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貧交行(杜甫)

貧交行
貧交行ひんこうこう
杜甫とほ
  • ウィキソース「貧交行」参照。
  • この詩は、作者が長安にいて、まだ仕官できずに貧乏生活を続け、世間の薄情さを嘆きいきどおったもの。天宝十一載(752)、作者四十一歳の頃の作。
  • 詩題 … 貧交行とは、貧しいときの交際の歌。行は、歌の意で、楽府題によく用いられる。この詩は楽府ではなく、楽府に似せて作った「こう」に分類される。『史記』貨殖列伝に「范蠡はんれい既に会稽かいけいの恥をすすぎ、……陶にきて朱公とる。……十九年のうちに三たび千金を致し、再び分散して貧交なる昆弟こんていあたう」(范蠡既雪會稽之恥、……之陶爲朱公。……十九年之中三致千金、再分散與貧交疏昆弟)とある。貧交は、ここでは貧しい友人。疏は、遠縁。昆弟は、同族兄弟。ウィキソース「史記/卷129」参照。
  • 杜甫 … 712~770。盛唐の詩人。じょうよう(湖北省)の人。あざな子美しび。祖父は初唐の詩人、杜審言。若い頃、科挙を受験したが及第できず、各地を放浪して李白らと親交を結んだ。安史の乱では賊軍に捕らえられたが、やがて脱出し、新帝しゅくそうのもとで左拾遺に任じられた。その翌年左遷されたため官を捨てた。四十八歳の時、成都(四川省成都市)の近くのかんけいに草堂を建てて四年ほど過ごしたが、再び各地を転々とし一生を終えた。中国最高の詩人として「詩聖」と呼ばれ、李白とともに「李杜りと」と並称される。『杜工部集』がある。ウィキペディア【杜甫】参照。
翻手作雲覆手雨
ひるがえせばくもり くつがえせばあめ
  • 翻手・覆手 … 翻手は、手のひらを上に向けること。覆手は、手のひらを下に向けること。容易にできることのたとえ。『史記』陸賈伝に「一へんしょうをして十万の衆をひきいて越に臨ましめば、則ち越、王を殺して漢に降らんこと、手を反覆するが如くならんのみ」(使一偏將將十萬衆臨越、則越殺王降漢、如反覆手耳)とある。偏将は、副将。ウィキソース「史記/卷097」参照。
  • 雲・雨 … 人の態度が極端に変わること。転じて、人情の変わりやすいことのたとえ。劉宋の顔延之「謝監霊運に和す」詩(『文選』巻二十六)に「人神じんしんは幽明のごとく絶え、朋好ほうこうは雲雨のごとくそむく」(人神幽明絶、朋好雲雨乖)とある。監は、秘書監。人神は、人と神。幽明は、冥土と現世。朋好は、親友。ウィキソース「昭明文選/卷26」参照。また、劉宋の鮑照「王義興の七夕しちせきに和す」詩(『古詩紀』巻六十二)に「暫く金石の心を交うるも、しゅにして雲雨と隔つ」(暫交金石心、須臾雲雨隔)とある。ウィキソース「古詩紀 (四庫全書本)/卷062」参照。
紛紛輕薄何須數
紛紛ふんぷんたる軽薄けいはく なんかぞうるをもちいん
  • 紛紛 … 入り乱れるさま。ここでは、ごたごたと多いさま。畳語。『孟子』滕文公上篇に「なんれぞ紛紛然としてひゃっこうと交易する」(何爲紛紛然與百工交易)とある。ウィキソース「孟子/滕文公上」参照。また、南朝梁の簡文帝「聖製十六首」の第六首「しょうろうの怨 せつ一首」詩(『玉台新詠』巻九)に「じょうりん紛紛として花落ち、すい漠漠としてこけ浮かばん」(上林紛紛花落、淇水漠漠菭浮)とある。上林は、天子の庭園、上林苑。淇水は、川の名。漠漠は、広々として果てしない様子。ウィキソース「倡樓怨節」参照。
  • 軽薄 … 態度や性格が軽々しくて誠実さがないこと。『漢書』張放伝に「放の行い軽薄にして、しきりに大悪を犯す」(放行輕薄、連犯大惡)とある。ウィキソース「漢書/卷059」参照。また、西晋の張華の楽府「軽薄篇」(『楽府詩集』巻六十七)に「末世に軽薄多く、きょうわくにして浮華を好む」(末世多輕薄、驕或好浮華)とある。驕或は、驕りまどうことの意か。浮華は、うわべばかりきれいに飾って実質がないこと。ウィキソース「樂府詩集/067卷」参照。
  • 何須数 … どうしていちいち数え上げる必要などあろうか。
  • 何須~ … 「なんぞ~をもちいん(や)」と読み、「どうして~する必要があろうか」と訳す。反語の意を示す。
君不見管鮑貧時交
きみずや 管鮑かんぽう ひんまじわりを
  • 君不見 … 諸君、見たまえ。南朝梁のちょうの楽府「行路難二首」(『玉台新詠』巻九)の第一首に「君見ずや 長安客舎の門、しょうの少女 名は桃根とうこん」(君不見長安客舍門、倡家少女名桃根)とある。倡家は、娼家に同じ。遊女屋。ウィキソース「行路難 (費昶)」参照。
  • 管鮑貧時交 … 春秋時代、せいの宰相となったかんちゅう(?~前645)と、その親友ほうしゅくほうしゅくとも)との、貧しいときの交際(友情)。二人は若い頃からお互いによく理解し合った親友であった。はじめ管仲はとても貧しく、鮑叔といっしょに商売をしたが、分け前は自分の方がより多く取った。鮑叔は管仲の貧しさを知っていたので文句を言わなかった。その後、管仲は魯に亡命した公子きゅうに仕え、鮑叔はきょに亡命した公子しょうはくに仕えた。やがて糾と小白は斉の君主の座を争い、小白が勝利し桓公かんこうとなった。糾は亡命先の魯で殺され、管仲も捕らえられたが、鮑叔は管仲を重用するよう桓公に進言した。管仲は許されて桓公に仕え、政治的手腕を発揮して、ついに斉の宰相となり、そのおかげで桓公は諸侯の覇者となった。管仲は「私を生んだのは父母だが、私を理解しているのは鮑叔だ」と言ったという。『史記』管晏列伝に「管仲夷吾いごは、えいほとりの人なり。わかき時つねに鮑叔牙と游ぶ。鮑叔其の賢なるを知る。管仲貧困にして、常に鮑叔をあざむくも、鮑叔はついに善く之をぐうし、以て言を為さず。已にして鮑叔は斉の公子小白につかえ、管仲は公子きゅうに事う。小白立ちて桓公と為り、公子糾死するに及び、管仲とらえらる。鮑叔遂に管仲を進む。管仲既に用いられ、まつりごとに斉ににんず。斉の桓公以てたり。……我をみし者は父母なるも、我を知れる者はほうなり」(管仲夷吾者、潁上人也。少時常與鮑叔牙游。鮑叔知其賢。管仲貧困、常欺鮑叔、鮑叔終善遇之、不以爲言。已而鮑叔事齊公子小白、管仲事公子糾。及小白立爲桓公、公子糾死、管仲囚焉。鮑叔遂進管仲。管仲既用、任政於齊。齊桓公以霸。……生我者父母、知我者鮑子也)とある。ウィキソース「史記/卷062」参照。また『後漢書』宋弘伝に「弘曰く、臣聞く、貧賤の知は忘る可からず、糟糠の妻は堂より下さずと、と」(弘曰、臣聞、貧賤之知不可忘、糟糠之妻不下堂)とある。知は、知友。親しい友人。ウィキソース「後漢書/卷26」参照。
此道今人棄如土
みち 今人きんじん つることつちごと
  • 此道 … そのような道。ここでは、管仲と鮑叔との変わらぬ友情のこと。南朝梁の范雲「張徐州しょくに贈る」詩(『文選』巻二十六)に「旧を思うに昔言せきげん有り、此の道は今や已になり」(思舊昔言有、此道今已微)とある。思旧は、旧友を思って忘れない。『論語』泰伯篇に「故旧わすれず」とある。昔言は、古人の語。ウィキソース「昭明文選/卷26」参照。
  • 今人 … 今の時代の人。現代の人。『楚辞』九章・渉江に「前世とともにして皆な然り、吾又た何ぞ今の人を怨みん」(與前世而皆然兮、吾又何怨乎今之人)とある。ウィキソース「楚辭/九章」参照。
  • 棄如土 … 土くれのように捨ててしまって顧みない。『荘子』徳充符篇に「其の足をうしなうを視ること、猶お土をおとすがごときなり」(視喪其足、猶遺土也)とある。遺土は、体についた土を払い落とすこと。ウィキソース「莊子/德充符」参照。
詩型・韻字
  • 雑言古詩。
  • 雨・數・土(上声麌韻)。
テキスト
  • 『箋註唐詩選』巻二(『漢文大系 第二巻』、冨山房、1910年)※底本
  • 『全唐詩』巻二百十六(排印本、中華書局、1960年)
  • 『宋本杜工部集』巻一(影印本、台湾学生書局、1967年)
  • 『九家集注杜詩』巻一(『哈佛燕京學社引得特刊 14 杜詩引得』第二冊、1966年)
  • 『杜陵詩史』巻四(王状元集注、『杜詩又叢』所収、中文出版社、1977年)
  • 『分門集注杜工部詩』巻二十五(『四部叢刊 初編集部』所収)
  • 『草堂詩箋』巻七(蔡夢弼注、『古逸叢書(中)』所収、江蘇廣陵古籍刻印社、1997年)
  • 『銭注杜詩』巻一(銭謙益箋注、上海古籍出版社、1979年)
  • 『杜詩詳注』巻二(仇兆鰲注、中華書局、1979年)
  • 『読杜心解』巻二之一(浦起龍著、中華書局、1961年)
  • 『杜詩鏡銓』巻二(楊倫箋注、上海古籍出版社、1980年)
  • 『唐詩品彙』巻二十八([明]高棅編、[明]汪宗尼校訂、上海古籍出版社、1982年)
  • 『唐詩別裁集』巻六([清]沈徳潜編、乾隆二十八年教忠堂重訂本縮印、中華書局、1975年)
  • 『唐詩解』巻十四(順治十六年刊、内閣文庫蔵)
  • 『古今詩刪』巻十二(寛保三年刊、『和刻本漢詩集成 総集篇9』所収、汲古書院)
  • 松浦友久編『校注 唐詩解釈辞典』(大修館書店、1987年)
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