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公冶長第五 14 子貢問曰孔文子章

106(05-14)
子貢問曰、孔文子何以謂之文也。子曰、敏而好學、不恥下問。是以謂之文也。
こういていわく、こうぶんなにもっこれぶんうや。いわく、びんにしてがくこのみ、もんじず。ここもっこれぶんうなり。
現代語訳
  • 子貢がたずねる、「孔文さんは、なぜ『文』とおくり名されました…。」先生 ――「才子で学問ずき、よく質問された。その点が『文』とよばれたのじゃ。」(魚返おがえり善雄『論語新訳』)
  • こうが「こうぶんはどうしてぶんとおくり名されたのでありますか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「こうな人は勉強せず、またくらいたかく年寄った人は目下の人に物をきくのを好まぬものだが、あの人はびんにして学を好み、もんじなかったので、孔文子のおくり名がついたのじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 子貢がたずねた。――
    こうぶんはどうしてというりっぱなおくり名をされたのでありましょうか」
    先師がこたえられた。
    「天性明敏なうえに学問を好み、目下のものに教えを乞うのを恥としなかった。そういう人だったから文というおくり名をされたのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 子貢 … 前520~前446。姓は端木たんぼく、名は。子貢はあざな。衛の人。孔子より三十一歳年少の門人。孔門十哲のひとり。弁舌・外交に優れていた。ウィキペディア【子貢】参照。
  • 孔文子 … 前6世紀~前480。衛の大夫。姓は孔、名はぎょ、文はおくりな。ウィキペディア【孔圉】(中文)参照。
  • 何以謂之文也 … 孔圉はあまり立派な人物ではないので、子貢は疑問に思ってこのような質問をしている。
  • 文 … おくりなとしては最上の一つ。
  • 敏 … 明敏。利発。
  • 下問 … 目下の者に質問する。
  • 是以 … 「ここをもって」と読み、「それゆえに」「だから」と訳す。「以是」は「これをもって」と読み、「この点から」「これにより」と訳す。
補説
  • 子貢 … 『史記』仲尼弟子列伝に「端木賜は、衛人えいひとあざなは子貢、孔子よりわかきこと三十一歳。子貢、利口巧辞なり。孔子常に其の弁をしりぞく」(端木賜、衞人、字子貢、少孔子三十一歳。子貢利口巧辭。孔子常黜其辯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「端木賜は、あざなは子貢、衛人。口才こうさい有りて名を著す」(端木賜、字子貢、衞人。有口才著名)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
  • 孔文子何以謂之文也 … 『集解』に引く孔安国の注に「孔文子は、衛の大夫の孔叔圉なり。文は、おくりななり」(孔文子、衛大夫孔叔圉也。文、諡也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「衛の大夫孔叔圉、文を以て諡と為す。子貢其のはなはだ高きを疑う。故に孔子に問うなり。其れ何の徳ありて文と諡するやを問うなり」(衞大夫孔叔圉、以文爲諡。子貢疑其太高。故問於孔子也。問其何德而諡文也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「孔文子は、衛の大夫、名は圉」(孔文子、衛大夫、名圉)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 文 … 『逸周書』諡法解に「天地を経緯するを文と曰い、道徳博厚はっこうなるを文と曰い、学に勤め好んで問うを文と曰い、慈恵にして民を愛するを文と曰い、民をあわれみて礼にしたがうを文と曰い、民に爵位をたまうを文と曰う」(經緯天地曰文、道徳愽厚曰文、勤學好問曰文、慈惠愛民曰文、愍民惠禮曰文、錫民爵位曰文)とある。ウィキソース「逸周書/卷六」参照。
  • 敏而好学、不恥下問。是以謂之文也 … 『集解』に引く孔安国の注に「敏とは、之を識ること疾きなり。下問は、凡て己の下に在る者に問うなり」(敏者、識之疾也。下問、問凡在己下者也)とある。また『義疏』に「之に文と諡する所以を由に答うるなり。敏は、疾速なり。言うこころは孔圉の識智疾速にして、好む所は学に在り。若し知らざる所有らば、則ち己の下に在るの人に諮問するを恥じず。此の諸行有り。故に謂いて文と為すなり」(答所以諡文之由也。敏、疾速也。言孔圉之識智疾速、而所好在學。若有所不知、則不恥諮問在己下之人。有此諸行。故謂為文也)とある。また『集注』に「凡そ人の性敏なる者は、多く学を好まず。位高き者は、多く下問を恥ず。故に法に学に勤め問を好むを以て文と為す者有り。蓋し亦た人の難しとする所なり。孔圉のおくりなの文と為すを得るは、此を以てするのみ」(凡人性敏者、多不好學。位高者、多恥下問。故諡法有以勤學好問爲文者。蓋亦人所難也。孔圉得諡爲文、以此而已)とある。
  • 『集注』に引く蘇軾の注に「孔文子、太叔疾をして其の妻を出ださしめて之にめあわす。疾、初妻のていに通ず。文子怒り、将に之を攻めんとして、仲尼をおとなう。仲尼対えず、駕を命じてらしむ。疾、宋にはしる。文子、疾の弟のをして孔きつを室とせしむ。其の人とり此の如くして、諡を文と曰う。此れ子貢の疑いて問う所以なり。孔子其の善を没せず。言うこころは能く此の如ければ、亦た以て文と為すに足り、天を経し地をするの文に非ざるなり」(孔文子、使太叔疾出其妻而妻之。疾通於初妻之娣。文子怒、將攻之、訪於仲尼。仲尼不對、命駕而行。疾奔宋。文子使疾弟遺室孔姞。其爲人如此、而諡曰文。此子貢之所以疑而問也。孔子不沒其善。言能如此、亦足以爲文矣、非經天緯地之文也)とある。
  • 『春秋左氏伝』哀公十一年に「冬、衛のたいしゅくしつ、宋に出奔す。初め、疾、宋の子朝にめとる。其のていへいせらる。子朝出ずるや、孔文子、疾をして其の妻を出ださしめて之にめあわす。疾、侍人をして其の初めの妻の娣をいざなわしめ、れいきて、之がいっきゅうつくりて、二妻の如くす。文子怒り、之を攻めんと欲す。仲尼、之をとどむ。遂に其の妻を奪う。外州に淫することり。外州の人、之がけんを奪いて以て献ず。是の二者を恥ず。故に出ず。衛人えいひとを立て、孔姞こうきつを室とせしむ。疾、しょうたいに臣となり、美珠をる。之にじょうしょを与う。宋公、珠を求む。魋与えず。是に由りて罪を得たり。桓氏の出ずるに及び、城鉏の人、大叔疾を攻む。衛の荘公、之をかえし、そうに処らしむ。死す。うんひんし、しょうていほうむる」(冬、衛大叔疾出奔宋。初、疾娶於宋子朝。其娣嬖。子朝出、孔文子使疾出其妻而妻之。疾使侍人誘其初妻之娣、寘於犁、而為之一宮、如二妻。文子怒欲攻之。仲尼止之。遂奪其妻。或淫於外州。外州人奪之軒以獻。恥是二者。故出。衛人立遺、使室孔姞。疾臣向魋、納美珠焉。與之城鉏。宋公求珠。魋不與。由是得罪。及桓氏出、城鉏人攻大叔疾。衛莊公復之、使處巢。死焉。殯於鄖、葬於少禘)とある。ウィキソース「春秋左氏傳/哀公」参照。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「夫子人の善を没せずして、其の誉むる所の者有るは、必ず試むる所有れば、則ち文子の賢、従いて知る可し。且つ文子能く賓客を治めて、衛霊の無道なる、頼みて以て喪わざるを得えば、則ち夫子の言いつに非ざること、亦た知る可し。左氏の記する所文子の事、恐らくは未だ必ずしも然らず」(夫子不沒人之善、而其有所譽者、必有所試、則文子之賢、可從而知矣。且文子能治賓客、衞靈無道、得賴以不喪、則夫子之言非溢美、亦可知矣。左氏所記文子之事、恐未必然)とある。溢美は、褒め過ぎること。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「敏にして学を好み、下問を恥じず、是れ一行いっこうの美なりと雖も、亦た以て聖賢の徳をじゅんす可し。故にせきほうを立て、亦た以て文と為す。聖人、人の善路を開く者かくの如し。孔子之を称す。聖人、人の善を没せざる者此の如し。蓋し左伝に載する所、孔文子の事は美ならず、故に子貢は其のこうかなわざることを疑えり。仁斎先生の遂に左伝の記する所恐らくは未だ必ずしも然らじと疑えるは、聖人の道を識らずと謂う可きのみ、亦た聖人の心を識らざるのみ。且つ子貢既已すでに之を疑えば、則ち左氏は疑う可からず」(敏而好學、不恥下問、是雖一行之美、亦可以馴致聖賢之德。故古昔立諡法、亦以爲文。聖人開人善路者如此。孔子稱之。聖人不沒人之善者如此。蓋左傳所載、孔文子之事不美、故子貢疑其行諡不副。仁齋先生遂疑左傳所記恐未必然也、可謂不識聖人之道已、亦不識聖人之心已。且子貢既已疑之、則左氏不可疑矣)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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