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為政第二 22 子曰人而無信章

038(02-22)
子曰、人而無信、不知其可也。大車無輗、小車無軏、其何以行之哉。
いわく、ひとにしてしんくんば、なるをらざるなり。大車たいしゃげいく、しょうしゃげつくんば、なにもってかこれらんや。
現代語訳
  • 先生 ――「人間は誠意がないと、人として台なしだな。荷車も小車も、横木なしでは、それこそやりようがあるまい。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「人に信がなくては問題にならない。ちょうど車のながえのはしの横木止めがないようなもので、たとい車の形はしていても、大きい車も小さい車も進行させようがないではないか。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「人間に信がなくては、どうにもならない。大車に牛をつなぐながえの横木がなく、小車に馬をつなぐながえの横木がなくては、どうして前進ができよう。人間における信もそのとおりだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 信 … 信頼されること。信用されること。
  • 可 … よいところ。長所。美点。
  • 大車 … 牛車。
  • 輗 … 牛車のながえの端にあって、牛のうしろ首にかける横木。
  • 小車 … 馬車。
  • 軏 … 馬車の馬をつなぐ横木。
  • 何以 … 「なにをもってか」「なにをもって」と読み、「どうして」と訳す。
  • 行 … 「やる」と読む。車を動かす。車を進める。
補説
  • 『注疏』に「此の章は信の無かる可からざるを明らかにするなり」(此章明信不可無也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 人而無信、不知其可也 … 『集解』に引く孔安国の注に「言うこころは人にして信無くんば、其の余も終に可なる無きなり」(言人而無信、其餘終無可也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此の章は人信を失う可からざるを明らかにするなり。言うこころは人若し信無くんば、かれの才有りと雖も、終に不可と為る。故に云う、其の可なるを知らざるなり、と」(此章明人不可失信也。言人若無信、雖有他才、終爲不可。故云、不知其可也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「人にして信無くんば、其の余に他才有りと雖も、終に可なる無きを言うなり」(言人而無信、其餘雖有他才、終無可也)とある。
  • 大車無輗、小車無軏、其何以行之哉 … 『集解』に引く包咸の注に「大車は、牛車なり。輗とは、轅端えんたんの横木にして、以てくびきを縛る者なり。小車は、四馬の車なり。軏とは、轅端の上曲して、よこぎこうする者なり」(大車、牛車也。輗者、轅端横木、以縛軛者也。小車、四馬車也。軏者、轅端上曲、拘衡者也)とある。また『義疏』に「此れ信無しと為して譬えを設くるなり。言うこころは人は信を以て立つを得。大小の車、輗・軏に由りて以てるを得るが如きなり。若し車に輗・軏無くんば、則ち車何を以てかるを得んや。如し人にして信無くんば、則ち何を以てか立つを得んや。故に江熙、彦叔を称して曰く、車は輗・軏を待ちて行く、猶お人信をちて以て立するがごときなり、と」(此爲無信設譬也。言人以信得立。如大小之車由於輗軏以得行也。若車無輗軏、則車何以得行哉。如人而無信、則何以得立哉。故江熙稱彦叔曰、車待輗軏而行、猶人須信以立也)とある。また『注疏』に「此れ信無きの人の為に譬えを作すなり。大車は、牛車なり。げいは、ながえの端の横木、以てくびきを縛りて牛のくびに駕する者なり。小車は、駟馬車なり。げつとは、轅の端の上の曲げてよこぎこうし、以て両のふくくびに駕する者なり。大車に輗無くんば、則ち牛を駕する能わず。小車に軏無くんば、則ち馬を駕する能わず。其の車は何を以て之をるを得んや。必ずること能わざるを言うなり。以て人にして信無くんば、亦たる可からざるに喩うるなり」(此爲無信之人作譬也。大車、牛車。輗、轅端橫木、以縛軛駕牛領者也。小車、駟馬車。軏者、轅端上曲鉤衡、以駕兩服馬領者也。大車無輗、則不能駕牛。小車無軏、則不能駕馬。其車何以得行之哉。言必不能行也。以喩人而無信、亦不可行也)とある。また『集注』に「大車は、平地任載の車を謂う。輗は、轅端えんたんの横木、くびきを縛して以て牛を駕する者なり。小車は、田車・兵車・乗車を謂う。軏は、轅端の上に曲がり、よこぎこうして以て馬に駕する者なり。車に此の二つの者無ければ、則ち以てる可からず。人にして信無きも、亦た猶おくのごときなり」(大車、謂平地任載之車。輗、轅端横木、縛軛以駕牛者。小車、謂田車、兵車、乘車。軏、轅端上曲、鉤衡以駕馬者。車無此二者、則不可以行。人而無信、亦猶是也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「信とは人道の本、人として信無くは、則ち以て一日に天地の間に立つ可からず。猶お大車の輗無く、小車の軏無くして、以て行く可からざるがごとし。君、君たらず、臣、臣たらず、父、父たらず、子、子たらざるは、一に皆此に由る。夫子其の最も見易き所の者に就き、以て人の必ず信無かる可からざるを喩うるなり」(信者人道之本、人而無信、則不可以一日立於天地之間。猶大車之無輗、小車之無軏、不可以行也。君不君、臣不臣、父不父、子不子、一皆由此。夫子就其最所易見者、以喩人必不可無信也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「輗軏は車と馬牛と相接するの際に在り。信も亦た我と人と相接するの際に在り。故に引いて以て喩えと為す。車のくは、馬牛の力なり。道のおこなわるるは、人の力なり。豈にせつならずや。言いて信無くんば、則ち人我を信ぜず。人我を信ぜずんば、則ち我が言安んぞ能く行われんや。事の行わるるも亦た然り、道の行わるるも亦た然り、教えの道も亦た然り。七十しちじっは深く孔子を信ず。故に孔子の教え、七十子に行わるるは、多言をたず。孟子は則ち我を信ぜざるの人をして我が言に由りて我を信ぜしめんと欲す。故に徒らに其の言を詳らかにして、以て人人の能くさとらんことを欲せり。是れうったうるの道なり。徒に之をかまびすしくするのみ」(輗軏在車與馬牛相接之際。信亦在我與人相接之際。故引以爲喩。車之行、馬牛之力也。道之行、人之力也。豈不切乎。言而無信、則人不信我。人不信我、則我言安能行哉。事之行亦然、道之行亦然、教之道亦然。七十子深信孔子。故孔子之教、行於七十子、不竢多言。孟子則欲使不信我之人由我言而信我。故徒詳其言、以欲人人之能曉。是訟之道也。徒聒之耳)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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