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公冶長第五 15 子謂子産章

107(05-15)
子謂子產、有君子之道四焉。其行己也恭。其事上也敬。其養民也惠。其使民也義。
さんう、くんみちり。おのれおこなうやきょうかみつかうるやけいたみやしなうやけいたみ使つかうや
現代語訳
  • 先生は子産を批評し ―― 「人物のよさが四つあった。身のふるまいが、つつましい。おかみにつかえて、うやうやしい。民をおさめては、やさしい。民の使いかたは、正しい。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がさんを評しておっしゃるよう、「ぎょうよくその身をたもち、うやまって君につかえ、めぐぶかく人民を育て、道理正しい人の使い方をするという、人の上に立つ君子たる道を四つまで備えた人であった。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がさんのことを評していわれた。――
    「子産は、為政家の守るべき四つの道をよく守っている人だ。彼はまず第一に身を持すること恭謙である。第二に上に仕えて敬慎である。第三に人民に対して慈恵を旨としている。そして第四に人民の使役の仕方が公正である」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 子産 … ?~前522。ていの大夫。姓は公孫こうそん、名はきょうあざなは子産、また子美。孔子より一世代前の政治家。教養があり、優れた政治家であった。ウィキペディア【子産】参照。
  • 謂 … 批評する。
  • 其行己 … 自己の行動。身のこなし方。其は、子産を指す。
  • 恭 … うやうやしいこと。丁寧で慎み深いこと。
  • 敬 … 慎み敬うこと。敬意を失わないこと。
  • 恵 … 恵み深いこと。
  • 義 … 道理にかなうこと。公平無私であること。節度があること。
補説
  • 『注疏』に「此の章は子産の徳をむ」(此章美子產之德)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子謂子産、有君子之道四焉 … 『集解』に引く孔安国の注に「子産は、鄭の大夫の公孫僑なり」(子產、鄭大夫公孫僑也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「言うこころは子産に四徳有り。並びに是れ君子の道なり」(言子產有四德。並是君子之道也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「孔子鄭の大夫子産を評論す。上に事え下を使うに、君子の道四有りては、下文は是れなり」(孔子評論鄭大夫子產。事上使下、有君子之道四焉、下文是也)とある。また『集注』に「子産は、鄭の大夫、公孫僑」(子產、鄭大夫、公孫僑)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 其行己也恭 … 『義疏』に「一なり。言うこころは其の身己を世に行うや、常に恭従にして、人・物にぎゃくせざるなり」(一也。言其行身己於世、常恭從、不逆忤人物也)とある。また『注疏』に「一なり。己の行う所、常に能く恭順にして、物に違忤いごせざるを言うなり」(一也。言己之所行、常能恭順、不違忤於物也)とある。また『集注』に「恭は、謙遜なり」(恭、謙遜也)とある。
  • 其事上也敬 … 『義疏』に「是れ二なり。人若し君・親及び凡そ己の上に在る者に事うるには、必ず皆敬を用うるなり」(是二也。人若事君親及凡在己上者、必皆用敬也)とある。また『注疏』に「二なり。事を承くるに己の上の人及び君親に在りては、則ち忠心に復た謹敬を加うるを言うなり」(二也。言承事在己上之人及君親、則忠心復加謹敬也)とある。また『集注』に「敬は、謹恪なり」(敬、謹恪也)とある。
  • 其養民也恵 … 『義疏』に「三なり。言うこころは其の民を養うには、皆恩恵を用てするなり。故に孔子おもえらく、古えの遺愛と為すなり」(三也。言其養民、皆用恩惠也。故孔子謂、爲古之遺愛也)とある。また『注疏』に「三なり。民をいつくしみ養い、乏しきを振るい無きにほどこすに恩恵を以てするを言うなり」(三也。言愛養於民、振乏賙無以恩惠也)とある。また『集注』に「恵は、愛利なり」(惠、愛利也)とある。
  • 其使民也義 … 『義疏』に「四なり。義は、宜なり。民を使うに農務を奪わず。各〻宜しき所を得しむるなり」(四也。義、宜也。使民不奪農務。各得所宜也)とある。また『注疏』に「四なり。義は、宜なり。下民を役使するに、皆礼法に於いて宜しきを得て、農を妨げざるを言うなり」(四也。義、宜也。言役使下民、皆於禮法得宜、不妨農也)とある。また『集注』に「民を使うや義とは、都鄙とひに章有り、上下に服有り、田にほうきょく有り、せいに伍有るの類の如し」(使民義、如都鄙有章、上下有服、田有封洫、廬井有伍之類)とある。封洫は、田地の境界。封は土を盛ること。洫は溝。
  • 『集注』に引く呉棫の注に「其の事を数えて之を責むるとは、其の善とする所の者多きなり。臧文仲、不仁なる者三、不知なる者三は、是れなり。其の事を数えて之を称するとは、猶お未だ至らざる所有るなり。子産に君子の道四有るは、是れなり。今或いは一言を以て一人をおおい、一事もて一時を蓋うは、皆非なり」(數其事而責之者、其所善者多也。臧文仲不仁者三、不知者三、是也。數其事而稱之者、猶有所未至也。子產有君子之道四焉、是也。今或以一言蓋一人、一事蓋一時、皆非也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「論に曰く、君子の道と称すると、聖人の道と称するとは、甚だ別なり。聖人の道とは、其の極を以て言う。君子の道とは、平正中庸、万世通行の法を以て言う。中庸説く所の諸章の若き、是れなり。但し費隠の一章は、説く者高遠隠微の理を以て之を解す。作者の意を失すること甚だし」(論曰、稱君子之道、與稱聖人之道、甚別。聖人之道者、以其極而言。君子之道者、以平正中庸萬世通行之法而言。若中庸所説諸章是也。但費隱一章、説者以高遠隱微之理解之。失作者之意甚矣)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「鄭は晋・楚にはさまる。子産之にしょうたり。能く礼を以て免るるは、子産の功なり。而うして孔子は称せず。豈に猶お君子に足らざること有るか」(鄭介晉楚。子產相之。能以禮免、子產之功也。而孔子不稱。豈猶有不足於君子歟)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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