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微子第十八 6 長沮桀溺章

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長沮桀溺耦而耕。孔子過之、使子路問津焉。長沮曰、夫執輿者爲誰。子路曰、爲孔丘。曰、是魯孔丘與。曰、是也。曰、是知津矣。問於桀溺。桀溺曰、子爲誰。曰、爲仲由。曰、是魯孔丘之徒與。對曰、然。曰、滔滔者天下皆是也。而誰以易之。且而與其從辟人之士也、豈若從辟世之士哉。耰而不輟。子路行以告。夫子憮然曰、鳥獸不可與同羣。吾非斯人之徒、與而誰與。天下有道、丘不與易也。
ちょう桀溺けつできぐうしてたがやす。こうこれぎ、子路しろをしてしんわしむ。ちょういわく、輿ものたれす。子路しろいわく、こうきゅうす。いわく、こうきゅうか。いわく、れなり。いわく、れならばしんらん。桀溺けつできう。桀溺けつできいわく、たれす。いわく、ちゅうゆうす。いわく、こうきゅうか。こたえていわく、しかり。いわく、滔滔とうとうたるものてんみなれなり。しかしてたれもっこれえん。なんじひとくるのしたがわんよりは、くるのしたがうにかんやと。ゆうしてめず。子路しろきてもっぐ。ふうぜんとしていわく、鳥獣ちょうじゅうともれをおなじくすからず。われひとともにするにあらずして、たれともにせん。てんみちらば、きゅうともえざるなり。
現代語訳
  • 長沮(ソ)と桀溺(ケツデキ)が、ならんでたがやしている。孔先生が通りかかり、子路をやって渡し場をたずねた。長沮 ――「あのたずなを持ってるのはだれじゃ…。」子路 ――「孔丘です。」――「魯の国の孔丘か。」――「そうです。」――「あの人は渡し場にくわしいよ。」桀溺にたずねる。桀溺 ――「あんたはだれじゃ…。」――「仲由です。」――「魯の孔丘のお弟子か…。」答え ――「そうです。」――「大川の流れが、いまの世のすがたじゃよ。それをだれが変えようてんだ…。それにあんたも人ぎらいをするおかたについてるより、世間ぎらいの人についたがよくはないかな…。」と種に土をかけつづける。子路がもどってきて告げた。先生はゲンナリして ――「鳥けものとはいっしょにくらせない。わしはこの人間同士といっしょでなくてだれとくらそう。平和な世であれば、わたしが世なおしすることもないが…。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 川ぞいのはたけちょう桀溺けつできという二人の隠者いんじゃがならんで、土をすいていた。たまたまからさいへの旅行中の孔子様が馬車でそこを通りかかられたが、子路しろに命じて渡し場を問わせた。馬をぎょしていた子路はづなを車上の孔子様にあずけて車からおり、両人ふたりに近づいて問いかけた。すると長沮が言うよう、「あの手綱をっているのは誰か。」子路が答えて、「孔丘です。」「それはの孔丘か。」「そうです。」「魯の孔丘ならば、あちこちあるきまわる男だから、渡し場ぐらい知っているはずじゃ。」こう言って教えてくれない。しかたがないから今度は桀溺けつできにたずねた。桀溺が言うよう、「お前さんは誰か。」「ちゅうゆうであります。」「それでは魯の孔丘のもんか。」「そうです。」「今日の有様を見るに、あの川水のドンドンしもに流れてかえらざるごとく、道義頽廃たいはいして救うべからざること、天下の人例外れいがいなしだ。お前さんの師匠はいったい誰といっしょにこの乱世を変えて太平の世にしようとするのか、孔丘はしきりにおのれを用いる明君めいくんけんたいをさがして東奔とうほん西走せいそうするが、今時いまどきそんな人のあろうはずがない。お前さんも、孔丘のようなあの人もいけないこの人もだめだと一人一人の人を避ける者にいてあるくよりも、ちょうぜんと世を避けてかくたがやすわれわれの仲間入りする方がよいではないか。」桀溺はかく言い捨てて長沮とふたりセッセといた種にかぶせた土をならし、見かえりもしない。子路は取りつく島もなく、車に帰ってさいを申し上げたところ、孔子様は本意ほいなげに歎息たんそくしておっしゃるよう、「いかに世をければとて、まさかとりけものの仲間入りもできまい。人と生れた以上は、天下衆人の仲間入りせずして誰と事を共にしようぞ。もし天下に道があれば、わしは何もなおしをしようと骨を折りはしない。天下に道がなければこそ、どうかして世を安んじ人を救わんものと東奔とうほん西走せいそうもするのじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • ちょう桀溺けつできの二人が、ならんで畑を耕していた。巡歴中の先師がそこを通りかかられ、子路に命じて渡場をたずねさせられた。すると長沮が子路にいった。――
    「あの人は誰ですかい。あの車の上でいま手綱をにぎっているのは」
    子路がこたえた。――
    こうきゅうです」
    長沮――
    「ああ、あの魯の孔丘ですかい」
    子路――
    「そうです」
    長沮――
    「じゃあ、渡場ぐらいはもう知っていそうなものじゃ。年がら年中方々うろつきまわっている人だもの」
    そこで子路は今度は桀溺けつできにたずねた。すると桀溺がいった。
    「お前さんはいったい誰かね」
    子路――
    ちゅうゆうと申すものです」
    桀溺――
    「ほう。すると、魯の孔丘のお弟子じゃな」
    子路――
    「そうです」
    桀溺――
    「今の世の中は、どうせ泥水の洪水みたようなものじゃ。お前さんの師匠は、いったい誰を力にこの時勢を変えようとなさるのかな。お前さんもお前さんじゃ。そんな人にいつまでもついてまわって、どうなさるおつもりじゃ。この人間もいけない、あの人間もいけないと、人間の選り好みばかりしている人についてまわるよりか、いっそ、さっぱりと世の中に見切りをつけて、のんきな渡世をしている人のまねをしてみたら、どうだね」
    桀溺はそういって、まいた種にせっせと土をかぶせ、それっきり見向きもしなかった。
    子路も仕方なしに、先師のところに帰って行って、その旨を話した。すると先師はさびしそうにしていわれた。――
    「世をのがれるといったところで、まさか鳥や獣の仲間入りもできまい。人間と生れたからには、人間とともに生きていくよりほかはあるまいではないか。私にいわせると、濁った世の中であればこそ、世の中のために苦しんでみたいのだ。もし正しい道が行なわれている世の中なら、私も、こんなに世の中のために苦労はしないのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 長沮 … 隠者。人物については未詳。
  • 桀溺 … 隠者。人物については未詳。
  • 耦 … 二人が並ぶこと。二人並んで耕すこと。
  • 過 … 通りかかる。
  • 子路 … 前542~前480。姓はちゅう、名は由。あざなは子路、または季路。魯のべんの人。孔門十哲のひとり。孔子より九歳年下。門人中最年長者。政治的才能があり、また正義感が強く武勇にも優れていた。ウィキペディア【子路】参照。
  • 津 … 渡し場。
  • 執輿者 … 馬車のづなを執っている人。ここでは、孔子を指す。「輿」は、くるま。
  • 孔丘 … 「きゅう」は、孔子の名。
  • 魯 … 山東省の曲阜を都とする小国。周公旦の子、はくきんが成王によって封ぜられた。孔子の祖国。ウィキペディア【】参照。
  • 是知津矣 … 孔丘なら(道を説くほどの人だから)、渡し場ぐらい知っているだろう。「是」は、孔子を指す。
  • 仲由 … 子路の姓名。
  • 滔滔 … 水がとめどなくさかんに流れる様子。世の中が乱れ、悪い方向へ流れて行っていることを言う。
  • 而 … ここでは、「汝」に同じ。
  • 辟人之士 … (あの人はだめ、この人はだめと)人を避けてばかりいる者。人を選り好みばかりする者。孔子を指す。
  • 与 … 「より」と読み、「~よりは」と訳す。比較して選択する意を示す。
  • 辟世之士 … 世間を避けて暮らす者。桀溺を指す。
  • 耰 … 播いた種に土をかぶせてならすこと。
  • 不輟 … やめないこと。「輟」は「止」に同じ。
  • 憮然 … 失望・落胆する様子。がっかりするさま。
  • 鳥獣不可与同群 … 鳥や獣と一緒に暮らすわけにはいかない。
  • 斯人之徒 … 天下の民衆。
  • 丘不与易也 … 私だって何も世を変革しようとはしない。
補説
  • 『注疏』に「此の章は孔子の周流するをば、隠者の譏る所と為るを記するなり」(此章記孔子周流、爲隱者所譏也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 長沮桀溺耦而耕。孔子過之、使子路問津焉 … 『集解』に引く鄭玄の注に「長沮・桀溺は、隠者なり。すきの広さ五寸、二耜にしぐうと為す。津は、済渡の処なり」(長沮桀溺、隱者也。耜廣五寸、二耜爲耦。津、濟渡處)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「二人は皆隠士なり。二人既に山野に隠る。故に耦して共に耕すなり。孔子行きて、沮・溺二人耕す所の処より過ぐるなり。津は、水を渡る処なり。時に子路孔子に従いて行く。故に孔子子路をして沮・溺を訪問し、水を渡る津の処をもとめしむるなり。宛叔曰く、之をあきらかにせんと欲す。故に問わしむるなり、と」(二人皆隱士也。二人既隱山野。故耦而共耕也。孔子行、從沮溺二人所耕之處過也。津、渡水處也。時子路從孔子行。故孔子使子路訪問於沮溺、覓渡水津之處也。宛叔曰、欲顯之。故使問也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「長沮・桀溺は、隠者なり。すきは、耕器なり。二耜を耦と為す。津は、済渡の処なり。長沮・桀溺二耜を並べて耕す。孔子道すがらかたわらを行きて之を過ぎ、子路をして往きて済渡の処を問わしむるなり」(長沮桀溺、隱者也。耜、耕器也。二耜爲耦。津、濟渡之處也。長沮桀溺並二耜而耕。孔子道行於旁過之、使子路往問濟渡之處也)とある。また『集注』に「二人は、隠者なり。耦は、並びて耕すなり。時に孔子楚より蔡に反る。津は、済渡の処なり」(二人、隱者。耦、竝耕也。時孔子自楚反乎蔡。津、濟渡處)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 夫執輿者為誰 … 『義疏』に「子路往きて津を問う。先ず長沮に問う。長沮津処を答えずして、先ず子路に反問するなり。輿を執るは、猶おくつわを執るがごときなり。子路初め車上に在り。即ち御を為す。御者は轡を執る。今即ち車より下りて、往きて津渡を問う。則ち轡を廃して孔子に与う。孔子時に轡を執る。故に長沮子路に問いて云う、夫の車中に在りて轡を執る者は、是れいずれのと為すや、と」(子路往問津。先問長沮。長沮不答津處、而先反問子路也。執輿、猶執轡也。子路初在車上。即爲御。御者執轡。今即下車、而往問津渡。則廢轡與孔子。孔子時執轡。故長沮問子路云、夫在車中執轡者、是爲誰子乎)とある。また『注疏』に「輿を執るは、轡を執りて車に在るを謂うなり。時に子路御と為るも、既に津を問わしむれば、孔子之に代わりて轡を執る、故の長沮見て子路に問いて曰く、夫の轡を執る者は誰人と為す、と」(執輿、謂執轡在車也。時子路爲御、既使問津、孔子代之而執轡、故長沮見而問子路曰、夫執轡者爲誰人)とある。また『集注』に「輿を執るは、轡を執りて車に在るなり。蓋し本と子路御して轡を執る。今下りて津を問う、故に夫子之に代わるなり」(執輿、執轡在車也。蓋本子路御而執轡。今下問津、故夫子代之也)とある。
  • 爲誰 … 『義疏』では「爲誰乎」に作る。
  • 子路 … 『孔子家語』七十二弟子解に「仲由は卞人べんひと、字は子路。いつの字は季路。孔子よりわかきこと九歳。勇力ゆうりき才芸有り。政事を以て名を著す。人と為り果烈にして剛直。性、にして変通に達せず。衛に仕えて大夫と為る。蒯聵かいがいと其の子ちょうと国を争うに遇う。子路遂に輒の難に死す。孔子之を痛む。曰く、吾、由有りてより、悪言耳に入らず、と」(仲由卞人、字子路。一字季路。少孔子九歳。有勇力才藝。以政事著名。爲人果烈而剛直。性鄙而不達於變通。仕衞爲大夫。遇蒯聵與其子輒爭國。子路遂死輒難。孔子痛之。曰、自吾有由、而惡言不入於耳)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「仲由、字は子路、べんの人なり。孔子よりもわかきこと九歳。子路性いやしく、勇力を好み、志こうちょくにして、雄鶏を冠し、とんび、孔子を陵暴す。孔子、礼を設け、ようやく子路をいざなう。子路、後に儒服してし、門人に因りて弟子たるを請う」(仲由字子路、卞人也。少孔子九歳。子路性鄙、好勇力、志伉直、冠雄鷄、佩豭豚、陵暴孔子。孔子設禮、稍誘子路。子路後儒服委質、因門人請爲弟子)とある。伉直は、心が強くて素直なこと。豭豚は、オスの豚の皮を剣の飾りにしたもの。委質は、はじめて仕官すること。ここでは孔子に弟子入りすること。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 為孔丘 … 『義疏』に「子路答えて云う、車中に轡を執る者は、是れ孔丘なり、と。然して子路長沮に問われて師の名を称するは、聖師天下に令して之を知らしむるを欲すればなり」(子路答云、車中執轡者、是孔丘也。然子路問長沮稱師名者、聖師欲令天下而知之也)とある。また『注疏』に「子路其の師の名天下に聞こゆるを以て、故に師の姓名を挙げて以て長沮に答うるなり」(子路以其師名聞於天下、故舉師之姓名以答長沮也)とある。
  • 是魯孔丘与 … 『義疏』に「長沮更に之を定むるなり。此れは是れ魯国の孔丘なるやいなや」(長沮更定之也。此是魯國孔丘不乎)とある。また『注疏』に「長沮と夫子の名を聞き、子路の答えを見るも、又た是れに非ざるを恐る。故に復た之に問いて曰く、是れ魯国の孔丘か、と。与は、是れ疑いて未だ定めざるの辞なり」(長沮舊聞夫子之名、見子路之答、又恐非是。故復問之曰、是魯國之孔丘與。與、是疑而未定之辭)とある。
  • 曰、是也 … 『義疏』に「答えて曰く、是れ魯の孔丘なり、と」(答曰、是魯孔丘也)とある。また『注疏』に「子路言う、是れ魯の孔丘なり、と」(子路言、是魯孔丘也)とある。
  • 曰、是也 … 『義疏』では「對曰、是也」に作る。
  • 是知津矣 … 『集解』に引く馬融の注に「言うこころは数〻しばしば周流すれば、自ずから津処を知らん」(言數周流、自知津處也)とある。また『義疏』に「沮は魯の孔丘と聞く、故に津処をげざるなり。言うこころは若し是れ魯の孔丘ならば、此の人数〻天下を周流して至らざる所無し。必ず津処を知らん。我今復た告ぐるをつこと無きなり」(沮聞魯孔丘、故不語津處也。言若是魯之孔丘、此人數周流天下無所不至。必知津處也。無俟我今復告也)とある。また『注疏』に「長沮の言うこころは、既に是れ魯の孔丘なれば、是の人数〻天下を周流すれば、自ずから津処を知らん、故に乃ち告げず」(長沮言、既是魯孔丘、是人數周流天下、自知津處、故乃不告)とある。また『集注』に「津を知らんとは、数〻周流すれば、自ら津処を知らんと言う」(知津、言數周流、自知津處)とある。
  • 問於桀溺 … 『義疏』に「長沮答えず。子路又た桀溺に問う」(長沮不答。子路又問桀溺)とある。また『注疏』に「長沮津処を告げず、故に子路復た桀溺に問う」(長沮不告津處、故子路復問桀溺)とある。
  • 桀溺曰、子為誰 … 『義疏』に「又た子路に問う、汝は是れ誰か、と」(又問子路、汝是誰也)とある。また『注疏』に「子路を識らず、故に之に問う」(不識子路、故問之)とある。
  • 曰、為仲由 … 『義疏』に「子路答えて言う、我は是れ姓は仲、名は由なり、と」(子路答言、我是姓仲、名由也)とある。また『注疏』に「子路姓名を称して以て答うるなり」(子路稱姓名以答也)とある。
  • 曰、是魯孔丘之徒与 … 『義疏』に「又た問いて言う、汝の名は由、是れ孔丘の門徒なるやいなや、と」(又問言、汝名由、是孔丘之門徒不乎)とある。また『注疏』に「桀溺と魯の孔丘の門徒に仲由有るを聞き、又た是れに非ざるを恐る、故に復た之に問いて曰く、是れなるか、と」(桀溺舊聞魯孔丘之門徒有仲由、又恐非是、故復問之曰、是與)とある。
  • 対曰、然 … 『義疏』に「子路答えて云う、是れなり、と」(子路答云、是也)とある。また『注疏』に「然は、猶お是のごときなり。子路、己は是れ魯の孔丘の徒なりと言う」(然、猶是也。子路言己是魯孔丘之徒也)とある。
  • 曰、滔滔者天下皆是也。而誰以易之 … 『集解』に引く孔安国の注に「滔滔とは、周流の貌なり。言うこころは今の天下の治乱同じきに当たりて、ここかしこくは空し。故に曰く、誰とともにか之を易えん、と」(滔滔者、周流之貌也。言當今天下治亂同、空舍此適彼。故曰、誰以易之)とある。また『義疏』に「滔滔とは、猶お周流のごときなり。天下皆是れなりは、一切皆悪なるを謂うなり。桀溺又た云う、孔子何ぞ周流するを事とする者ならんや。当今の天下、治乱一の如し。此を捨てて彼に適かん。定めて誰か之を易う可き者ならんや、と。皆悪なるを言うなり」(滔滔者、猶周流也。天下皆是、謂一切皆惡也。桀溺又云、孔子何事周流者乎。當今天下、治亂如一。捨此適彼。定誰可易之者乎。言皆惡也)とある。また『注疏』に「此れ孔子の天下を周流するを譏るなり。滔滔は、周流の貌なり。言うこころは孔子何を事として滔滔然として周流する者なるか。当今の天下の治乱は同じく、皆是れ無道なり。空しく此を舎てて彼に適き、誰か以て之を易えて有道と為す者ならんや」(此譏孔子周流天下也。滔滔、周流之貌。言孔子何事滔滔然周流者乎。當今天下治亂同、皆是無道也。空舍此適彼、誰以易之爲有道者也)とある。また『集注』に「滔滔は、流れて反らざるの意なり。以は、猶お与のごときなり。言うこころは天下皆乱る。将に誰とともにか之を変易せんとす」(滔滔、流而不反之意。以、猶與也。言天下皆亂。將誰與變易之)とある。
  • 且而与其従辟人之士也、豈若従辟世之士哉 … 『集解』の何晏の注に「士に人を辟くるの法有り、世を辟くるの法有り。長沮・桀溺謂えらく、孔子を士と為し、人を辟くるに法に従うなりと。己の士と為すは、則ち世を辟くるの法に従う者なればなり」(士有辟人之法、有辟世之法。長沮桀溺謂、孔子爲士、從辟人之法也。己之爲士、則從辟世之法者也)とある。また『義疏』に「桀溺又たひそかに此の言を以て子路を招き、己に従いて隠れしめんとするなり。故に孔子を謂いて人を避くるの士と為す。其れ自ら己を謂いて世を避くるの士と為すなり。言うこころは汝は今人を避くるの士に従う、則ち豈に世を避くるの士に従うに如かんや」(桀溺又微以此言招子路、使從己隱也。故謂孔子爲避人之士。其自謂己爲避世之士也。言汝今從於避人之士、則豈如從於避世之士也)とある。また『注疏』に「士に人を辟け世を辟くるの法有り。孔子は人を辟くるの法に従うを謂う。長沮・桀溺は自ら世を辟くるの法に従うと謂う。且・而は皆語辞なり。与は、猶お等のごときなり。既に天下皆乱れ、以て之を易うること無きを言えば、則ち賢者は皆まさに隠辟すべし。且つ其の隠辟して、人を辟くるの法に従うに等しくば、則ち周流の労有り。世を辟くるの法に従うは、則ち安逸の楽有り。こころは孔子をして己の如くせしめんとするなり」(士有辟人辟世之法。謂孔子從辟人之法。長沮桀溺自謂從辟世之法。且而皆語辭。與、猶等也。既言天下皆亂、無以易之、則賢者皆合隱辟。且等其隱辟、從辟人之法、則有周流之勞。從辟世之法、則有安逸之樂。意令孔子如己也)とある。また『集注』に「而は、汝なり。人を辟くるは、孔子を謂う。世を辟くは、桀溺自ら謂う」(而、汝也。辟人、謂孔子。辟世、桀溺自謂)とある。
  • 辟 … 『義疏』では「避」に作る。
  • 耰而不輟 … 『集解』に引く鄭玄の注に「耰は、種を覆うなり。輟は、止なり。種を覆いて止めず、津を以て告げざるなり」(耰、覆種也。輟、止也。覆種不止、不以津告也)とある。また『義疏』に「耰は、種を覆うなり。輟は、止なり。二人は子路と且つ語り且つ耕し、種を覆いて止めざるなり。覆種とは、穀を植うるの法にして、先ず散し後に覆う」(耰、覆種也。輟、止也。二人與子路且語且耕、覆種不止也。覆種者、植縠之法、先散後覆)とある。また『注疏』に「耰は、種を覆うなり。輟は、止なり。種を覆いて止めず、津を以て告げず」(耰、覆種也。輟、止也。覆種不止、不以津告)とある。また『集注』に「耰は、種を覆うなり。亦た告ぐるに津処を以てせず」(耰、覆種也。亦不告以津處)とある。
  • 子路行以告 … 『義疏』に「子路二人に問うも、二人皆告げず。借問するに及んで覆種して止めず。故に子路つぶさに此の事を以て車上に還り、以て孔子に告ぐるなり」(子路問二人、二人皆不告。及於借問而覆種不止。故子路備以此事還車上、以告孔子也)とある。また『注疏』に「子路長沮・桀溺の言を以て夫子に告ぐ」(子路以長沮桀溺之言告夫子)とある。
  • 夫子憮然曰 … 『集解』の何晏の注に「其の己が意を達せず、而して便ち己をそしるがためなり」(爲其不達己意、而便非己也)とある。また『義疏』に「憮然は、猶お驚愕のごときなり。孔子は子路の告ぐるを聞く。故に彼己の意を達せずして己をそしるをおどろき怪しむなり」(憮然、猶驚愕也。孔子聞子路告。故愕怪彼不達己意而譏己也)とある。また『注疏』に「憮は、失意の貌なり。己の意に達せずして便ち己を非とするを謂うなり」(憮、失意貌。謂不達己意而便非己也)とある。また『集注』に「憮然は、猶お悵然のごとし。其の己の意をさとらざるを惜しむなり」(憮然、猶悵然。惜其不喩己意也)とある。
  • 鳥獣不可与同群 … 『集解』に引く孔安国の注に「山林に隠居するは、是れ鳥獣と群を同じくす」(隱居於山林、是與鳥獸同羣)とある。また『義疏』に「孔子既に憮然として又た云う、山林に隠るる者は、則ち鳥獣と群を同じうす。世を出づる者は、則ち世人と徒旅を為す。我今応に世に出づべし。自ら山林に居するを得ず。故に云う、鳥獣は与に群を同じくす可からざるなり、と」(孔子既憮然而又云、隱山林者、則鳥獸同羣。出世者、則與世人爲徒旅。我今應出世。自不得居於山林。故云、鳥獸不可與同羣也)とある。また『注疏』に「孔子其の隠居して世を避く可からざるの意を言うなり。山林には鳥獣多く、ともに群を同じくす可からず。若し山林に隠るるは、是れ群を同じくするなり」(孔子言其不可隱居避世之意也。山林多鳥獸、不可與同羣。若隱於山林、是同羣也)とある。
  • 群 … 『義疏』では「群也」に作る。
  • 吾非斯人之徒、与而誰与 … 『集解』に引く孔安国の注に「吾自ら当に此の天下の人と群を同じくすべし。安んぞ能く人を去りて鳥獣に従い居らんや」(吾自當與此天下人同羣。安能去人從鳥獸居)とある。また『義疏』に「言うこころは必ず人と徒と為るなり。亦た云う、我既に世に出でて、応に人と徒旅を為すべし。故に云う、吾斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にせん、と。言うこころは必ず人と徒を為すなり」(言必與人爲徒也。亦云、我既出世、應與人爲徒旅。故云、吾非斯人之徒與而誰與。言必與人爲徒也)とある。また『注疏』に「与は、相親しくともにするを謂う。我天下の人の徒衆と相親しく与にするに非ずして、而も更に誰と親しく与にせん。言うこころは吾は自ら当に此の天下の人と群を同じくすべく、安んぞ能く人を去り鳥獣に従いて居らんや」(與、謂相親與。我非天下人之徒衆相親與、而更誰親與。言吾自當與此天下人同羣、安能去人從鳥獸居乎)とある。また宮崎市定は「吾は斯の人の徒に非ず。なんじともに誰にくみせん」と読んでいる。『論語の新研究』364頁以下参照。
  • 天下有道、丘不与易也 … 『集解』に引く孔安国の注に「言うこころは凡そ天下に道有る者は、丘皆ともに之を易えず。己大にして人小なるが故なり」(言凡天下有道者、丘皆不與易之。己大而人小故也)とある。また『義疏』に「言うこころは凡そ我が道、天下に行われずと雖も、天下道有る者は、而して我が道皆彼と之を易うるに至らず。是れ我が道大にして彼の道小なるが故なり」(言凡我道雖不行於天下、天下有道者、而我道皆不至與彼易之。是我道大彼道小故也)とある。また『注疏』に「言うこころは凡そ天下に道有る者ならば、我は皆ともに易えざるなり。其の己大にして人の小なるが為の故なり」(言凡天下有道者、我皆不與易也。爲其己大而人小故也)とある。また『集注』に「言うこころは当に与に群れを同じくすべき所の者は、斯の人のみ。豈に人を絶ち世を逃れて以て潔しと為す可けんや。天下若し已に平治すれば、則ち我之を変易するを用うること無し。正に天下道無きが為に、故に道を以て之を易えんと欲するのみ」(言所當與同群者、斯人而已。豈可絶人逃世以爲潔哉。天下若已平治、則我無用變易之。正爲天下無道、故欲以道易之耳)とある。また宮崎市定は「天下の有道には、丘はくみたがわざるなり」と読んでいる。『論語の新研究』364頁以下参照。
  • 『集注』に引く程顥または程頤の注に「聖人敢えて天下を忘るるの心有らず。故に其の言此くの如きなり」(聖人不敢有忘天下之心。故其言如此也)とある。
  • 『集注』に引く張載の注に「聖人の仁は、無道の天下に必するを以て之を棄てざるなり」(聖人之仁、不以無道必天下而棄之也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「論に曰く、桀溺は天下を変易せんと欲す。聖人は天下を変易することを欲せず。天下を変易せんと欲する者は、是れ己の道を以て、天下をうるなり。天下を変易することを欲せざる者は、是れ天下を以て、天下を治むるなり。蓋し天下は人を以て立つ。人を去りて独り立つこと能わず。故に聖人は楽しむに天下を以てし、憂うるに天下を以てす。未だ嘗て天下を避けて、独り其の身を潔くせず。長沮・桀溺の流の如き、まことに天下に通じ、万世に達するの道に非ざるなり。及びの仏氏は寂滅を以て教えと為し、老氏は虚無を以て道と為し、以て天下を易えんことを思う。然れども今に到るまで二千有余歳、亦た未だ嘗て天下の君臣・父子・夫婦を滅して、太古に無為に復すること能わず。ここに於いて益〻知る、吾が夫子の教えは、大中至正、古今に貫徹し、以て復た加う可からざることを」(論曰、桀溺欲變易天下。聖人不欲變易天下。欲變易天下者、是以己之道、強天下也。不欲變易天下者、是以天下、治天下也。蓋天下以人而立。不能去人而獨立。故聖人樂以天下、憂以天下。未嘗避天下、而獨潔其身。如長沮桀溺之流、固非通乎天下、達乎萬世之道也。及夫佛氏以寂滅爲教、老氏以虚無爲道、思以易天下。然到今二千有餘歳、亦未嘗能滅天下之君臣父子夫婦、而復太古之無爲。於是益知、吾夫子之教、大中至正、貫徹古今、不可以復加也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「滔滔たる者は天下皆是れなり。而うして誰か以て之を易えん、言うこころは天下の人君、ともに為すこと有る可き者有ること莫し、而うして何人なんぴとたすけて以て天下を変易せんと欲するかとなり。以は必ずしもともにと訓ぜず。与と訓ずるも亦た同義なり。人をくの人は、と人君を指す。見る可し天下皆是れも亦た人君を指すことを。……吾れ斯の人の徒とともにするに非ずして誰と与にかせんも、亦た人君を指す。天下道有らば、丘ともに易えずも、亦た謂うし天下の人君をして皆道有らしめば、則ち丘何ぞ必ずしも之を輔けて風俗を変易するを欲せんやと。朱註之を尽くせり。仁斎乃ち曰く、桀溺は天下を変易せんと欲す。聖人は天下を変易することを欲せず、と。又た曰く、天下に道有りとは、猶お人の道有るやと曰うがごとし。言うこころは天下に自ずから君臣有り、父子有り、夫婦有り。吾れ斯の人を以てして斯の人を治むるのみ。何ぞ変易するを用て為さん、と。辞にくらしと謂う可きのみ」(滔滔者天下皆是也。而誰以易之、言天下人君、莫有可與有爲者、而欲輔何人以變易天下也。以不必訓與。訓與亦同義。辟人之人、本指人君。可見天下皆是亦指人君也。……吾非斯人之徒與而誰與、亦指人君。天下有道、丘不與易也、亦謂若使天下人君皆有道、則丘何必欲輔之變易風俗哉。朱註盡之矣。仁齋乃曰、桀溺欲變易天下。聖人不欲變易天下。又曰、天下有道、猶曰人之有道也。言天下自有君臣、有父子、有夫婦。吾以斯人而治斯人而已。何用變易爲。可謂昧乎辭已)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十