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子路第十三 12 子曰如有王者章

314(13-12)
子曰、如有王者、必世而後仁。
いわく、王者おうじゃるも、かならにしてのちじんならん。
現代語訳
  • 先生 ――「りっぱな支配者でも、一代(三十年)かかるのが、感化だ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「たとい王者といわれるほどの聖主が出ても、天下を教化して一人のぜんす者なき仁徳じんとくあまねき国とするには、どうしても三十年はかかる。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「たとえ真の王者が現われても、少なくも一世代を経なければ、民をあまねく仁に化することはできない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 王者 … 天命を受けて天下を治める仁徳を備えた君主。
  • 世 … 三十年のこと。古くは「世」は「卅」と同字であった。また、異説として伊藤仁斎は「世とは、其の世を指して言う」(世者、指其世而言)と言っており、「君主の治世」と解釈している。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 仁 … 教化が一般に行き渡ること。
補説
  • 『注疏』に「此の章の言うこころは如し天命を受けて、天下に王たる者有らば、必ずや三十年にして仁政乃ち成るなり」(此章言如有受天命、而王天下者、必三十年仁政乃成也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 如有王者、必世而後仁 … 『集解』に引く孔安国の注に「三十年を世と曰う。し命を受くる王者有れば、必ず三十年、仁政すなわち成るなり」(三十年曰世。如有受命王者、必三十年、仁政乃成也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「王者は、聖人天子と為るを謂うなり。世は、三十年なり。聖人の化速やかなり。故に三十年にして政乃ち大いに成る。必ず須らく世にすべき者、旧の悪化を被るの民已に尽く。新生の民三十年を得れば、則ち稟くる所の聖化成し易し。故に顔延之云う、革命の王、必ず漸くに物を化すに善道を以てするも、乱に染まるの民、未だ道に従いて化を為すこと能わず。威刑の用無きを得ざれば、則ち仁施未だ全からず。物を改むるの道は、必ず須らく世を易うべし。正に徳教を化し、暴乱を行わざらしめば、則ち刑罰措く可く、仁功成す可し、と。欒肇曰く、乱に習うの俗、法刑を畏るると雖も而れどもほか必ず猶お未だ化すること能わざるなり。必ず世を待ちて人を変じ生を改めて、治道に習いて、然る後に仁化成る。刑、成・康にき、化、文・景にさかんなり、乱民の世わり、殷・秦の俗遠ざかるに由ってなり、と」(王者、謂聖人爲天子也。世、三十年也。聖人化速。故三十年而政乃大成。必須世者、舊被惡化之民已盡。新生之民得三十年、則所稟聖化易成。故顏延之云、革命之王必漸化物以善道、染亂之民、未能從道爲化。不得無威刑之用、則仁施未全。改物之道、必須易世。使正化德教、不行暴亂、則刑罰可措、仁功可成。欒肇曰、習亂俗、雖畏法刑而外必猶未能化也。必待世變人改生、習治道、然後仁化成。刑措成康、化隆文景、由亂民之世易、殷秦之俗遠也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「三十年を世と曰う」(三十年曰世)とある。また『集注』に「王者は、聖人の命を受けて興るを謂うなり。三十年を一世と為す。仁は、教化のあまねきを謂うなり」(王者、謂聖人受命而興也。三十年爲一世。仁、謂教化浹也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に引く程顥の注に「周の文武より成王に至り、而る後に礼楽興る。即ち其の効なり」(周自文武至於成王、而後禮樂興。即其效也)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「或ひと問う、三年と必世と、遅速同じからざるは、何ぞや、と。程子曰く、三年にして成ること有らんとは、法度紀綱成ること有りて化行わるるを謂うなり。民に漸するに仁を以てし、民を摩するに義を以てし、之をして肌膚にあまねく、骨髄にしずめしめて、礼楽興る可し。所謂仁なり。此れ積むこと久しきに非ざれば、何を以てか能く致さん、と」(或問、三年必世、遲速不同、何也。程子曰、三年有成、謂法度紀綱有成而化行也。漸民以仁、摩民以義、使之浹於肌膚、淪於骨髓、而禮樂可興。所謂仁也。此非積久、何以能致)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ上章の意を承けて言う。……蓋し王道は仁を以て本と為す。一夫其の所を得ざるは、仁に非ざるなり。一物其の生を遂げざるは、仁に非ざるなり」(此承上章之意而言。……蓋王道以仁爲本。一夫不得其所、非仁也。一物不遂其生、非仁也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「孔安国曰く、三十年を世と曰う、と。是れ古来相伝の説なり。仁斎先生之を疑いて曰く、世とは其の世を指して言う、と。果たして其の説のならんか、後の字はえんなり。奇を好むと謂う可きのみ。仁とは礼楽の化のあまねきを謂うなり。程子曰く、周は文・武より成王に至りてのち礼楽興る、と。非なり。文王の文たる所以は、礼楽を語るなり。豈に成王を待たんや。然れども古え亦た周公礼楽を制作すと曰う者は、其の備わるを語るなり。故に古え文・武・周公を皆聖人と称する者は、作者なるを以てなり。善人と王者との分は、あとむと践まざるとに在るのみ」(孔安國曰、三十年曰世。是古來相傳之説也。仁齋先生疑之而曰、世者指其世而言。果其説之是乎、後字衍矣。可謂好奇已。仁者謂禮樂之化洽也。程子曰、周自文武至於成王而後禮樂興。非矣。文王之所以爲文、語禮樂也。豈待成王也。然古亦曰周公制作禮樂者、語其備也。故古稱文武周公皆聖人者、以作者也。善人與王者之分、在踐迹與不踐已)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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