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衛霊公第十五 20 子曰君子求諸己章

399(15-20)
子曰、君子求諸己、小人求諸人。
いわく、くんこれおのれもとめ、しょうじんこれひともとむ。
現代語訳
  • 先生 ――「人物は自分のせいにし、俗物は人のせいにする。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「事がうまくいかないときに、君子は自分の身に立ちかえって反省するが、小人はすべてを他人の責任にする。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「君子は何事も自己の責任に帰し、小人は他人の責任に帰する」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 君子 … 徳の高い立派な人。人格者。反対は小人。
  • 諸 … 「これ」と読み、「これを~に」と訳す。本来は「之於しお」が「しょ」になまったもの。「求之於己」(之を己に求む)と書き換えたのと同じ。ここでの「諸」は、漠然とすべての物事を指す。何事も。
  • 求己 … 何事も自分に責任を求める。
  • 小人 … 教養がなく、人格が低くてつまらない人。反対は君子。
  • 求人 … 何事も他人に責任を求める。
補説
  • 『注疏』に「此の章は君子の己を責め、小人の人を責むるを言うなり」(此章言君子責於己、小人責於人也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 君子求諸己、小人求諸人 … 『集解』の何晏の注に「君子は己を責め、小人は人を責むるなり」(君子責己、小人責人也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「求は、責むるなり。君子は自ら己の徳行の足らざるを責め、人を責めざるなり。小人は自ら己を責めずして人を責むるなり」(求、責也。君子自責己德行之不足、不責人也。小人不自責己而責人也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「求は、責なり。諸は、於なり」(求、責也。諸、於也)とある。
  • 『集注』に引く謝良佐の注に「君子はこれを己にはんきゅうせざること無し。小人は是に反す。此れ君子と小人の分かるる所以なり」(君子無不反求諸己。小人反是。此君子小人所以分也)とある。反求は、自省すること。反省すること。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『集注』に引く楊時の注に「君子は人の己を知らざることを病まずと雖も、然れども亦た世を没するまで名の称せられざることをにくむなり。世を没するまで名の称せられざることをにくむと雖も、然れども求むる所以の者は、亦たこれを己に反するのみ。小人はこれを人に求む。故に道に違いて誉をもとめ、至らざる所無し。三者の文は相おおわずして、義は実に相足る。亦た言を記す者の意なり」(君子雖不病人之不己知、然亦疾沒世而名不稱也。雖疾沒世而名不稱、然所以求者、亦反諸己而已。小人求諸人。故違道干譽、無所不至。三者文不相蒙、而義實相足。亦記言者之意)とある。三者とは、この章と「衛霊公第十五18」「衛霊公第十五19」を指す。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ亦た夫子の家法なり。中庸に云う、しゃは君子に似たること有り、これ正鵠せいこくに失すれば、これを其の身にはんきゅうす、と。孟子曰く、人を愛して親しまざれば其の仁にかえれ、人を治めて治まらざれば其の智にかえれ、人を礼して答えられざれば其の敬にかえれ、と。古えの君子、其の自ら修むること此くの如し。故に徳に修まりて、邦家怨み無し」(此亦夫子之家法。中庸云、射有似乎君子、失諸正鵠、反求諸其身。孟子曰、愛人不親反其仁、治人不治反其智、禮人不答反其敬。古之君子、其自修如此。故德日修、而邦家無怨)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「君子はこれを己に求むは、能く其の徳を成す所以ゆえんなり。孔子滄浪そうろうの歌を聞きて、則ち自ら之を取るなりと曰うが如き、以て見る可きのみ」(君子求諸己、所以能成其德也。如孔子聞滄浪之歌、則曰自取之也、可以見已)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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