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子路第十三 15 定公問一言而可以興邦章

317(13-15)
定公問、一言而可以興邦、有諸。孔子對曰、言不可以若是其幾也。人之言曰、爲君難、爲臣不易。如知爲君之難也、不幾乎一言而興邦乎。曰、一言而喪邦、有諸。孔子對曰、言不可以若是其幾也。人之言曰、予無樂乎爲君。唯其言而莫予違也。如其善而莫之違也、不亦善乎。如不善而莫之違也、不幾乎一言而喪邦乎。
定公ていこうう、一言いちげんにしてもっくにおこきもの、これりや。こうこたえていわく、げんもっくのごとからざるなり。ひとげんいわく、きみたるはかたく、しんたるもやすからずと。きみたるのかたきをらば、一言いちげんにしてくにおこすにちかからずや。いわく、一言いちげんにしてくにほろぼすもの、これりや。こうこたえていわく、げんもっくのごとからざるなり。ひとげんいわく、われきみたるをたのしむことし。いてわれたがきなりと。ぜんにしてこれたがうこときや、からずや。ぜんにしてこれたがうこときや、一言いちげんにしてくにほろぼすにちかからずや。
現代語訳
  • 定(殿)さまがきく ―― 「ことばひとつで国を立てなおす、というようなことがあるか。」孔先生のお答え ―― 「ことばではそこまでゆきませんです。だれかがいいました、『殿はむずかし、家来も難儀』と。殿の身のむずかしさがわかりましたら、ことばひとつで国を立てなおすのにも近くはないですか。」 ―― 「ことばひとつで国をほろぼす、というようなことがあるか。」孔先生のお答え ―― 「ことばではそこまでゆきませんです。だれかがいいました、『殿であっても楽しくないが、ことばにさからうものだけはないさ』と。それがもしよくてさからわないのなら、けっこうでしょうよ。だがわるくてもさからわないのなら、ことばひとつで国をほろぼすのに近いでしょうよ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • の定公が孔子に、「一言で国家をこうりゅうさせるほどのききめのある言葉が、そもそもあるものだろうか。」とたずねた。孔子が答えて申すよう、「言葉と申すものは、必ずこういう益があるときめこんでしまうことができるものではありませんが、世間で『君となるのはむずかしい、臣となるのもやさしくない。』と申します。その『君たること難し』ということがわかれば大したものですから、これなどは一言で国家を興隆させ得るに近い言葉ではござりますまいか。」「それでは一言で国家を滅亡させ得るほどの害のある言葉が、そもそもあるものだろうか。」「言葉と申すものは、必ずこういう害があるときめこんでしまうことができるものではありませんが、世間で『わしは君となるのを別に楽しいとも思わないけれども、ただ何を言ってもわしは反対する者がないのはかいじゃ。』と申します。いことを言って反対する者のないのが愉快だというのならけっこうですが、もし悪いことを言っても反対する者のないのが愉快だということになるをあぶない話ですから、これなどは一言で国家を滅亡させ得るに近い言葉ではござりますまいか。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 魯の定公がたずねられた。――
    「一言で国を興隆させるような言葉はないものかな」
    先師がこたえられた。――
    「いったい言葉というものは、仰せのようにこれぞという的確なききめのあるものではありません。しかし、世の諺に、君となるのも難しい、臣となるのもたやすくはない、ということがございます。もし、君となるのがむずかしいという言葉が支配者に十分のみこめましたら、その言葉こそ一言で国を興隆させる言葉にもなろうかと存じます」
    定公がまたたずねられた。――
    「一言で国を亡ぼすというような言葉はないものかな」
    先師がこたえられた。――
    「いったい言葉というものは、仰せのように、これぞという的確なききめのあるものではありません。しかし、世の諺に、君となってもなんの楽しみもないが、ただ何をいってもさからう者がないのが楽しみだ、ということがございます。もし善いことをいってさからう者がないというのなら、まことに結構でございますが、万一にも、悪いことをいってもさからう者がないという意味でございますと、それこそ一言で国を亡ぼす言葉にもなろうかと存じます」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 定公 … ?~前495年。魯の君主。在位前509~495年。名は宋。襄公の子、昭公の弟。孔子を大臣に抜擢した。ウィキペディア【定公 (魯)】参照。
  • 一言 … ただひと言。
  • 興邦 … 国家を興隆させる。
  • 幾 … 古注では「近い」と解釈している。新注では「期待する」と解釈している。
補説
  • 『注疏』に「此の章は君たるの道を言うなり」(此章言爲君之道也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 定公問、一言而可以興邦、有諸 … 『集解』に引く王粛の注に「其の大要の一言を以て、正に国を興す能わざるなり」(以其大要一言、不能正興國也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「定公は、魯の君なり。諸は、之なり。孔子に問う、一言を出だして能く邦を興す者有りやいなや、と」(定公、魯君也。諸、之也。問孔子、有出一言而能興邦者不乎)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「魯君定公、孔子に問う、君たるの道、一言の善有りて以て其の国を興す可きこと、之れ有りや、と」(魯君定公問於孔子、爲君之道、有一言善而可以興其國、有之乎)とある。
  • 孔子対曰、言不可以若是其幾也 … 『義疏』に「くの若しとは、猶お此くの如しのごときなり。答えて云う、豈に言を出だして邦国を興し得うこと有らんや。言うこころは頓に此くの如きを得可からざるなり。幾は、近なり。然れども一言にして即ち興さしむ可からずと雖も、而れども邦を興すに近かる可き者有り。故に云う、其の幾きや、と」(若是者、猶如此也。答云、豈有出言而興得邦國乎。言不可得頓如此也。幾、近也。然一言雖不可即使興、而有可近於興邦者。故云、其幾也)とある。また『注疏』に「幾は、近なり。孔子其の大要を以てするに、一言にして正に国を興すこと能わず、と。故に云う、言は以て是の若くなる可からず、と。一言にして以て国を興す可きに近き者有り。故に云う、其れ幾きなり、と」(幾、近也。孔子以其大要、一言不能正興國。故云言不可以若是。有近一言可以興國者。故云其幾也)とある。また『集注』に「幾は、期なり。詩に曰く、幾するが如く式するが如し、と。言うこころは一言の間、未だ以て此くの如くにして必ず其の効を期す可からず」(幾、期也。詩曰、如幾如式。言一言之間、未可以如此而必期其效)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 其幾也 … 『義疏』では「其幾」に作る。
  • 人之言曰、為君難、為臣不易 … 『義疏』に「此れ已下は是れ一言にして邦を興すに近きの言なり。設し人有りて云う、上に在るを君と為し、既に人主たらば、軽〻しくは脱す可からず。罪は元首に帰す。故に難しと為すなり。又た云う、人臣たる者は、国家の事応に為さざること無きを知るべきなり。必ず身を致し命をくす。故に易からずと云うなり」(此已下是一言近興邦之言。設有人云、在上爲君、既爲人主、不可輕脱。罪歸元首。故爲難也。又云、爲人臣者、國家之事應知無不爲也。必致身竭命。故云不易也)とある。また『集注』に「当時此の言有るなり」(當時有此言也)とある。
  • 如知為君之難也、不幾乎一言而興邦乎 … 『集解』に引く孔安国の注に「事一言を以てして成す可からざるなり。此くの如きを知れば、則ち近かる可きなり」(事不可以一言而成也。知如此、則可近也)とある。また『義疏』に「如は、若なり。若し君たること難きを知りて、敢えておこらずと云わば、此の言は則ち豈に一言にして邦を興すに近からずや。臣たること易からずと云わざる者、従りて知る可きなり。且つ君道は尊貴、人の貪る所と為る。故に特だ君を挙ぐるなり」(如、若也。若知爲君難、而云不敢作、此言則豈不近一言興邦乎。不云爲臣不易者、從可知也。且君道尊貴、爲人所貪。故特舉君也)とある。また『注疏』に「此れ孔子其の国を興すに近きの一言を称するなり。事は以て一言にして成す可からず。如し人君此の君たるの難きを知れば、此れ則ち近かる可きなり」(此孔子稱其近興國之一言也。事不可以一言而成。如人君知此爲君難、此則可近也)とある。また『集注』に「此の言に因りて君たるの難きを知れば、則ち必ず戦戦兢兢として、深きに臨んで薄きを履みて、一事の敢えてゆるがせにすること無し。然らば則ち此の言や、豈に以て必ず邦を興すを期す可からざらんや。定公の為に言う。故に臣に及ばざるなり」(因此言而知爲君之難、則必戰戰兢兢、臨深履薄、而無一事之敢忽。然則此言也、豈不可以必期於興邦乎。爲定公言。故不及臣也)とある。
  • 君之難 … 『義疏』では「君難」に作る。
  • 曰、一言而喪邦、有諸 … 『義疏』に「定公又た問う、一言にして邦国をして即ち喪ぼさしむる者有りやいなや、と」(定公又問、有一言而令邦國即喪者不乎)とある。また『注疏』に「定公又た問いて曰く、人君一言の不善にして亡国を致すこと、之れ有りや、と」(定公又問曰、人君一言不善而致亡國、有之乎)とある。
  • 一言而喪邦 … 『義疏』では「一言而可以喪邦」に作る。
  • 孔子対曰、言不可以若是其幾也 … 『義疏』に「亦た前の答えの如く、亦た言の之に近き者有るなり」(亦如前答、亦有言近之者也)とある。また『注疏』に「亦た言うこころは一言にして以て国を亡ぼす可きに近きこと有るなり」(亦言有近一言可以亡國也)とある。
  • 人之言曰、予無楽乎為君。唯其言而莫予違也 … 『集解』に引く孔安国の注に「言うこころは君たるを楽しむこと無し。楽しむ所の者は、唯だ其の言にして違えられざるを楽しむなり」(言無樂於爲君。所樂者、唯樂其言而不見違也)とある。また『義疏』に「此れ邦を喪ぼすに近きを挙げての言なり。設し人有りて言う、我本と人の君上たるを楽しむこと無し。君たるを楽しむ所以の者は、正に我言語有りて人我に異なるを言う。敢えて我を違拒する者無し。此が為の故に君たるを楽しむ所以のみ」(此舉近喪邦之言也。設有人言、我本無樂爲人之君上。所以樂爲君者、正言我有言語而人異我。無敢違拒我者。爲此故所以樂爲君耳)とある。また『注疏』に「此れ国を亡ぼすに近きの一言を挙ぐるなり。言うこころは我君たるを楽しむこと無く、楽しむ所の者は、唯だ其の言にして違えられざるを楽しむのみなり」(此舉近亡國之一言也。言我無樂於爲君、所樂者、唯樂其言而不見違也)とある。また『集注』に「言うこころは他に楽しむ所無し。惟だ此を楽しむのみ」(言他無所樂。惟樂此耳)とある。
  • 唯其言而莫予違也 … 『義疏』では「唯其言而樂莫予違也」に作る。
  • 如其善而莫之違也、不亦善乎 …『義疏』に「将に其の悪を説かんとす。故に先ず此の句を発するなり。此れ若し君と為りて言を出だして必ず善にして、民違わずんば、此くの如き者乃ち善と為す可きのみ。故に云う、亦た善からずや、と」(將説其惡。故先發此句也。此若爲君而出言必善、而民不違、如此者乃可爲善耳。故云、不亦善乎)とある。
  • 如不善而莫之違也、不幾乎一言而喪邦乎 … 『集解』に引く孔安国の注に「人君の言う所善にして、之に違う者無ければ、則ち善なり。其の言う所不善にして、敢えて之に違う者無ければ、則ち一言にして国を喪ぼすに近きなり」(人君所言善、無違之者、則善也。其所言不善、而無敢違之者、則近一言而喪國也)とある。また『義疏』に「又た答う、若し君と為りて言善ならず、民をして若し違わざらしめば、則ち此の言一言にして邦を喪ぼすに近からずや、と」(又答、若爲君而言不善、使民若不違、則此言不近一言而喪邦乎)とある。また『注疏』に「此れ孔子又た其の理を評す。言うこころは人君の言う所善ならば、之に違う者無きは、則ち善なり。言う所不善にして、敢えて之に違う者無きは、則ち一言にして国を亡ぼすに近きなり」(此孔子又評其理。言人君所言善、無違之者、則善也。所言不善、而無敢違之者、則近一言而亡國也)とある。また『集注』に引く范祖禹の注に「如し不善にして之に違うこと莫ければ、則ち忠言耳に至らず。君、日〻に驕りて臣日〻へつらう。未だ邦を喪ぼさざる者有らざるなり」(如不善而莫之違、則忠言不至於耳。君日驕而臣日諂。未有不喪邦者也)とある。
  • 『集注』に引く謝良佐の注に「君たることの難きを知れば、則ち必ず敬謹して以て之を持す。惟だ其の言にして予に違うこと莫ければ、則ち讒諂ざんてんめんの人至る。邦未だ必ずしもにわかに興喪せざるなり。而れども興喪の源、此に分かる。然れども此は微を識るの君子に非ざれば、何ぞ以て之を知るに足らん」(知爲君之難、則必敬謹以持之。惟其言而莫予違、則讒諂面諛之人至矣。邦未必遽興喪也。而興喪之源、分於此。然此非識微之君子、何足以知之)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「愚おもえらく、君たること難しの戒めは、専ら守成の君に在りて、切なりと為す。若し創業の君は、本とかんより起こりて、つぶさに艱難をめたれば、深戒をもちいず。ただ守成の君は、素より祖宗の業をり、安富の中に生長し、優游ゆうゆう暇予かよ、自ら戒むることを知らず。故に此の言専ら守成の君に戒むるなり。凡そ人主の憂いは、最も善言を聞くことを得ざるに在り」(愚謂、爲君難之戒、專在守成之君、爲切矣。若創業之君、本起自寒微、備嘗艱難、不須深戒。第守成之君、素藉祖宗之業、生長安富之中、優游暇豫、不知自戒。故此言專戒守成之君也。凡人主之憂、最在於不得聞善言)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「言以てかくの若く其れす可からず。朱子詩を引きて期と訓ず。是なり。何註近と訓ず。通ぜず。孔子のの言を観れば、則ち知る後人が簡を喜びを喜び要を喜び径直を喜ぶは、皆聖人の意に非ざることを。孔子政をり仁をるの問いに答うること、人人にして殊なり。後人は則ち或いは性善、或いは性悪、或いは格物、或いは良知を致す、或いは中庸、皆一説を執りて以て聖人の道を尽くさんと欲す。難いかな。蓋し亦た一貫の義を知らざるのみ。夫れ一は言を以て尽くす可くんば、則ち孔子豈に之を一と謂わんや。思わざるの甚だしきなり」(言不可以若是其幾也。朱子引詩訓期。是矣。何註訓近。不通矣。觀孔子是言、則知後人喜簡喜易喜要喜徑直、皆非聖人之意也。孔子答爲政爲仁之問、人人而殊焉。後人則或性善、或性惡、或格物、或致良知、或中庸、皆執一説以欲盡乎聖人之道。難矣哉。蓋亦不知一貫之義耳。夫一可以言盡、則孔子豈謂之一乎。不思之甚)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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