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衛霊公第十五 34 子曰民之於仁也章

413(15-34)
子曰、民之於仁也、甚於水火。水火吾見蹈而死者矣。未見蹈仁而死者也。
いわく、たみじんけるや、すいよりもはなはだし。すいわれみてするものる。いまじんみてするものざるなり。
現代語訳
  • 先生 ――「人民にはなさけが、水や火よりもだいじだ。水や火にはとびこんで死んだ人を見かけたが、なさけにとびこんで死んだ人はまだ見ないな。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「水と火は人民日常生活の必要物で、これなくしては一日片時も生存し得ないが、仁を失ったら人の人たるゆえんがなくなり、生きがいのないことになるのだから、仁の方が人間にとって水や火よりも大切である。その上、水や火は生きるために必要ではあるけれども、時には水の底、火の中にみ込んでおぼれ死に焼け死ぬ者をも見ることだが、わしはまだ仁の道を踏んで死んだ者を見たことがない。それだのに人はなぜ仁におもむくことをためらうのであろうか。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「人民にとって、仁は水や火よりも大切なものである。私は水や火にとびこんで死んだものを見たことがあるが、まだ仁にとびこんで死んだものを見たことがない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 民 … 人民。
  • 仁 … 心の徳。
  • 民之於仁也 … 人民と仁との関係は。人民が仁を必要とする点においては。
  • 甚於水火 … 水と火よりもさらに大切である。「於」は「~より(も)」と読む。比較を示す助字。
  • 蹈 … 「踏」に同じ。踏み込む。はまる。命を賭ける。殉じる。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人に仁道を行うを勧むるなり」(此章勸人行仁道也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 民之於仁也、甚於水火 … 『集解』に引く馬融の注に「水火と仁とは、皆民の仰ぎて生くる所の者なり。仁は最も甚だしと為すなり」(水火與仁、皆民所仰而生者。仁最爲甚也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「甚は、猶お勝のごときなり。仁・水・火の三事は、皆民人の仰ぎて以て生ずる所の者なり。水火は是れ人のちょうせきもちうる所にして、仁は是れ万行の首なり。故に水火に非ざれば、則ち以て食する無く、仁に非ざれば、則ち恩義有ること無し。若し恩及び飲食無くんば、則ち必ず死し、以て世に立つこと無し。三者並びに民人の急とする所と為るなり。然れども三事の中に就いて、仁最もまされりと為す。故に水火よりも甚だしと云うなり」(甚、猶勝也。仁水火三事、皆民人所仰以生者也。水火是人朝夕所須、仁是萬行之首。故非水火、則無以食、非仁、則無有恩義。若無恩及飲食、則必死、無以立世。三者竝爲民人所急也。然就三事之中、仁最爲勝。故云甚於水火也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「言うこころは水・火は飲食の由る所、仁とは善行の長、皆民の仰ぎて生くる所の者なり。若し其の三者の用うる所をくらぶれば、則ち仁は最も甚だしと為すなり」(言水火飲食所由、仁者善行之長、皆民所仰而生者也。若較其三者所用、則仁最爲甚也)とある。また『集注』に「民の水火に於ける、頼りて以て生くる所、一日も無かる可からず。其の仁に於けるも亦た然り。但だ水火は外物なれども仁は己に在り。水火無ければ、人の身を害するに過ぎず、而れども仁ならざれば則ち其の心を失う。是れ仁は水火よりも甚だしきこと有りて、もっとも以て一日も無かる可からざるなり」(民之於水火、所賴以生、不可一日無。其於仁也亦然。但水火外物而仁在己。無水火、不過害人之身、而不仁則失其心。是仁有甚於水火、而尤不可以一日無也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 水火吾見蹈而死者矣。未見蹈仁而死者也 … 『集解』に引く馬融の注に「水火を蹈めば或いは時に人を殺す。仁を蹈むも未だ嘗て人を殺さざるなり」(蹈水火或時殺人。蹈仁未嘗殺人也)とある。また『義疏』に「此れ仁の水火に勝る所以の事を明らかにするなり。水火は乃ち能く民人を治む。民人若し誤りて之を履蹈せば、則ち必ず人を殺す。故に云う、水火は吾れ蹈みて死する者を見るなり、と。仁は是れ恩愛の政之を行う。故に宜しく美と為すべし。若し誤りて之を履蹈するも、則ち未だ嘗て人を殺さず。故に云う、未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり、と。王弼云う、民の仁より遠ざくるや、水火を遠ざくるよりも甚だしきなり。水火を蹈む者有るを見るも、嘗て仁を蹈む者を見ざるなり、と」(此明仁所以勝水火之事也。水火乃能治民人。民人若誤履蹈之、則必殺人。故云、水火吾見蹈而死者也。仁是恩愛政行之。故宜爲美。若誤履蹈之、則未嘗殺人。故云、未見蹈仁而死者也。王弼云、民之遠於仁、甚於遠水火也。見有蹈水火者、不嘗見蹈仁者也)とある。また『注疏』に「此れ仁は水・火よりも甚だしきの事を明らかにするなり。蹈は、猶お履のごときなり。水・火は人を養う所以なりと雖も、若し之を履蹈せば、或いは時に人を殺す。若し仁道を履行するも、未だ嘗て人を殺さざるなり」(此明仁甚於水火之事也。蹈、猶履也。水火雖所以養人、若履蹈之、或時殺人。若履行仁道、未嘗殺人也)とある。また『集注』に「況んや水火は或いは時有りて人を殺すも、仁は則ち未だ嘗て人を殺さず。亦た何をかはばかりて為さざらんや」(況水火或有時而殺人、仁則未嘗殺人。亦何憚而不爲哉)とある。
  • 『集注』に引く李郁の注に「此れ夫子の人に仁を為すを勉めしむるの語なり」(此夫子勉人爲仁之語)とある。
  • 『集注』に「下章も此にならう」(下章放此)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ聖人、人の常に能く其の為し難き所の者を為して、而して仁に於いて反ってたん怯縮きょうしゅくして、敢えて為さざるを怪しみて之を歎ずるなり。蓋し一旦感激して、身を殺す者は易く、従容自得、身を殺して以て仁を成すに至りては、則ち至誠惻怛そくだつ、中心より発する者に非ざれば則ち能わず。所以に曰く、未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり、と」(此聖人怪人常能爲其所難爲者、而於仁反畏憚怯縮、不敢爲而歎之也。蓋一旦感激、而殺身者易、至於從容自得、殺身以成仁、則非至誠惻怛、發於中心者則不能。所以曰、未見蹈仁而死者也)とある。畏憚は、おそれはばかること。惻怛は、いたみ悲しむこと。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「王弼云う、民の仁に遠ざかるは、水火より甚だし。水火を蹈む者有るを見る。未だ嘗て仁を蹈む者を見ざるなり、と。仁斎之を用う。然れども語意を詳らかにするに、くの若くならず。馬融曰く、水火及び仁は、皆民の仰ぎて生くる所の者にして、仁最も甚だしと為す、と。之を得たり。蓋し民の仁政に於けるや、水火よりも甚だしと言う。何の故ぞや。水火をば吾蹈んで死する者を見る。未だ仁を蹈んで死する者を見ざるなり。宜なるかな。是れ孔子の意のみ。仁にして蹈むと曰うは、水火を蹈むよりして来たるなり。朱子以て学者の事と為す。非なり。豈に身を殺して仁を成すということ無からんや。民とは君に対するの辞、故に仁は仁政を謂うなり」(王弼云、民之遠於仁、甚於水火。見有蹈水火者。未嘗見蹈仁者也。仁齋用之。然詳語意、不若是焉。馬融曰、水火及仁、皆民所仰而生者、仁最爲甚。得之。蓋言民之於仁政也、甚於水火。何故也。水火吾見蹈而死者矣。未見蹈仁而死者也。宜哉。是孔子之意已。仁而曰蹈、由蹈水火而來也。朱子以爲學者事。非也。豈無殺身而成仁乎。民者對君辭、故仁謂仁政也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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