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為政第二 15 子曰學而不思則罔章

031(02-15)
子曰、學而不思則罔、思而不學則殆。
いわく、まなびておもわざればすなわくらく、おもいてまなばざればすなわあやうし。
現代語訳
  • 先生 ――「ならっても考えねばハッキリしないし、考えるだけでならわないとあぶない。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「学ぶだけで思わないと道理が明らかならず、思うだけで学ばないと行動が危険だ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「他に学ぶだけで自分で考えなければ、真理の光は見えない。自分で考えるだけで他に学ばなければ独断におちいる危険がある」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 学 … 書物を読み、師について学習すること。「まなんで」と読んでもよい。
  • 思 … ひとりで思索すること。
  • 則 … 「~なれば(~ならば)、すなわち…」と読み、「~であるならば…」と訳す。上の条件句を受けて下に続ける接続詞。
  • 罔 … 道理に通じていない。無知なさま。
  • 殆 … 危うい。危険である。「危」に同じ。
補説
  • 『注疏』に「此の章は教学の法を言うなり」(此章言教學法也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 学而不思則罔 … 『集解』に引く包咸の注に「学びて其の義理を尋思せざれば、罔然として之を得る所無きなり」(學而不尋思其義理、罔然無所得之也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此の章は教学の法なり。夫れ学問の法は、既に其の文を得、又た宜しく其の義を精思すべし。若し唯だ旧文を学ぶのみにして、義を思わざれば、則ち用行の時に臨んで、罔罔然として知る所無きなり」(此章教學法也。夫學問之法、既得其文、又宜精思其義。若唯學舊文、而不思義、則臨用行之時、罔罔然無所知也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「言うこころは学をおさむるの法、既に師に従いて学びたれば、則ち自ら其のうんを思う。若し師に従いて学ぶと雖も、而も其の義を尋ね思わずんば、則ち罔然もうぜんとして得る所無きなり」(言爲學之法、既從師學、則自思其餘蘊。若雖從師學、而不尋思其義、則罔然無所得也)とある。また『集注』に「これを心に求めず、故にくらくして得ること無し」(不求諸心、故昏而無得)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 則 … 二畳庵主人/加地伸行『漢文法基礎』(講談社学術文庫、2010年)222~233頁に、「則」の用法について詳しく解説されている。
  • 思而不学則殆 … 『集解』の何晏の注に「学ばずして思えば、終卒ついに得ず、人の精神をしてたいせしむるなり」(不學而思、終卒不得、使人精神疲殆也)とある。疲殆は、疲れること。従って「殆」は「つかる」と読む。また『義疏』に「又た若し広く旧文を学ばずして、唯だ専意独思せば、則ち精神疲殆するなり。業とする所に於いて功無きなり」(又若不廣學舊文、而唯專意獨思、則精神疲殆。於所業無功也)とある。また『注疏』に「言うこころは但だ自ら尋ね思うのみにて、師に従いて学ばず、終卒ついに其の義を得ずんば、則ち徒だ人の精神をして疲労倦殆せしむるのみなり」(言但自尋思、而不從師學、終卒不得其義、則徒使人精神疲勞倦殆)とある。また『集注』に「其の事を習わず、故に危うくして安からず」(不習其事、故危而不安)とある。また劉宝楠『論語正義』に「殆は、皆疑と訓ず」(殆、皆訓疑)とある。
  • 宮崎市定は「教わるばかりで自ら思索しなければ獨創がない。自分で考案するだけで教えを仰ぐことをしなければ大きな陷し穴にはまる」と訳している(『論語の新研究』178頁)。
  • 『集注』に引く程頤の注に「博学・審問・慎思・明弁・篤行、五者其の一を廃すれば学に非ざるなり」(博學審問愼思明辨篤行、五者廢其一非學也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「思うに非ざれば則ち以て能く学ぶこと無く、学ぶに非ざれば則ち以て思いを達すること無し。両者相待って、而る後に成ることを得るなり。又た曰く、古えの学者は、思う所学ぶ所よりも多く、今の学者は、学ぶ所思う所よりも多し」(非思則無以能學、非學則無以達思。兩者相待、而後得成也。又曰、古之學者、所思多於所學、今之學者、所學多於所思)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「学んで思わざるときは則ちう、もうは、うるなり。皇疏の一通に之れ有り。蓋し学んで思わざれば、則ち其の義を知らず。必ず非礼を礼と為し、非義を義と為し、かみは先聖をい、しもは時人をうるに至らん。思うて学びざるときは則ちあやうし、多く見て殆うきをきの殆の如し。精思の至りは、得る所有りと雖も、し先王の道に由らざれば、迷ってしきりにかえり、時にしんきょくおかし、坦然として之に由って疑い無きこと能わざるなり」(學而不思則罔、罔、誣也。皇疏一通有之。蓋學而不思、則不知其義。必至於非禮爲禮、非義爲義、上誣先聖、下罔時人也。思而不學則殆、如多見闕殆之殆。精思之至、雖有所得、苟不由先王之道、迷而頻復、時冒榛棘、不能坦然由之無疑也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十