衛霊公第十五 16 子曰羣居終日章
395(15-16)
子曰、羣居終日、言不及義、好行小慧。難矣哉。
子曰、羣居終日、言不及義、好行小慧。難矣哉。
子曰く、群居すること終日、言、義に及ばず、好みて小慧を行うは、難いかな。
現代語訳
- 先生 ――「集まって日が暮れても、話しがかんじんのことにふれず、小細工ばかりしたがる。しまつがわるいな。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様がおっしゃるよう、「日がな一日寄りこぞっていながら、話題が一度も道徳問題に触れず、鼻先の小才覚ばかりを得意がるとは、やっかいなことかな。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師がいわれた。――
「朝から晩までおおぜい集まっていながら、話が道義にふれず、小ざかしいことをやって得意になっているようでは、見込みなしだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 群居 … 大勢が寄り集まる。集まって一緒にいる。「羣」は「群」の異体字。
- 義 … 道義。道徳。まともなこと。
- 小慧 … 小ざかしい智恵。猿知恵。
- 難矣哉 … 度し難いなあ。どうにもならないことだなあ。困ったことだなあ。ものにならないなあ。
- 矣哉 …「(なる)かな」と読み、「~だなあ」「~であることよ」と訳す。感嘆の意を示す。「矣」「矣夫」「矣乎」も同じ。
補説
- 『注疏』に「此の章は義を貴ぶ」(此章貴義)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 群居終日、言不及義 … 『義疏』に「三人以上を群居と為す。群居して共に聚まれば、談説する所有り。日月を終うるも、而れども未だ曾て義に及ぶの事有らざるなり」(三人以上爲羣居。羣居共聚、有所談説。終於日月、而未曾有及義之事也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 好行小慧 … 『集解』に引く鄭玄の注に「小慧は、小小の才知を謂うなり」(小慧、謂小小之才知也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「小恵は、小小の才智なり。安陵調謔の属の若きなり」(小惠、小小才智也。若安陵調謔屬也)とある。また『注疏』に「小慧は、小小の才知を謂う」(小慧、謂小小才知)とある。また『集注』に「小慧は、私智なり。言、義に及ばざれば、則ち放辟邪侈の心滋く、好みて小慧を行えば、則ち険を行い倖を僥むるの機熟す」(小慧、私智也。言不及義、則放辟邪侈之心滋、好行小慧、則行險僥倖之機熟)とある。放辟邪侈は、勝手気ままに悪い行いをすること。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 難矣哉 … 『集解』に引く鄭玄の注に「難いかなは、終に成ること無きを言うなり」(難矣哉、言終無成也)とある。また『義疏』に「此を以て世に処するも、亦た成人と為ること難きなり」(以此處世、亦難爲成人也)とある。また『注疏』に「言うこころは人群朋と共に居り、一日を終竟するに、言う所は義事に及ばず、但だ好みて小小の才知を行い、以て人に陵誇するのみなるは、成る所有ること難きかな。終に成ること無きを言うなり」(言人羣朋共居、終竟一日、所言不及義事、但好行小小才知、以陵誇於人、難有所成矣哉。言終無成也)とある。陵誇は、しのぎ誇ること。また『集注』に「難いかなとは、其の以て徳に入ること無くして、将に患害有らんとするを言うなり」(難矣哉者、言其無以入德、而將有患害也)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ燕朋の害を言うなり」(此言燕朋之害也)とある。燕朋は、馴れ馴れしく遠慮しない友人のこと。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「其の群居するに方りてや、終日言うと雖も、其の言先王の義に及ばず、其の行事を観れば、則ち小恵を行うことを好み、自ら以為えらく此れ以て人心を収むるに足れりと。是れ仁に似て仁に非ず。然れども亦た此れを以てして頗る聞望有り。故に自ら以て足れりと為して、復た道を学ばず。故に難いかなと曰う。是れ必ず当時の卿大夫を指して之を言う」(方其群居也、雖終日言、其言不及先王之義、觀其行事、則好行小惠、自以爲此足以収人心。是似仁而非仁。然亦以此而頗有聞望。故自以爲足、不復學道。故曰難矣哉。是必指當時卿大夫言之)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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