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雍也第六 24 宰我問曰章

143(06-24)
宰我問曰、仁者雖告之曰井有仁焉、其從之也。子曰、何爲其然也。君子可逝也。不可陷也。可欺也。不可罔也。
さいいていわく、仁者じんしゃこれげてせいじんりとうといえども、これしたがわん。いわく、なんれぞしからんや。くんかしむきなり。おとしいからざるなり。あざむきなり。らざるなり。
現代語訳
  • 宰我がたずねる、「なさけのある人は、『井戸に人が落ちています。』といわれたとしても、とびこんでいきますか。」先生 ――「なんでそんなことがあるものか。りっぱな人はおびきだされても、おとしいれられないんだ。だまされはしても、バカにはされないんだ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • さいが「仁徳じんとくある君子たる者、井戸に人が落ちていると知らされたら、イキナリその井戸にとびこむでしょうか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「どうしてさようなことがあろうか。君子は人を救うにもっぱらでおのれを忘れるから、人が落ちたと告げて井戸いどばたまでかけつけさせることはできようが、事実もたしかめず手段も講ぜずにあわてて井戸にとびこむほど分別ふんべつではない故、だまして水にはめることはできない。道理のあることであざむかれることはあり得ようが、道理のないことでくらまされることはあり得ない。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • さいが先師にたずねた。――
    「仁者は、もしも井戸の中に人がおちこんだといって、だまされたら、すぐ行ってとびこむものでしょうか」
    先師がこたえられた。――
    「どうしてそんなことをしよう。君子はだまして井戸まで行かせることはできる。しかし、おとし入れることはできない。人情に訴えてあざむくことはできても、正しい判断力を失わせることはできないのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 宰我 … 前522~前458(一説に前489)。姓は宰、名は予、あざなは子我。孔門十哲のひとり。魯の人。「言語には宰我・子貢」と評され、弁舌にすぐれていた。後に斉のりんの大夫となった。ウィキペディア【宰我】参照。
  • 仁者 … 仁の道をきわめた人。仁徳をそなえた人。
  • 井有仁焉 … 井戸に人が落ちている。ここでの「仁」は、人の意。古注では「仁徳ある人」(仁人)と解釈している。新注では「人」の字に改めるべきだと言っている。
  • 雖 … 仮に~しても。仮定形。
  • 従 … 落ちた人を井戸に飛び込んで救う。
  • 何為其然也 … どうしてそのようなことができようや。「何為」は「なんすれぞ」と読み、「どうして」「なぜ」「何のために」と訳す。「其」は、語調を整える助字。意味はない。
  • 逝 … 行く。使役動詞。ここでは「行かせる」と読む。
  • 陥 … 井戸の中へ入らせる。
  • 欺 … 道理のあることをいって相手をだますこと。
  • 罔 … 相手の目をくらませる。
補説
  • 『注疏』に「此の章は仁者の心を明らかにするなり」(此章明仁者之心也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 宰我 … 『孔子家語』七十二弟子解に「宰予は、あざなは子我、ひと口才こうさい有りて名を著す」(宰予、字子我、魯人。有口才著名)とある。口才は、弁舌の才能に優れていること。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「宰予、字は子我。利口べんなり」(宰予字子我。利口辯辭)とある。弁辞は、弁舌に長けていること。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 仁者雖告之曰井有仁焉、其従之也 … 『集解』に引く孔安国の注に「宰我以為おもえらく、仁者は必ず人を患難より済う、と。故に問う、仁人井に堕つる有らば、将に自ら投下し従いて之を出ださんや否や、と。仁人の憂楽の至る所を極め観んと欲するなり」(宰我以爲、仁者必濟人於患難。故問、有仁人墮井、將自投下從而出之乎否乎。欲極觀仁人憂樂之所至也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「宰我、仁者の懐いを極め観んと欲す。故に斯を仮りて以て問うなり。言うこころは人有りて仁者に告げて云う、彼の処に仁者有りて井に堕ち、而して仁者常に人を急難に救うに、当に自ら井に投入して之を救い取るべきや不や」(宰我欲極觀仁者之懷。故假斯以問也。言有人告於仁者云、彼處有仁者墮井、而仁者常救人於急難、當自投入井救取之不耶)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「宰我は仁者は必ず人を患難よりすくうとおもい、故に問いて曰く、仁者の人、し来たり告げて、井中に仁人有りと曰うもの有らば、(仁人井に堕つるを言うなり。此れ承けて之を仁人に告ぐるなり。)将に自ら投下し、従いて之を出ださんとするやいなや、と。意は仁者の人を憂い生を楽しむの至る所を極め観んと欲するなり」(宰我以仁者必濟人於患難、故問曰、仁者之人、設有來告、曰井中有仁人焉、言仁人墮井也。此承告之仁人。將自投下、從而出之不乎。意欲極觀仁者憂人樂生之所至也)とある。また『集注』に「劉聘君(1091~1149。名は勉之、字は致中。朱子の少年時代の師)曰く、仁有りの仁は、当に人に作るべし、と。今之に従う。従は、之に井に随いて之を救うを謂うなり。宰我道を信ずること篤からずして、仁を為すの害に陥るを憂う。故に此の問い有り」(劉聘君曰、有仁之仁、當作人。今從之。從、謂隨之於井而救之也。宰我信道不篤、而憂爲仁之陷害。故有此問)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 井有仁焉 … 『義疏』では「井有仁者焉」に作る。
  • 其從之也 … 『義疏』では「其從之與」に作る。
  • 子曰、何為其然也 … 『義疏』に「孔子之をこばむ。故に云う、なんれぞ其れ然らん、と。言うこころは仁者復た救済すと雖も、若し人有りて井に堕つるを審らかにせば、当に方を為して之を計り出だすべし。豈に自ら投じて之に従うけんや」(孔子距之。故云、何爲其然也。言仁者雖復救濟、若審有人墮井、當爲方計出之。豈容自投從之)とある。また『注疏』に「此れ孔子の怪しみ拒むの辞なり。……然は、くの如きなり」(此孔子怪拒之辭。……然、如是也)とある。
  • 君子可逝也。不可陥也 … 『集解』に引く包咸の注に「逝は、往くなり。言うこころは君子往きて之を視せしむ可きのみ。肯えて自ら投じて之に従わず」(逝、往也。言君子可使往視之耳。不肯自投從之)とある。また『義疏』に「逝は、往くなり。陥は、没なり。言うこころは人有りて井に堕つるを聞けば、乃ち往きて之を看せしむ可きのみ。遂には井に投じて之を取らざるなり」(逝、往也。陷、沒也。言聞有人墮井、乃可往看之耳。不遂投井取之也)とある。また『注疏』に「逝は、往なり。……言うこころはなんれぞ能く仁者をしてくの如く自ら井に投ぜしめんや。夫れ仁人・君子は、但だ往きて之を視しむ可きのみ、井に陥入す可からず。自ら投じて之に従う可からざるを言うなり」(逝、往也。……言何爲能使仁者如是自投井乎。夫仁人君子、但可使往視之耳、不可陷入於井。言不可自投從之也)とある。また『注疏』に「唯可欺之使往視、不可得誣罔令自投下也」(唯可欺之使往視、不可得誣罔令自投下也)とある。また『集注』に「逝は、之をして往きて救わしむるを謂う。陥は、之を井におとしいるるを謂う」(逝、謂使之往救。陷、謂陷之於井)とある。
  • 可欺也。不可罔也 … 『集解』に引く馬融の注に「欺く可きとは、往かしむ可きなり。う可からずとは、もうして自ら投下せしむるを得可からざるなり」(可欺者、可使往也。不可罔者、不可得誣罔令自投下也)とある。また『義疏』に「欺とは、遥かに相ぐるを謂うなり。罔とは、まのあたりにして相誣うるを謂うなり。初め彼来たり見て告げて云う、井中に仁人有り、と。我往きて之を視ん、是れ欺く可きなり。既に井に至るに実に人無し。受け通して自ら井に投入す可からず、是れ罔う可からざるなり」(欺者、謂遙相語也。罔者、謂面相誣也。初彼來見告云、井中有仁人。我往視之、是可欺也。既至井實無人。不可受通而自投入井、是不可罔也)とある。また『注疏』に「唯だ之を欺きて往きて視しむ可きのみ、誣罔して自ら投下せしむるを得可からざるなり」(唯可欺之使往視、不可得誣罔令自投下也)とある。また『集注』に「欺は、之をあざむくに理の有る所を以てするを謂う。罔は、之をくらますに理の無き所を以てするを謂う」(欺、謂誑之以理之所有。罔、謂昧之以理之所無)とある。
  • 『集注』に「蓋し身は井の上に在りて、乃ち以て井中の人を救う可し。若し之に井に従わば、則ち復た之を救うこと能わず。此の理甚だ明らかにして、人のさとり易き所なり。仁者人を救うに切にして、其の身を私せずと雖も、然れどもくの如きの愚に応じざるなり」(蓋身在井上、乃可以救井中之人。若從之於井、則不復能救之矣。此理甚明、人所易曉。仁者雖切於救人、而不私其身、然不應如此之愚也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「宰我の意に以為おもえらく、仁とは人を救うに急にして、其の身を私せず、と。故に設けて問いを為して曰く、……蓋し孔門の諸子、徒に問う者無し。若し是の事を問わば、則ち必ず是の事を為さんことを欲す。宰我の問いの若き、是れなり。其の意蓋し生を捨てて以て仁を求めんと欲す。夫子の之が救薬を為すに非ざれば、則ち必ず将に身を焼きて大旱を禱り、肉を割きて餓虎を飼うの事を為さんとす。此れ宰我に在りて、実に切問なり」(宰我意以爲、仁者急於救人、而不私其身。故設爲問曰、……蓋孔門諸子、無徒問者。若問是事、則必欲爲是事。若宰我之問、是也。其意蓋欲捨生以求仁。非夫子爲之救藥、則必將爲燒身禱大旱、割肉飼餓虎之事。此在宰我、實切問也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「宰我井仁せいじんの問いは、孔子のわざわいに陥らんことを慮り、而うして微言を以て之を諷するなり。古註・新註、其の義甚だ浅くして味わい無し。……仁者とは暗に孔子を指すなり。井に仁有り、必ずしも改めて人に作らず。……若し宰我をして明らかに其の事を言わしめば、則ち孔子は必ず之をくるにきゅうを以てす。若し宰我をしてひろく仁人を問わしめば、則ち孔子も亦た当に之を承くるに仁人を以てすべし。今宰我は問うに仁者を以てし、而うして孔子は答うるに君子を以てす、故に宰我の孔子を諷することを知る。……蓋しうとは、之をたぶらかして其れをして迷惑せしむるなり。君子はむかえず。故に欺く可し。守る所有り。故に罔う可からざるなり。これを言って以て宰我の心を安んずるなり」(宰我井仁之問、慮孔子陷於禍、而以微言諷之也。古註新註、其義甚淺無味。……仁者暗指孔子也。井有仁焉、不必改作人。……若使宰我明言其事、則孔子必承之以丘也。若使宰我泛問仁人、則孔子亦當承之以仁人。今宰我問以仁者、而孔子答以君子、故知宰我諷孔子也。……蓋罔者、誑之使其迷惑也。君子不逆詐。故可欺也。有所守。故不可罔也。言此以安宰我之心也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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