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述而第七 8 子曰不憤不啓章

155(07-08)
子曰、不憤不啓、不悱不發。擧一隅、不以三隅反、則不復也。
いわく、ふんせずんばけいせず、せずんばはっせず。一隅いちぐうげて、三隅さんぐうもっかえさざれば、すなわふたたびせざるなり。
現代語訳
  • 先生 ――「意気ごまねば手をかさぬ。つかえねば引きださぬ。一方を見せて、三方に気がつかねば、もう教えない。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「どうしてこれがわからないだろうか、ああでもない、こうでもない、と煩悶はんもんするところまでいかなければ、いとぐちを開いてやらぬぞ。理論はわかったがどうもうまく言えない、ああ言おうか、こう言おうか、と口をモグモグさせるところまでこなければ、キッカケをつけてやらぬぞ。四角いものを教えるにしても、一隅ひとすみを持ち上げてみせると、ああなるほどとすぐに他のすみを持ち上げてくるようでなければ、二度と教えてやらぬぞ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「私は、教えを乞う者が、まず自分で道理を考え、その理解に苦しんで歯がみをするほどにならなければ、解決の糸口をつけてやらない。また、説明に苦しんで口をゆがめるほどにならなければ、表現の手引を与えてやらない。むろん私は、道理の一隅ぐらいは示してやることもある。しかし、その一隅から、あとの三隅を自分で研究するようでなくては、二度とくりかえして教えようとは思わない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 衛霊公第十五15」と同じ趣旨。
  • 憤 … 疑問を解決しようと発憤(発奮)する。憤慨の意ではない。
  • 啓… 教える。ひらき教えて、物事を理解させる。
  • 悱 … もどかしい思いをする。言いたいことがうまく言えず、口ごもる。
  • 発 … 開く。導く。「啓」とほぼ同じ。啓発。
  • 不憤不啓、不悱不發 … 「不~、不…」は「~せずんば、…せず」と読み、「~しなければ…しない」と訳す。仮定条件の形。
  • 一隅 … 一方のすみ。道理の一端いったん
  • 三隅 … 他の三つのすみ。
  • 反 … 類推・応用して反応を示すこと。
  • 復 … 「ふたたびす」と読む。同じことを繰り返し教えること。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人に誨うるの法を言う」(此章言誨人之法)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 不憤不啓。不悱不発 … 『集解』に引く鄭玄の注に「孔子人とかたらうや、必ず其の人の心の憤憤たる、口の悱悱たるを待ちて、乃ち後に啓発して之が為に説くなり。此くの如くんば則ち識思の深きなり。説けば則ち一隅を挙げて以て之に語る。其の人其の類を思わざれば、則ち復た重ねて之を教えざるなり」(孔子與人言、必待其人心憤憤、口悱悱、乃後啓發爲之説也。如此則識思之深也。説則舉一隅以語之。其人不思其類、則不復重教之也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「又た孔子人を教うるの法を明らかにするなり。憤は、学者の心、義を思うも、未だ得ずして憤憤然たるを謂うなり。啓は、聞くなり。悱は、学者の口、諮る所有らんと欲するも、未だ宣ぶること能わずして悱悱然たるを謂うなり。発は、発明なり。言うこころは孔子の教え、人心の憤憤たるを待つ。乃ち後に之を開導すと為す。若し憤せざれば則ち開を為さざるなり。又た其の口悱悱たるを待ちて、而る後乃ち之を発明すと為す。若し悱せざれば則ち発明を為さざるなり。然る所以の者は、人若し悱憤せずして先に啓発を為さば、則ち受くる者識録堅からず。故に須らく悱憤すべし。乃ち発啓を為さば、則ち聴受分明にして、之を憶うこと深きなり」(又明孔子教人法也。憤、謂學者之心思義、未得而憤憤然也。啓、聞也。悱、謂學者之口欲有所諮、而未能宣悱悱然也。發、發明也。言孔子之教待人心憤憤。乃後爲開導之。若不憤則不爲開也。又待其口悱悱、而後乃爲發明之。若不悱則不爲發明也。所以然者、人若不悱憤而先爲啓發、則受者識錄不堅。故須悱憤。乃爲發啓、則聽受分明、憶之深也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「啓は、開なり。言うこころは人若し心憤憤たらずんば、則ち孔子は開説するを為さず。若し口悱悱たらずんば、則ち孔子は発明するを為さず。必ず其の人の心の憤憤、口の悱悱たるを待ちて、乃ち後に啓発して為に之に説く。此くの如くんば則ち識思することの深ければなり」(啓、開也。言人若不心憤憤、則孔子不爲開説。若不口悱悱、則孔子不爲發明。必待其人心憤憤、口悱悱、乃後啓發爲説之。如此則識思之深也)とある。また『集注』に「憤とは、心通ぜんと求めて未だ得ざるの意。悱とは、口言わんと欲して未だ能くせざるの貌。啓は、其の意を開くを謂う。発は、其の辞を達するを謂う」(憤者、心求通而未得之意。悱者、口欲言而未能之貌。啓、謂開其意。發、謂達其辭)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 挙一隅、不以三隅反、則不復也 … 『義疏』に「隅は、角なり。床に四角有り、屋に四角有り、皆隅と曰うなり。孔子教えを為すに、悱憤を待ちて開発を為すと雖も、開発已に竟えて、此の人事類を識らず、亦た復た之に教えざるなり。譬えば屋に四角有るが如し。己之に示すこと一角、余の三角類に従いて知る可し。若し比の人類を以て反して三角を識る能わざれば、則ち復た教示せざるなり」(隅、角也。床有四角、屋有四角、皆曰隅也。孔子爲教、雖待悱憤而爲開發、開發已竟而此人不識事類、亦不復教之也。譬如屋有四角。己示之一角、餘三角從類可知。若比人不能以類反識三角、則不復教示也)とある。また『注疏』に「其の之を説くや、一隅を略挙して以て之に語る。凡そ物に四隅有る者、一を挙ぐれば則ち三隅はりて知る可し。学ぶ者は当に三隅を以て一隅を反類して以て之を思うべし。而るに其の人若し三隅を以て其の類を反思せずんば、則ち重ねて之に教うることをふたたびせざるなり」(其説之也、略舉一隅以語之。凡物有四隅者、舉一則三隅從可知。學者當以三隅反類一隅以思之。而其人若不以三隅反思其類、則不復重教之矣)とある。また『集注』に「物の四隅有る者は、一を挙げて其の三を知る可し。反とは、還りて以て相証するの義。復は、再び告ぐるなり。上章に已に聖人人を誨えて倦まざるの意を言う。因りて幷せて此を記し、学者の力を用うることを勉め、以て教えを受くるの地と為さんことを欲するなり」(物之有四隅者、舉一可知其三。反者、還以相證之義。復、再告也。上章已言聖人誨人不倦之意。因幷記此、欲學者勉於用力、以爲受教之地也)とある。
  • 舉一隅 … 『義疏』では「舉一隅而示之」に作る。
  • 則不復也 … 『義疏』では「則吾不復」に作る。
  • 『集注』に引く程頤の注に「憤悱は、誠意の色辞にあらわるる者なり。其の誠の至るを待ちて、後に之に告ぐ。既に之に告げて、又た必ず其の自得するを待ちて、乃ち復た告ぐるのみ」(憤悱、誠意之見於色辭者也。待其誠至、而後告之。既告之、又必待其自得、乃復告爾)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「憤悱を待たずして発すれば、則ち之を知ること堅固なる能わず。其の憤悱を待ちて後に発すれば、則ち沛然はいぜんなり」(不待憤悱而發、則知之不能堅固。待其憤悱而後發、則沛然矣)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「蓋し聖人、学者教えを受くるの地を為さんことを欲してしかう。軽〻かろがろしく教えを施さざるのいいに非ざるなり」(蓋聖人欲學者爲受教之地而云然。非不輕施教之謂也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「学問の道は、其の自らさとらんことを欲す、故に孔門の教えしかりと為す。……孟子言語を以て人にかまびすしくせしよりして後、諸老先生皆務めてきょうぜつかんせんと欲するは、謬れるかな。夫れ君子の教えは、時雨じうの之を化するが如し、大いなる者は大いに生じ、すこしき者は小しき生ず。故にこれを天地の徳に譬う、至れるかな」(學問之道、欲其自喩、故孔門之教爲爾。……自孟子以言語聒人而後、諸老先生皆務欲咸輔頰舌、謬哉。夫君子之教、如時雨化之、大者大生、小者小生。故譬諸天地之德、至矣哉)とある。輔頰舌は、上あごとほおと舌。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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