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先進第十一 18 子曰回也其庶乎章

271(11-18)
子曰、回也其庶乎。屢空。賜不受命而貨殖焉。億則屢中。
いわく、かいちかからんか。屢〻しばしばむなし。めいけずしてしょくす。はかればすなわ屢〻しばしばあたる。
現代語訳
  • 先生 ――「顔回は、まず上等だな。よく貧乏をした。端木賜(子貢)は、運をだしぬいて、金もうけをやった。ヤマをかけるとよくあたる。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様が顔淵がんえんこうとをかくしておっしゃるよう、「かいは理想に近かろうか。米櫃こめびつがしばしばからになっても、天命に安んじ道を楽しんでいる。は天命に甘んぜず自ら活動して財産を作る。しかし考えが道理にかなうから、不義の富にならぬ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「回の境地はまず理想に近いだろう。財布が空になることはしばしばだが、いつも天命に安んじ、道を楽しんでいる。はまだ天命に安んじないで、財を作るのにかなり骨を折っているようだ。しかし、判断は正しいし、考えさえすれば、道にはずれるようなことはめったにないだろう」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 回 … 前521~前490。孔子の第一の弟子。姓は顔、名は回。あざなえんであるので顔淵とも呼ばれた。の人。徳行第一といわれた。孔子より三十歳年少。早世し孔子を大いに嘆かせた。孔門十哲のひとり。ウィキペディア【顔回】参照。
  • 其庶乎 … まあ理想に近いと言えるかな。「庶」は「庶幾ちかし」に同じ。
  • 屢空 … しょっちゅう貧乏で無一文になる。
  • 賜 … 子貢の名。前520~前446。姓は端木たんぼく。子貢はあざな。衛の人。孔子より三十一歳年少の門人。孔門十哲のひとり。弁舌・外交に優れていた。また、商才もあり、莫大な財産を残した。ウィキペディア【子貢】参照。
  • 不受命 … 天命を受けない。
  • 貨殖 … 財産をふやすこと。金もうけすること。
  • 億 … 推測する。思いはかる。
  • 中 … 的中する。
補説
  • 『注疏』では前章の「柴也愚、參也魯、師也辟、由也喭」から本章とし、「此の章は孔子六弟子の徳行の中を失うを歴評するなり」(此章孔子歴評六弟子之德行中失也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 回(顔回) … 『史記』仲尼弟子列伝に「顔回は、魯の人なり。あざなは子淵。孔子よりもわかきこと三十歳」(顏回者、魯人也。字子淵。少孔子三十歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「顔回は魯人、字は子淵。孔子より少きこと三十歳。年二十九にして髪白く、三十一にして早く死す。孔子曰く、吾に回有りてより、門人日〻益〻親しむ、と。回、徳行を以て名を著す。孔子其の仁なるを称う」(顏回魯人、字子淵。少孔子三十歳。年二十九而髮白、三十一早死。孔子曰、自吾有回、門人日益親。回以德行著名。孔子稱其仁焉)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。
  • 回也其庶乎。屢空 … 『集解』の何晏の注に「言うこころは回は聖道に庶幾ちかく、数〻くうなりと雖も、而れども楽しみは其の中に在り。賜は教命を受けず、唯だ財貨を是れ殖やし、是非を憶度するのみ。蓋し回をむるは、賜を励ます所以なり。一に曰く、屢は、猶お毎のごときなり。空は、猶お虚中のごときなり。聖人の善を以て、数子の庶幾ちかきに教え、猶お道を知るに至らざるは、各〻内に此の害有ればなり。其の庶幾ちかきに於いて、つねに能く虚中なるは、唯だ回のみ。道をしたうこと深遠なればなり。虚心たらざれば、道を知る能わず。子貢数子の病無く、然れども亦た道を知らざるは、理を窮めずと雖も而れども幸にして中たり、天命に非ずと雖も而れども偶〻たまたま富めばなり。亦た虚心ならざる所以なり、と」(言回庶幾聖道、雖數空匱、而樂在其中矣。賜不受敎命、唯財貨是殖、憶度是非。蓋美回、所以勵賜也。一曰、屢、猶每也。空、猶虚中也。以聖人之善、敎數子之庶幾、猶不至於知道者、各内有此害也。其於庶幾、毎能虚中者、唯回。懷道深遠。不虚心、不能知道。子貢無數子病、然亦不知道者、雖不窮理而幸中、雖非天命而偶冨。亦所以不虚心也)とある。空匱は、物などが何もないこと。貧乏。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「記者は上に四子の病重きを先に列す。此れより以下、孔子を引いて曰く、更に顔子の精能を後に挙ぐ。此の義を解する者、凡そ二通り有り。一に云う、庶は、庶幾なり。屢は、毎なり。空は、窮匱なり。顔子は幾きを庶慕す。故に財利を遺忽す。家つねに空貧にして簞瓢・陋巷する所以なり。故に王弼云う、庶幾く聖を慕う。財業を忽忘して数〻空匱するなり、と。又た一通りに云う、空は、猶お虚のごときなり。言うこころは聖人寂を体して、心恒に虚しうして累無し。故に幾く動けば即ちあらわる。而るに賢人無を体する能わず。故に幾きを見ず。但だ庶幾く聖を慕う。而して心或いは時として虚し。故に曰く、屢〻空し、と。其の虚は一に非ず。故に屢〻名生ず、と。故に顔特進云う、空は回が体する所に非ず、故にこいねがいて数〻、と。故に顧歓云う、夫れ無欲に欲無きは、聖人の常なり。無欲に欲有るは、聖人の分なり。二欲同じく無し、故に全く空し、以て聖とづく、一たびは有なり一たびは無なり、故につねに虚なり、以て賢と称す。賢人有より之を観れば、則ち有欲に欲無し、無より之を観れば、則ち無欲に欲有り。虚にして未だ尽くさず、屢〻に非ざるは如何、と。大史叔明之をべて云う、顔子は上賢にして、体具わりて微にして則ち精なり、故に進退の事無し、義上に就いて以て屢〻の名を立す。按ずるに其れ仁義を遺れ、礼楽を忘れ、支体をやぶり、聡明をしりぞけて、坐忘して大いに通ず、此れ有を忘るるの義なり。有を忘るること頓に尽く、空に非ずして如何。若し聖人を以て之をこころむるときは、聖人は忘を忘ず、大賢は忘を忘ずること能わず。忘を忘ずること能わざれば、心は復た未だ尽くさずと為す。一たびは未だし一たびは空なり、故に屢〻の名生ずるなり、と」(記者上列四子病重於先。自此以下引孔子曰、更舉顏子精能於後。解此義者凡有二通。一云、庶、庶幾也。屢、毎也。空、窮匱也。顏子庶慕於幾。故遺忽財利。所以家毎空貧而簞瓢陋巷也。故王弼云、庶幾慕聖。忽忘財業而數空匱也。又一通云、空、猶虚也。言聖人體寂、而心恒虚無累。故幾動即見。而賢人不能體無。故不見幾。但庶幾慕聖。而心或時而虚。故曰、屢空。其虚非一。故屢名生焉。故顏特進云、空非回所體、故庶而數得。故顧歡云、夫無欲於無欲者、聖人之常也。有欲於無欲者、聖人之分也。二欲同無、故全空、以目聖、一有一無、故毎虚、以稱賢。賢人自有觀之、則無欲於有欲、自無觀之、則有欲於無欲。虚而未盡、非屢如何。大史叔明申之云、顏子上賢、體具而微則精也、故無進退之事、就義上以立屢名。按其遺仁義、忘禮樂、墮支體、黜聰明、坐忘大通、此忘有之義也。忘有頓盡、非空如何。若以聖人驗之、聖人忘忘、大賢不能忘忘。不能忘忘、心復爲未盡。一未一空、故屢名生也焉)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「庶は、近なり。道に近きを言うなり。屢〻空しは、数〻空匱に至るなり。ひんを以て心を動かして富を求めず。故に屢〻空匱に至るなり。其の道に近く、又た能く貧に安んずるを言うなり」(庶、近也。言近道也。屢空、數至空匱也。不以貧窶動心而求富。故屢至於空匱也。言其近道、又能安貧也)とある。貧窶は、貧乏でやつれること。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また宮崎市定は「回や其れ屢〻空しきにちかし」と読み、「回は年中貧乏暮しというところ」と訳している。詳しくは『論語の新研究』274頁参照。
  • 賜(子貢) … 『史記』仲尼弟子列伝に「端木賜は、衛人えいひとあざなは子貢、孔子よりわかきこと三十一歳。子貢、利口巧辞なり。孔子常に其の弁をしりぞく」(端木賜、衞人、字子貢、少孔子三十一歳。子貢利口巧辭。孔子常黜其辯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「端木賜は、あざなは子貢、衛人。口才こうさい有りて名を著す」(端木賜、字子貢、衞人。有口才著名)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
  • 賜不受命而貨殖焉 … 『義疏』に「此れ孔子又た子貢の累を評するなり。亦た二通り有り。一に云う、命を受けずとは、子貢の性、動くに天を信じ命に任すこと能わざるを謂う。是れ命を受けざるなり。而して貨殖すとは、財物を貨と曰い、種芸を殖と曰う。子貢の家富む。清素なる能わず。悪と為す所以なり、と。又た一通りに云う、殷仲堪云う、受けずは、君の命といつわるなり、と。江熙云う、賜は濁世の禄を栄とせず。亦た道に幾庶き者なり。然りと雖も貨殖の業有り。てん足らず。敢えて回を望まざる所以のみ、と。亦た曰く、命を受けずとは、子貢孔子の教命を受けざるを謂う。故に云う、命を受けざるなり、と」(此孔子又評子貢累也。亦有二通。一云、不受命者、謂子貢性動不能信天任命。是不受命也。而貨殖者、財物曰貨、種藝曰殖。子貢家富。不能清素。所以爲惡也。又一通云、殷仲堪云、不受、驕君命。江熙云、賜不榮濁世之禄。亦幾庶道者也。雖然有貨殖之業。恬愉不足。所以不敢望回耳。亦曰、不受命者、謂子貢不受孔子教命。故云、不受命也)とある。また『集注』に「命は、天命を謂う。貨殖は、貨財生殖するなり」(命、謂天命。貨殖、貨財生殖也)とある。
  • 億則屢中 … 『義疏』に「此も亦た二通り有り。一に云う、憶は、心に事宜を憶度するを謂うなり、と。言うこころは子貢の性、好んで是非を憶度し、而して屢〻幸にして中たる。亦た是れ失なり。故に君子は憶せず信ぜざるなり、と。又た一通りに云う、心を虚しうすること顔の如からずと雖も、而れども事理を憶度すれば、必ず亦た能く毎に中たるなり。故に左伝に、邾隠公、魯に朝す。玉を執ること高く、其の容仰ぐ。魯の定公玉を受くること卑く、其の容俯す。子貢曰く、礼を以て之を観れば、二君皆死亡する有り。君主たれば、其れ先ず亡からん。是の歳定公しゅっす。仲尼曰く、賜は不幸にして言中たる。是れ賜をして多言ならしむる者なり、と。此れはかれば中たるの類なり。王弼云う、命は、爵命なり。憶は、憶度なり。子貢爵命を受けずと雖も、而れども能く富む。理を窮めずと雖も、而れども幸に中たる。蓋し顔の庶幾しにおよばざらん。四子の病なる所を軽んず。故に子曰くと称して、以て之を異にするなり、と」(此亦有二通。一云、憶、謂心憶度事宜也。言子貢性好憶度是非、而屢幸中。亦是失也。故君子不憶不信也。又一通云、雖不虚心如顏、而憶度事理、必亦能毎中也。故左傳、邾隱公朝魯。執玉高其容仰。魯定公受玉卑、其容俯。子貢曰、以禮觀之、二君皆有死亡。君爲主、其先亡乎。是歳定公卒。仲尼曰、賜不幸而言中。是使賜多言者也。此憶中之類也。王弼云、命、爵命也。憶、憶度也。子貢雖不受爵命、而能富。雖不窮理、而幸中。蓋不逮顏之庶幾。輕四子所病。故稱子曰、以異之也)とある。また『注疏』に「此れ蓋し孔子の顔回を美むるは、賜を励ます所以なり。其の説に二有り。一に曰く、屢は、数〻なり。空は、匱なり。億は、度なり。言うこころは回は聖道に庶幾ちかく、数〻空匱・貧窶なりと雖も、而も楽は其の中に在りとは、是れ回を美むるなり。賜は教命を受けず、唯だ貨財を是れやし、若し是非を億度すれば則ち数〻中たる。言うこころは此れ賜を勉励する所以なり、と。一に曰く、屢は、猶お毎のごときなり。空は、猶お虚中のごときなり。言うこころは孔子聖人の善道を以て、数子の庶幾きに教うるに、猶お道を知るに至らざるは、各〻内に此の害有るが故なり。其の庶幾きに於いて、つねに能く虚中なる者は、唯だ顔回有るのみ。道を懐うこと深遠、若し虚心ならずんば、道を知ること能わざるなり。子貢は数子の病無しと雖も、然れども亦た道を知らざるは、理を窮めずと雖も而も幸に中たり、天命に非ずと雖も而も偶〻たまたま富めばなり。此の二累有るは、亦た虚心ならざる所以なり、と」(此蓋孔子美顏回、所以勵賜也。其説有二。一曰、屢、數也。空、匱也。億、度也。言回庶幾聖道、雖數空匱貧窶、而樂在其中、是美回也。賜不受教命、唯貨財是殖、若億度是非則數中。言此所以勉勵賜也。一曰、屢、猶毎也。空、猶虚中也。言孔子以聖人之善道、教數子之庶幾、猶不至於知道者、各内有此害故也。其於庶幾、毎能虚中者、唯有顏回。懷道深遠、若不虚心、不能知道也。子貢雖無數子之病、然亦不知道者、雖不窮理而幸中、雖非天命而偶富。有此二累、亦所以不虚心也)とある。また『集注』に「億は、おもはかるなり。言うこころは子貢は顔子の貧に安んじ道を楽しむに如かず。然れども其の才識の明、亦た能く事を料りて多く中たるなり」(億、意度也。言子貢不如顏子之安貧樂道。然其才識之明、亦能料事而多中也)とある。また『集注』に引く程頤の注に「子貢の貨殖するは、後人の財を豊かにするが若きに非ず。但だ此の心未だ忘れざるのみ。然れどもこれも亦た子貢わかかりし時の事にして、性と天道とを聞くに至りては、則ち此を為さず」(子貢之貨殖、非若後人之豐財。但此心未忘耳。然此亦子貢少時事、至聞性與天道、則不爲此矣)とある。
  • 億 … 『義疏』では「憶」に作る。
  • 『集注』に引く范祖禹の注に「屢〻空しとは、たん・瓢飲屢〻絶つも、其の楽しみを改めざるなり。天下の物、豈に其の中を動かす可き者有らんや。貧富は天に在り。而して子貢貨殖を以て心と為すは、則ち是れ天命を安受すること能わず。其の言いて多く中たるは、はかるのみ。理を窮め天を楽しむ者に非ざるなり。夫子嘗て曰く、賜は不幸にして言えば中たる。是れ賜をして多言ならしむるなり、と。聖人の言を貴ばざるや是の如し」(屢空者、簞食瓢飲屢絶而不改其樂也。天下之物、豈有可動其中者哉。貧富在天。而子貢以貨殖爲心、則是不能安受天命矣。其言而多中者、億而已。非窮理樂天者也。夫子嘗曰、賜不幸言而中。是使賜多言也。聖人之不貴言也如是)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「人の貧富に於けるは、義有るのみ。苟くも義に合えば、則ち以て富む可く、以てまずしかる可し。然れども亦た命有り、貧富の表に超ゆる者に非ざれば、則ち泰然として自ら安んずること能わず。夫れ之を致すこと莫くして、至る者は命なり。苟くも致す所有りて、至る者は、義と雖も而も命に非ざるなり。子貢の貨殖の若きは、まことに世の財を豊かにする者の比に非ず。然れども致す所有りて至ることをまぬかれず。故に之を命を受けずと謂う可くして、義無しと謂う可からざるなり。是れ子貢の顔子に及ばざる所以なり」(人之於貧富、有義而已矣。苟合於義、則可以富、可以貧。然亦有命、非超于貧富表者、則不能泰然自安焉。夫莫之致、而至者命也。苟有所致、而至者、雖義而非命也。若子貢之貨殖、固非世之豐財者比。然不免有所致而至。故可謂之不受命、而不可謂無義也。是子貢之所以不及顏子也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「回や其れねがえるか、顔氏の其れほとん庶幾ちかからんかは、其の必ず命を受けて興るを言うなり。左伝諸書、以て徴す可きのみ。孔子告ぐるに四代の礼楽を以てす、亦た以て徴す可きのみ。顔子不幸短命にして死す。孔子の言験あらず。故に魏晋間の王弼・何晏其の訓をえて、聖道をしょすと謂う。古言を失す、非なり。……顔子は其の才を小用せんことを欲せず。……子貢は則ち其の才を治生に用う。命を受けずと雖も乏絶に至らず。是れ其の殊なる所以なり」(回也其庶乎、顏氏之子其殆庶幾乎、言其必受命而興也。左傳諸書、可以徴已。孔子告以四代禮樂、亦可以徴已。顏子不幸短命而死。孔子之言不験。故魏晉間王弼何晏更其訓、而謂庶幾聖道。失於古言、非矣。……顏子不欲小用其才。……子貢則用其才於治生。雖不受命而不至乏絶。是其所以殊也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十