公冶長第五 21 子在陳曰章
113(05-21)
子在陳曰、歸與、歸與。吾黨之小子狂簡、斐然成章。不知所以裁之。
子在陳曰、歸與、歸與。吾黨之小子狂簡、斐然成章。不知所以裁之。
子、陳に在りて曰く、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子、狂簡にして、斐然として章を成す。之を裁する所以を知らず。
現代語訳
- 先生は陳の国で ―― 「帰ろう、帰ろう。くにの青年たちが野ばなしだ。みごとな織り物の、たちかたがわからないでいる。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様は天下を周遊して陳の国まで来られたが、どこにも受けいれられず、仁義礼楽をもって天下を救おうとの志がついに行われ得ないのを知り、翻然大悟しておっしゃるよう、「帰ろう、帰ろう。うちの若者たちは、気位ばかり高くて実行がまだ身についておらぬ。五彩目もあやな錦は織りなされたが、それを裁断して衣服にするところまでにまだ至らぬ有様じゃ。サア魯に帰って青年を教育し、大いに人材をつくってわが道を後世に伝えよう。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師が天下を周遊して陳の国におられたときに、いわれた。――
「帰るとしよう、帰るとしよう。帰って郷党の若い同志を教えるとしよう。かれらの志は遠大だが、まだ実践上の磨きが足りない。知識学問においては百花爛漫の妍を競っているが、まだ自己形成のための真の道を知らない。それはちょうど、見事な布は織ったが、寸法をはかってそれを裁断し、衣服に仕立てることができないようなものだ。これをすててはおけない。しかも、かれらを教えることは、こうして諸侯を説いて無用な旅をつづけるより、どれだけ有意義なことだろう」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 陳 … 国名。今の河南省淮陽県を中心とした地にあった小国。ウィキペディア【陳 (春秋)】参照。
- 帰与帰与 … さあ帰ろう、帰ろう。
- 吾党之小子 … わが郷里にいる門人たち。「党」は、郷党。「小子」は、孔子が門人に呼びかける言葉。
- 狂簡 … 志は大きいが、具体性が伴わず、ぞんざいなこと。「簡」は、おおまか。
- 斐然 … 模様があって美しいさま。華やかなさま。
- 成章 … 美しい模様を織り成す。ここでは門人たちの才能を布に喩えている。
- 裁 … 裁断して衣服にする。ここでは門人たちの才能を実践に移していく方法に喩えている。
補説
- 『注疏』に「此の章は孔子陳に在ること既に久しく、其の帰らんと欲するの意を言うなり」(此章孔子在陳既久、言其欲歸之意也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 子在陳曰、帰与、帰与 … 『義疏』に「孔子周流して陳に在ること最も久し。将に魯に反らんと欲す。故に此の辞を発す。帰らんか、帰らんかと再言するは、帰らんと欲するの意深きなり」(孔子周流在陳最久。將欲反魯。故發此辭。再言歸與歸與者、欲歸之意深也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「与は、語辞なり。再び帰与と言うは、帰らんと思うことの深きなり」(與、語辭。再言歸與者、思歸之深也)とある。
- 吾党之小子狂簡、斐然成章。不知所以裁之 … 『集解』に引く孔安国の注に「簡は、大なり。孔子陳に在りて、帰らんと思い、去らんと欲して曰く、吾が党の小子は、狂にして、大道に進趨す。妄りに穿鑿し、以て文章を成すも、裁制する所以を知らず。我当に帰りて以て之を裁制せんとするのみ、と。遂に之に帰るなり」(簡、大也。孔子在陳、思歸、欲去曰、吾黨之小子、狂者、進趨於大道。妄穿鑿、以成文章、不知所以裁制。我當歸以裁制之耳。遂歸之也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此れは是れ帰らんと欲するの辞なり。所以に直に帰るのみならずして、必ず辞有る者なり。客住まいて既に久し。主人薄んずること無し。若し去らんと欲して辞無くんば、則ち主人愧を生ずるを恐る。故に託して此の辞を為し、以て客之を去るの由有るを申ぶるなり。吾が党とは、我が郷党中を謂うなり。小子とは、郷党中の後生、末学の人なり。狂者は直進して避くる無き者なり。簡は、大なり。大は、大道を謂うなり。斐然は、文章ある貌なり。孔子言う、我が帰らんと欲する所以は、我が郷党の中に諸〻の末学小子有りて、狂にして避くること無く、進みて正経の大道を取りて、輒ち妄りに穿鑿して、斐然として以て文章を成すことを為す、皆其れ輒ち自ら裁断する所以を知らず、此れ謬誤を為すことの甚だし、故に我当に帰りて為に之を裁正すべきなり」(此是欲歸之辭也。所以不直歸、而必有辭者。客住既久。主人無薄。若欲去無辭、則恐主人生愧。故託爲此辭、以申客去之有由也。吾黨者、謂我郷黨中也。小子者、郷黨中後生末學之人也。狂者直進無避者也。簡、大也。大、謂大道也。斐然、文章貌也。孔子言、我所以欲歸者、爲我郷黨中有諸末學小子、狂而無避、進取正經大道、輒妄穿鑿、斐然以成文章、皆不知其所以輒自裁斷、此爲謬誤之甚、故我當歸爲裁正之也)とある。また『注疏』に「狂とは、進みて取るなり。簡は、大なり。斐然は、文章の貌なり。言うこころは我帰らんとする所以は、吾が郷党の中、未だ学ばざるの小子等、進みて大道に取らんとして、妄りに穿鑿を作し、斐然として文章を成すも、裁制する所以を知らざるを以て、故に我当に帰りて以て之を裁つべきのみ。遂に帰るなり。即ちに帰らずして此れを言うは、人の己を怪しむを恐る、故に此れに託して辞を為すのみ」(狂者、進取也。簡、大也。斐然、文章貌。言我所以歸者、以吾郷黨之中、未學之小子等、進取大道、妄作穿鑿、斐然而成文章、不知所以裁制、故我當歸以裁之耳。遂歸也。不即歸而言此者、恐人怪己、故託此爲辭耳)とある。また『集注』に「此れ孔子四方を周流し、道行われずして帰るを思うの歎なり。吾が党の小子は、門人の魯に在る者を指す。狂簡は、志大にして事に略なるなり。斐は、文ある貌。章を成すは、其の文理成就し、観る可き者有るを言う。裁は、割正なり。夫子の初めの心は、其の道を天下に行わんと欲す。是に至りて其の終に用いられざるを知るなり。是に於いて始めて後学を成就して、以て道を来世に伝えんと欲す。又た中行の士を得ずして、其の次を思う。以為えらく狂士の志意高遠にして、猶お或いは与に道に進む可きなり。但だ恐らくは其の中を過ぎ正を失いて、或いは異端に陥らんのみ。故に帰りて之を裁せんと欲するなり」(此孔子周流四方、道不行而思歸之歎也。吾黨小子、指門人之在魯者。狂簡、志大而畧於事也。斐、文貌。成章、言其文理成就、有可觀者。裁、割正也。夫子初心、欲行其道於天下。至是而知其終不用也。於是始欲成就後學、以傳道於來世。又不得中行之士、而思其次。以爲狂士志意高遠、猶或可與進於道也。但恐其過中失正、而或陷於異端耳。故欲歸而裁之也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 不知所以裁之 … 『義疏』では「不知所以裁之也」に作る。また『史記』孔子世家では「吾不知所以裁之」に作る。ウィキソース「史記/卷047」参照。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「蓋し三代の聖人、其の徳盛んなりと雖も、然れども民と共に治め、時に因りて政を為して、其の教え大いに万世の遠きに被ることを得ず。吾が夫子に至りて、而る後に教法始めて立ち、道学始めて明なり。猶お日月の天に麗きて、万古墜ちざるがごときなり。猗嗟盛んなるかな。此れ夫子の不幸なりと雖も、然れども万世の学者に在りては、則ち実に大至幸なり」(蓋三代聖人、其德雖盛、然與民共治、因時爲政、其教不得大被于萬世之遠。至於吾夫子、而後教法始立、道學始明。猶日月之麗天、而萬古不墜也。猗嗟盛哉。此雖夫子之不幸、然在萬世學者、則實大至幸也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「吾が党は孔子の郷党を謂うなり。狂簡は蓋し古言、簡略を以て之を訓ず可からず。孔安国曰く、簡は大なり、と。……皆簡略の説無し。蓋し狂者は志大いなり。故に狂簡と曰う。志大いにして進んで取れば、其の成ること速やかなり。故に斐然として章を成すと曰う。文采観ず可きを言う。之を棄てて遠游す、自ら悔ゆるの言なり。之を裁する所以を知らずとは、孔子の知らざるなり。自ら其の知らざるを悔い、而うして帰りて以て之を裁せんと欲するなり。之を裁する所以は、方法を謂う。孔子魯に帰りて六経を修むるは、乃ち其の方法なり」(吾黨謂孔子郷黨也。狂簡蓋古言、不可以簡畧訓之。孔安國曰、簡大也。……皆無簡略之説。蓋狂者志大。故曰狂簡。志大而進取、其成也速。故曰斐然成章。言文采可觀。棄之遠游、自悔之言也。不知所以裁之者、孔子不知也。自悔其不知、而欲歸以裁之也。所以裁之、謂方法。孔子歸魯脩六經、乃其方法也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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