、必ず上衣の色に随いて、衣裘相かなえしむ。則ち葛の衣たることは、亦た未だ必ずしも上服の色に随わざるなり」(暑、熱也。縝、單也。絺、細練葛也。綌、大練葛也。表、謂加上衣也。古人冬則衣裘、夏則衣葛也。若在家、則裘葛之上、亦無別加衣。若出行接賓、皆加上衣。當暑雖熱絺綌可單、若出、不可單、則必加上衣。故云、必表而出也。然裘上出亦必加衣、而獨云當暑絺綌者、嫌暑熱不加、故特明之也。然又衣裏之裘、必隨上衣之色、使衣裘相稱。則葛之爲衣、亦未必隨上服色也)とある。また『注疏』に「袗は、単なり。絺綌は、葛なり。精を絺と曰い、を綌と曰う。暑きときは則ち単服し、必ず表衣を加尚くわえて然る後に之を出だすは、其の形のけがるるが為の故なり」(袗、單也。絺綌、葛也。精曰絺、麤曰綌。暑則單服、必加尚表衣然後出之、爲其形褻故也)とある。また『集注』に「袗は、単なり。葛の精なる者をと曰い、なる者をげきと曰う。表して之を出だすは、先ず裏衣を著て、絺綌を表にして之を外に出だすを謂う。其の体をあらわさざるを欲するなり。詩に所謂彼の縐絺を蒙る、是れなり」(袗、單也。葛之精者曰絺、麤者曰綌。表而出之、謂先著裏衣、表絺綌而出之於外。欲其不見體也。詩所謂蒙彼縐絺、是也)とある。詩は、『詩経』。
  • 袗 … 『義疏』では「縝」に作る。『経典釈文』では「紾」に作る。
  • 出之 … 『集解』および『義疏』には「之」の字なし。
  • 緇衣羔裘 … 『義疏』に「裘の色は既に衣に随う。故に此れ仍ち裘上の衣を明らかにするなり。緇は黒に染むること七入の者なり。玄は則ち六入の色なり。羔とは、烏羊なり。裘と上衣と相かなえば、則ち緇衣の内、故に羔裘と曰うなり。緇衣の服は、玄冠十五升の緇布の衣に、素積裳なり。素積とは、素を用いて之のひだつくって、之を積摂すること数無し、故に素積と云うなり。此れは是れ諸侯の日に朝を視るの服なり。諸侯の朝を視ること、群臣と服を同じうす、孔子は是れ魯の臣なり、故に亦た此の服を服して以て日に君に朝するなり」(裘色旣隨衣。故此仍明裘上之衣也。緇染黑七入者也。玄則六入色也。羔者、烏羊也。裘與上衣相稱、則緇衣之内、故曰羔裘也。緇衣服者、玄冠十五升緇布衣、素積裳也。素積者、用素爲之襞、積攝之無數、故云素積也。此是諸侯日視朝服也。諸侯視朝、與羣臣同服、孔子是魯臣、故亦服此服以日朝君也)とある。また『注疏』に「凡そ祭服は、先ず明衣を加え、次に中衣を加う。冬には則ち次に袍繭ほうけんを加う。夏には則ち袍繭せず、葛を用うるや、次に祭服を加う。若し朝服ならば、布衣も亦た先ず明衣・親身を以てし、次に中衣を加う。冬には則ち次に裘を加え、裘の上にせきを加え、裼衣の上に朝服を加う。夏には則ち中衣の上には、裘を用いずして葛を加え、葛の上に朝服を加う。凡そ服は必ず中外の色相かなう。羔裘は、黒羊の裘なり。故に緇衣を用いて以て之を裼す」(凡祭服、先加明衣、次加中衣。冬則次加袍繭。夏則不袍繭、用葛也、次加祭服。若朝服、布衣亦先以明衣親身、次加中衣。冬則次加裘、裘上加裼衣、裼衣之上加朝服。夏則中衣之上、不用裘而加葛、葛上加朝服。凡服必中外之色相稱。羔裘、黑羊裘也。故用緇衣以裼之)とある。また『集注』に「緇は、黒色。羔裘は、黒羊の皮を用う」(緇、黑色。羔裘、用黑羊皮)とある。
  • 素衣麑裘 … 『義疏』に「素衣は、衣裳並びに素を用うるを謂うなり。麑は、鹿の子なり。鹿の子の色は白に近し。素と微に相かなうなり。国に凶荒有るとき、君素服せば、則ち群臣之に従うを謂う。故に孔子は魯の臣、亦た之を服するなり。喪服は則ち大鹿を裘と為すなり。故に檀弓に云う、鹿裘し横に長く祛ありという、是れなり。此れ凶荒の服既に軽し。故に裘に鹿の子を用う。鹿の子の文は大鹿に勝るなり。或いは云う、たいには百物の神を祭る、皮弁素服なり、と。故に鄭玄の注の郊特牲に云う、皮弁素服して、祭りて以て終わりを送るなり、と。注に云う、素服とは、衣裳皆しろきなり、と」(素衣、謂衣裳竝用素也。麑、鹿子也。鹿子色近白。與素微相稱也。謂國有凶荒、君素服、則羣臣從之。故孔子魯臣、亦服之也。喪服則大鹿爲裘也。故檀弓云、鹿裘横長祛、是也。此凶荒之服旣輕。故裘用鹿子。鹿子文勝於大鹿也。或云、大蜡祭百物之神、皮弁素服也。故鄭玄注郊特牲云、皮弁素服、而祭以送終也。注云、素服者、衣裳皆素也)とある。また『注疏』に「麑裘は、鹿子の皮を以て裘を為るなり。故に素衣を用いて以て之を裼す」(麑裘、鹿子皮以爲裘也。故用素衣以裼之)とある。また『集注』に「麑は、鹿の子、色白し」(麑、鹿子、色白)とある。
  • 黄衣狐裘 … 『集解』に引く孔安国の注に「服は皆中外の色相かなうなり」(服皆中外之色相稱也)とある。また『義疏』に「此の服は、蜡祭、宗廟、五祀を謂うなり。歳終の大蜡は功に報ゆるなり。物色の黄落に象る。故に黄衣、黄冠を着くるなり。而して狐貉も亦た黄なり。故にただに裘のみ以て相かなうと為すなり。孔子臣と為りて蜡祭を助く。亦た君に随いて黄衣を着るなり。故に礼運に云う、昔者むかし仲尼蜡賓に預るとは、是れなり。鄭玄、郊特牲に注して云う、黄衣、黄冠して祭る、と。注に云う、祭とは、既に蜡に、先祖の五祀を臘するを謂うなり、と。又た云う、論語に云う、黄衣には、狐の裘、と。鄭を案ずるに、以て論語の黄衣は、即ち是れ郊特牲に蜡に廟を臘祭する服なり」(此服、謂蜡祭宗廟五祀也。歲終大蜡報功。象物色黃落。故着黃衣黃冠也。而狐貉亦黃。故特爲裘以相稱也。孔子爲臣助蜡祭。亦隨君着黃衣也。故禮運云、昔者仲尼預於蜡賓、是也。鄭玄注郊特牲云、黃衣黃冠而祭。注云、祭、謂既蜡、臘先祖五祀也。又云、論語云、黄衣、狐裘。案鄭、以論語黄衣、即是郊特牲蜡臘祭廟服也)とある。また『注疏』に「狐裘は、黄なるが故に黄衣を用いて以て之を裼す」(狐裘、黃故用黃衣以裼之)とある。また『集注』に「狐は、色黄。衣以て裘にせきとするは、其の相かなうを欲するなり」(狐、色黄。衣以裼裘、欲其相稱)とある。
  • 褻裘長、短右袂 … 『集解』に引く孔安国の注に「私家の裘は長く、温かきを主とするなり。右の袂を短くするは、事を作すに便ならしむるなり」(私家裘長、主溫也。短右袂者、便作事也)とある。また『義疏』に「褻裘は、家中常に着る裘を謂うなり。上衣を加うること無し。故に衣と云わざるなり。家居は温暖を主とす。故に長くして之を為るなり。而して右臂は是れ有事の用、故に短く右袂を為る。事を作すに便ならしむるなり。袂は、衣袂の身に属する者を謂うなり。手の間、袂に属する者なれば、則ち祛と名づく。亦た袖と曰うなり」(褻裘、謂家中常着也。上無加衣。故不云衣也。家居主溫暖。故長爲之也。而右臂是有事之用、故短爲右袂。使作事便也。袂、謂衣袂屬身者也。手間屬袂者、則名祛。亦曰袖也)とある。また『注疏』に「此の裘は私家にてる所の裘なり。之を長くするは、温かきを主とすればなり。袂は、是れ裘の袖なり。右の袂を短くするは、事を作すに便なればなり」(此裘私家所著之裘也。長之者、主温也。袂、是裘之袖。短右袂者、作事便也)とある。また『集注』に「長くすは、其の温かきを欲す。右の袂を短くすは、事をすに便ある所以なり」(長、欲其温。短右袂、所以便作事)とある。
  • 必有寝衣、長一身有半 … 『集解』に引く孔安国の注に「今の被なり」(今之被也)とある。被は、掛け布団のこと。また『義疏』に「寝衣は、被を謂うなり。宜しく長かるべし。故に長さ一身有半なり」(寢衣、謂被也。宜長。故長一身有半也)とある。また『注疏』に「今の被なり」(今之被也)とある。また『集注』に「斉は敬を主とす。衣を解きてぬ可からず。又た明衣を著て寝ぬ可からず。故に別に寝衣有り。其の半は蓋し以て足を覆う」(齊主於敬。不可解衣而寢。又不可著明衣而寢。故別有寢衣。其半蓋以覆足)とある。また『集注』に引く程頤の注に「此れ錯簡なり。当に斉すれば必ず明衣有り、布なりの下に在るべし」(此錯簡。當在齊必有明衣布之下)とある。また『集注』に「愚謂えらく、此くの如くなれば則ち此の条と明衣変食と既に類を以て相従うを得て、䙝裘狐貉も、亦た類を以て相従うを得」(愚謂、如此則此條與明衣變食既得以類相從、而䙝裘狐貉、亦得以類相從矣)とある。
  • 狐貉之厚以居 … 『集解』に引く鄭玄の注に「家に在りて以て賓客に接するなり」(在家以接賓客也)とある。なお、底本では「賓客」の後に「之」の字があるが省いた。また『義疏』に「此れ家に在りて賓客に接するの裘を謂うなり。家に居りては温を主とす。故に厚く之を為るなり。既に賓客に接すれば、則ち其の上も亦た応に衣有るべきなり」(此謂在家接賓客之裘也。家居主溫。故厚爲之也。旣接賓客、則其上亦應有衣也)とある。また『注疏』に「家に在りて賓客に接するの裘を謂うなり。家に居りては温かきを主とす、故に厚く之を為る」(謂在家接賓客之裘也。居家主温、故厚爲之)とある。また『集注』に「狐貉は、毛深く温厚なり。私居に其の体に適うに取る」(狐貉、毛深温厚。私居取其適體)とある。また劉宝楠『論語正義』に引くえんじゃくきょの注に「狐貉の厚き以て居るはじょくと為す」(狐貉之厚以居爲坐褥)とあり、「狐やむじなの暑い毛皮を敷物にして坐る」と解釈している。
  • 狐貉 … 『集注』及び『義疏』では「狐狢」に作る。
  • 去喪無所不佩 … 『集解』に引く孔安国の注に「去は、除なり。喪に非ざれば則ちつぶさに宜しくぶべき所を佩ぶるなり」(去、除也。非喪則備佩所宜佩也)とある。また『義疏』に「喪をのぞくは、三年の喪畢わりて、喪服已に除くを謂うなり。佩びざる所無しは、佩ぶること已に今は吉、宜しく佩ぶる所を得べき者、悉く之を佩ぶるを謂うなり。既に親を喪することを経、恐らくは服を除いてののち猶お宜しく異なること有るべきにうたがいあり、故に特に之を明らかにする者なり」(去喪、謂三年喪畢喪服已除也。無所不佩、謂佩已今吉、所宜得佩者悉佩之也。嫌既經喪親、恐除服後猶宜有異、故特明之者也)とある。また『注疏』に「去は、除なり。喪に居りては飾無し、故に佩びず。喪を除けば、則ちつぶさに宜しく佩ぶべき所を佩ぶるなり」(去、除也。居喪無飾、故不佩。除喪、則備佩所宜佩也)とある。また『集注』に「君子故無くして、玉身を去らず。觿けいれいの属も、亦た皆佩ぶるなり」(君子無故、玉不去身。觿礪之屬、亦皆佩也)とある。
  • 非帷裳、必殺之 … 『集解』に引く王粛の注に「衣には必ず殺縫有り、唯だ帷裳は無之を殺」(衣必有殺縫、唯帷裳無殺之)とある。また『義疏』に「帷裳は、帷幔の属を謂うなり。殺は、之を縫うを謂うなり。若し帷幔の裳に非ざれば、則ち必ず縫いて之を殺し、以て殺縫の面を裏に置き、殺せざるの面は外に在り。而して帷裳は但だ之を刺連するのみ。今の服帊の如くにして、裏の外は殺縫の異有らざるなり。然る所以の者は、帷幔の内外並びに人の見る所と為る。必ず須らく飾るべし。故に之を刺連するのみ。所以に喪服に云う、凡そ裳内幅を削り、裳外は幅を削らず、と。鄭注に云う、削は、猶お殺のごときなり、と。而るに鄭注此に云う、帷裳は、朝祭の服、其の正幅を制すること帷の如きを謂うなり。非とは、余衣を謂うなり。之を殺すとは、其の幅を削り、縫斎をして腰に陪せしむるなり」(帷裳、謂帷幔之屬也。殺、謂縫之也。若非帷幔裳、則必縫殺之、以殺縫之面置裏、不殺之面在外。而帷裳但刺連之。如今服帊、不有裏外殺縫之異也。所以然者、帷幔内外竝爲人所見。必須飾。故刺連之而已也。所以喪服云、凡裳内削幅、裳外不削幅。鄭注云、削、猶殺也。而鄭注此云、帷裳、謂朝祭之服、其制正幅如帷也。非者、謂餘衣也。殺之者、削其幅、使縫齋陪腰也)とある。また『注疏』に「殺は、殺縫を謂う。凡そ衣には必ず殺縫有り、唯だ帷裳のみ無きなり」(殺、謂殺縫。凡衣必有殺縫、唯帷裳無也)とある。また『集注』に「朝祭の服は、裳に正幅を用うること帷の如くす。要に襞積有りて、旁に殺縫無し。其の余深衣の若きは、要は下に半ばにし、斉は要に倍す。則ち襞積無くして殺縫有り」(朝祭之服、裳用正幅如帷。要有襞積、而旁無殺縫。其餘若深衣、要半下、齊倍要。則無襞積而有殺縫矣)とある。
  • 羔裘玄冠、不以弔 … 『集解』に引く孔安国の注に「喪にはしろを主とし、吉にはくろを主とす。吉凶は服を異にす。故に相弔わざるなり」(喪主素、吉主玄。吉凶異服。故不相弔也)とある。また『義疏』に「弔は、喪を弔するなり。喪は凶にして素を主とす。故に羔玄は弔に用いざるなり」(弔、弔喪也。喪凶主素。故羔玄不用弔也)とある。また『注疏』に「凶はしろを主とし、吉はくろを主とす、故に羔裘・玄冠は、以て弔喪せざるなり。……檀弓に云う、奠するに素器を以てするは、生者哀素の心有るを以てなり、と。注に哀素は、哀痛して飾り無きを言う。凡そ物に飾り無きを素と曰う」(凶主素、吉主玄、故羔裘玄冠、不以弔喪也。……檀弓云、奠以素器、以生者有哀素之心。注哀素、言哀痛無飾。凡物無飾曰素)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「喪は素を主とし、吉は玄を主とす。弔うには必ず服を変ず。死を哀しむ所以なり」(喪主素、吉主玄。弔必變服。所以哀死)とある。
  • 吉月必朝服而朝 … 『集解』に引く孔安国の注に「吉月は、月朔げっさくなり。朝服は、皮弁服なり」(吉月、月朔也。朝服、皮弁服)とある。皮弁は、鹿の皮でつくった冠のこと。また『義疏』に「吉月とは、月朔なり。朝服とは、凡そ朝服と言えるは、唯だ是れ玄冠、緇布衣、素積裳なり。今此に云う、朝服は、皮弁十五升、白布衣、素積裳を謂うなり、と。亦た謂うて朝服と為す所以の者は、天子之を用い、以て日に朝を視るなり。今云う朝服は、是れ天子より名を受くるなり。諸侯之を用い、以て朝を視る。孔子は魯の臣、亦た君と服を同じうするを得。故に月朔には必ず之を服するなり。然れども魯は文公より朔を視ず。故に子貢は告朔の餼羊を去らんと欲す。而れども孔子は是れ哀公の臣、応に君に随いて朝を視るの事無かるべし。而して云う、必ず之を服する者、当に是の君朔を視ずと雖も、而れども孔子月朔には必ず服して以て朝すべし。是れ我其の礼をしむなり」(吉月者、月朔也。朝服者、凡言朝服、唯是玄冠緇布衣素積裳。今此云、朝服、謂皮弁十五升白布衣素積裳也。所以亦謂爲朝服者、天子用之、以日視朝。今云朝服、是從天子受名也。諸侯用之、以視朝。孔子魯臣、亦得與君同服。故月朔必服之也。然魯自文公不視朔。故子貢欲去告朔之餼羊。而孔子是哀公之臣、應無隨君視朝之事。而云、必服之者、當是君雖不視朔、而孔子月朔必服而以朝。是我愛其禮也)とある。なお、「是我愛其禮也」は底本では「是我受其禮也」に作るが、諸本に従い改めた。また『注疏』に「吉月は、月朔なり。朝服は、皮弁服なり。言うこころは朔日ごとに、必ず皮弁の服を服して、以て君に朝するなり」(吉月、月朔也。朝服、皮弁服。言毎朔日、必服皮弁之服、以朝於君也)とある。また『集注』に「吉月は、月朔なり。孔子魯に在りて致仕する時此くの如し」(吉月、月朔也。孔子在魯致仕時如此)とある。致仕は、官職をやめること。
  • 『集注』に「此の一節、孔子の衣服の制を記す。蘇(軾)氏曰く、此れ孔子の遺書にて、曲礼を雑記す。ただに孔子の事のみに非ざるなり、と」(此一節、記孔子衣服之制。蘇氏曰、此孔子遺書、雜記曲禮。非特孔子事也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「邢氏曰く、君子は孔子を謂う、と。或ひと曰く、衍文なり、と。……右は孔子衣服の制を記す。蓋し聖人の一身、動容周旋、自ずから礼にあたる。故に門人審視熟察して、則傚そっこう矜式きょうしょくし、伝えて以て礼と為す。前篇記す所の、喪有る者の側に食すれば、未だ嘗て飽かず、及び此の篇に記す所の若きは、今多く礼記に見ゆ。皆是が為の故なり。蓋し孔子より之を発す、尽く古礼を挙げて之を行うに非ざるなり。其の以て曲礼を雑記すと為す者は、深く考えざるのみ。礼記の諸篇、此の篇と事同じき者は、当に此の意を以て看るべし」(邢氏曰、君子謂孔子。或曰、衍文。……右記孔子衣服之制。蓋聖人之一身、動容周旋、自中於禮。故門人審視熟察、則傚矜式、傳以爲禮。若前篇所記、食有喪者之側、未嘗飽、及此篇所記、今多見于禮記。皆爲是故也。蓋自孔子發之、非盡舉古禮而行之也。其以爲雜記曲禮者、不深考耳。禮記諸篇、與此篇事同者、當以此意看)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「こうきゅう玄冠げんかんしては以て弔せず、孔安国曰く、喪はしろきを主とし、きつくろきを主とす。吉凶服を異にす、と。善く解せりと謂う可きのみ。朱註に、弔するときは必ず服を変ず。死を哀しむ所以なり、と。非なり。豈に礼の無き所にして、而も孔子は其の死を哀しむが為の故に然らんや。宋儒は礼を問わず、ややもすればこれを心に求む。妄なるかな」(羔裘玄冠不以弔、孔安國曰、喪主素、吉主玄。吉凶異服。可謂善解已。朱註、弔必變服。所以哀死。非也。豈禮所無、而孔子爲哀其死故然乎。宋儒不問禮、動求諸心。妄哉)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十