衛霊公第十五 7 子曰可與言而不與之言章
386(15-07)
子曰、可與言、而不與之言、失人。不可與言、而與之言、失言。知者不失人、亦不失言。
子曰、可與言、而不與之言、失人。不可與言、而與之言、失言。知者不失人、亦不失言。
子曰く、与に言う可くして、之と言わざれば、人を失う。与に言う可からずして、之と言えば、言を失う。知者は人を失わず、亦た言を失わず。
現代語訳
- 先生 ――「話しあってよい人と話さないのは、人をムダにする。話さないがよい人と話すと、ことばがアダになる。チエ者は人をムダにせず、ことばもアダにしない。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様がおっしゃるよう、「共に語るに足る人に出あいながらこれと話をしないと、人を失う。すなわち、せっかくの善い相手を取り逃がす。話してもわからぬ人をつかまえて語ると、言を失う。すなわち、せっかくの言葉をむだにする。よく相手の人物を見定めて、語るべき時に語り、黙すべき時に黙するのが知者というものぞ。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師がいわれた。――
「ともに語るに足る人に会いながら、その人と語らなければ人を失うことになる。ともに語るに足りない人に会って、みだりにその人と語れば言葉を失うことになる。知者は人を失わないし、また言葉を失わない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 可与言 … 共に語るに足る人物であるとわかっていながら。
- 不与之言 … その人と語り合わないと。
- 失人 … その人を逃してしまうことになる。
- 不可与言 … 共に語るに足らない人物と。
- 与之言 … その人と語り合うと。
- 失言 … 失言の過ちを犯す。
補説
- 『注疏』に「此の章は其の人を知るを戒むるなり」(此章戒其知人也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 可與言、而不与之言、失人 … 『義疏』に「謂えらく、此れ人と与に共に言う可くして、己れ之と言わざれば、則ち此れ人復た見顧せず。故に是れ言う可きの人を失うなり」(謂、此人可與共言、而己不與之言、則此人不復見顧。故是失於可言之人也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 而不与之言 … 原文(『注疏』)に「之」の字はないが、集注本等にはあるので補った。
- 不可與言、而與之言、失言 … 『義疏』に「言うこころは言う可からざるの人と共に言えば、是れ我の言を失う者なり」(言與不可言之人共言、是失我之言者也)とある。
- 知者不失人、亦不失言 … 『集解』の何晏の注(『義疏』にのみ載っている)に「言う所皆是なり。故に失う所の者無きなり」(所言皆是。故無所失者也)とある。また『義疏』に「唯だ智有るの士のみは、則ち二途を備照すれば、則ち人と言と並びに失う所無きなり」(唯有智之士、則備照二途、則人及言竝無所失也)とある。また『注疏』に「若し中人以上ならば、以て上を語る可し。是れ与に言う可きも、而も与に言わずんば、是れ彼の人を失うなり。若し中人以下ならば、以て上を語る可からざるのみ。之と言わば、則ち己の言を失うなり。惟だ知者のみ事に明らかなれば、二者をば倶に失わず」(若中人以上、可以語上。是可與言、而不與言、是失於彼人也。若中人以下、不可以語上而己。與之言、則失於己言也。惟知者明於事、二者倶不失)とある。また『集注』に「知は、去声」(知、去聲)とあるので、「知者」は智者の意。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「人を失えば則ち善周からず。言を失えば則ち道必ず瀆る」(失人則善不周矣。失言則道必瀆矣)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「知者は人を失せず、亦た言を失せず。或ひと曰く、人を失せざるは、仁なり。言を失せざるは、知なり。聖人知を言えば、必ず仁の在ること有り、と。然れども人を失せざる者は知者の事なり。仁に非ざるなり。知者は仁を利す。豈に全く相関せざらんや」(知者不失人、亦不失言。或曰、不失人、仁也。不失言、知也。聖人言知、必有仁在。然不失人者知者之事也。非仁也。知者利仁。豈全不相關乎)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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