衛霊公第十五 35 子曰當仁不讓於師章
414(15-35)
子曰。當仁。不讓於師。
子曰。當仁。不讓於師。
子曰く、仁に当たりては、師にも譲らず。
現代語訳
- 先生 ――「人の道では、先生にも遠慮せぬ。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様がおっしゃるよう、「仁を行うには、先生に遠慮はいらぬ。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師がいわれた。――
「仁の道にかけては、先生にもゆずる必要はない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 当仁 … 仁の実行に当たっては。
- 師 … 先生。
- 不譲 … 譲歩しない。
補説
- 不譲 … 佐藤一斎は「譲らずとは、猶お後れずと言うがごとし。勇往の心を状するのみ」(不讓、猶言不後。状勇往之心耳)と言う。『論語欄外書』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 『集解』に引く孔安国の注に「仁を行うの事に当たりては、復た師にも譲らず。仁を行うこと急なるを言う」(當行仁之事、不復讓於師。言行仁急)とある。
- 『集注』に「仁に当たるとは、仁を以て己が任と為すなり。師と雖も亦た遜る所無しとは、当に勇み往きて必ず為すべきを言うなり。蓋し仁とは人の自ら有する所にして、自ら之を為せば、争うこと有るに非ざるなり。何の遜ることか之れ有らん」(當仁、以仁爲己任也。雖師亦無所遜、言當勇往而必爲也。蓋仁者人所自有、而自爲之、非有爭也。何遜之有)とある。
- 『集注』に引く程顥(もしくは程頤)の注に「仁を為すは己に在れば、与に遜る所無し。善名の外に在るがごときは、則ち遜らざるべからず」(爲仁在己、無所與遜。若善名在外、則不可不遜)とある。
- 伊藤仁斎は「此れ仁の力め行わざるべからざるを言うなり。師は道の在る所、固に事毎に譲らざるべからず。然れども仁に於いて則ち然らざる者は、蓋し仁は人道の本にして、師は命を受くる所なり。苟くも此の如くなれば、則ち人道の本を尽くして、能く其の命を受くる者なり。其の之を譲らざる者は、適に深く之を譲る所以なり」(此言仁之不可不力行也。師者道之所在、固毎事不可不讓焉。然於仁則不然者、蓋仁人道之本、而師者所受命也。苟如此、則盡人道之本、而能受其命者也。其不讓之者、適所以深讓之也)と言う。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠は「仁に当たりては師に譲らず、朱註、仁以て己が任と為というを引く。之を得たり。仁道は広大、宜しく譲るべきがごとく然り。故に師に譲らずと曰う。而して其の譲らざる所以の故は、孔安国之を得たり。仁を行うに急なりと曰う。程子曰く、仁を為すは己に在り。与に遜る所無しと。非なり。果たして爾らば、何ぞ唯だ仁に於いてのみならんや。民を救い民を安んずるの事、得て之を緩くすべからざればなり」(當仁不讓於師。朱註。引仁以爲己任。得之矣。仁道廣大。宜若可讓然。故曰不讓於師。而其所以不讓之故者。孔安國得之。曰行仁急。程子曰。爲仁在己。無所與遜。非矣。果爾。何唯於仁乎。救民安民事。不可得而緩之也)と言う。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 | 為政第二 |
八佾第三 | 里仁第四 |
公冶長第五 | 雍也第六 |
述而第七 | 泰伯第八 |
子罕第九 | 郷党第十 |
先進第十一 | 顔淵第十二 |
子路第十三 | 憲問第十四 |
衛霊公第十五 | 季氏第十六 |
陽貨第十七 | 微子第十八 |
子張第十九 | 堯曰第二十 |