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子罕第九 30 唐棣之華章

235(09-30)
唐棣之華、偏其反而。豈不爾思。室是遠而。子曰、未之思也。夫何遠之有。
唐棣とうていはなへんとしてはんせり。なんじおもわざらんや。しつとおければなり。いわく、いまこれおもわざるなり。なんとおきことからん。
現代語訳
  • 『ニワウメの花、ヒラリやハラリ。思うおかたの、お里は遠い。』先生 ――「思っていないんだな。なにが遠いものか。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 「いくりの花がひらひらまねく、思わぬじゃないが、住居が遠い。」という民謡がある。孔子様がおっしゃるよう、「それはまだ思わぬのじゃ。思うならば、何の遠いことがあろうか。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 民謡にこういうのがある。
     ゆすらうめの木
     花咲きゃ招く、
     ひらりひらりと
     色よく招く。
     招きゃこの胸
     こがれるばかり、
     道が遠くて
     行かりゃせぬ。
    先師はこの民謡をきいていわれた。――
    「まだ思いようが足りないね。なあに、遠いことがあるものか」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 唐棣之華、偏其反而。豈不爾思。室是遠而 … この四句の歌謡は『詩経』に採取されていない。いっ(抜け落ちて現存の『詩経』に採録されていないもの)。
  • 唐棣 … 庭桜。庭梅。
  • 偏其反而 … 「偏」も「反」も翻ること。「而」は助字。ひらひらと揺れている情景を指す。
  • 豈不爾思 … どうしてあなたを恋しいと思わないことがあろうか。反語形。
  • 室是遠而 … あんまり家が遠すぎて会いに行けないよ。
  • 室 … 家。住居。
  • 未之思也 … まだ恋する思いが足りないね。本気で恋しいと思っていないね。
  • 夫 … 宮崎市定は「未之思也夫」の後で句点を打ち、「未だ之を思わざるかな」と読んでいる(『論語の新研究』)。
  • 何遠之有 … 本気で恋しければ、どうして遠いことなどあろうか。反語形。
補説
  • 『注疏』では前章と合わせて一つの章とし、「此の章は権道を論ずるなり」(此章論權道也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 唐棣之華、偏其反而。豈不爾思。室是遠而 … 『集解』の何晏の注に「逸詩なり。唐棣は、にわうめなり。華反して後に合う。此の詩を賦すは、以て権道反して後に大順に至るを言うなり。其の人を思えども見得ざる者は、其の室遠ければなり。以て権を思いて見得ざる者は、其の道遠きを言うなり」(逸詩也。唐棣、栘也。華反而後合。賦此詩、以言權道反而後至於大順也。思其人而不得見者、其室遠也。以言思權而不得見者、其道遠也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「権を明らかにするの逸詩を引きて、以て権を証するなり。唐棣は、逸詩なり。華は、花なり。夫れ樹木の花、皆先ず合して而る後に開くも、唐棣の花は則ち先ず開きて而る後に合す。譬えば正道の如きは則ち之を行うに次有り。而して権の用たる先ず反す、後に大順に至る。故に云う、偏として其れ反せり、と。偏と言えるは、唯だ其の道のみ偏として常と反するを明らかにすればなり。言うこころは凡そ其の人を思えども、見ることを得ざることは、其の居室遼遠なるが故なり。人豈に権を思わざやんや。権道玄邈げんばくなること、其の室の奥遠なるが如き故なり」(引明權之逸詩、以證權也。唐棣、逸詩也。華、花也。夫樹木之花皆先合而後開、唐棣之花則先開而後合。譬如正道則行之有次。而權之爲用先反、後至於大順。故云、偏其反而也。言偏者、明唯其道偏與常反也。言凡思其人、而不得見者、其居室遼遠故也。人豈不思權。權道玄邈、如其室奥遠故也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「此れ逸詩なり。唐棣は、にわうめなり。其の華偏然として反して後に合するを言う。此の詩を賦するは、以て権道も亦た先ず常に反して而る後に大順に至るを言うなり。豈に爾を思わざらんやとは、誠に爾を思うを言うなり。誠に其の人を思えども見るを得ざるは、其の室の遠ければなり。以て権を思えども見るを得ざるは、其の道の遠きに喩うるなり」(此逸詩也。唐棣、栘也。言其華偏然反而後合。賦此詩者、以言權道亦先反常而後至於大順也。豈不爾思者、言誠思爾也。誠思其人而不得見者、其室遠也。以喩思權而不得見者、其道遠也)とある。また『集注』に「唐棣は、いくなり。偏は、晋書に翩に作る。然らば則ち反も亦た当に翻と同じくすべし。華の揺動するを言うなり。而は、語助なり。此れ逸詩なり。六義に於いて興に属す。上の両句は意義無し。但だ以て下の両句を起こすの辞のみ。其の所謂爾も、亦た其の何の指す所なるかを知らざるなり」(唐棣、郁李也。偏、晉書作翩。然則反亦當與翻同。言華之搖動也。而、助語也。此逸詩也。於六義屬興。上兩句無意義。但以起下兩句之辭耳。其所謂爾、亦不知其何所指也)とある。郁李は、庭梅。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子曰、未之思也。夫何遠之有 … 『集解』の何晏の注に「夫れ思うとは、当に其の反するを思うべし。反して是れ思わずは、遠しと為す所以なり。能く其の反するを思えば、何の遠きことか之れ有らん。言うこころは権は知る可し、唯だ思うを知らざるのみ。之を思うこと次序有り、れ之を知る可きのみ」(夫思者、當思其反。反是不思、所以爲遠也。能思其反、何遠之有。言權可知、唯不知思耳。思之有次序、斯可知耳之也)とある。また『義疏』に「又た孔子の言を引きて、権の思う可きを証するなり。権道思い易きを言う。但だ未だ之を思う者有らざるのみ。若し道に反して之を思わば、則ち必ず得可し。故に云う、夫れ何の遠きことか之れ有らんや、と」(又引孔子言、證權可思也。言權道易思。但未有思之者耳。若反道而思之、則必可得。故云、夫何遠之有也)とある。また『注疏』に「言うこころは夫れ思うは、当に其の常に反するを思うべし。若し是の反するを思わざるは、遠しと為す所以なり。能く其の反するを思えば、何ぞ遠きことか之れ有らん。言うこころは権は知る可きも、唯だ思うを知らざるのみ。し能く之を思うに次序有らば、斯れ知る可し。記する者詩の言と相乱るるを嫌う、故に子曰を重言するなり」(言夫思者、當思其反常。若不思是反、所以爲遠。能思其反、何遠之有。言權可知、唯不知思爾。儻能思之有次序、斯可知矣。記者嫌與詩言相亂、故重言子曰也)とある。また『集注』に「夫子其の言を借りて之を反す。蓋し前篇の仁遠からんやの意なり」(夫子借其言而反之。蓋前篇仁遠乎哉之意)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「聖人未だ嘗て易きを言いて以て人の志を驕らさず。亦た未だ嘗て難きを言いて以て人の進むを阻まず。但だ未だ之を思わざるなり、夫れ何の遠きことか之れ有らんと曰えるは、此の言極めて涵蓄がんちく有りて、意思深遠なり」(聖人未嘗言易以驕人之志。亦未嘗言難以阻人之進。但曰未之思也、夫何遠之有、此言極有涵蓄、意思深遠)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「愚按ずるに、角弓の詩、又た翩として其れ反せりの句有るは、則ち晋書に従うを是と為す。……蓋し道の外に人無く、人の外に道無し。……だ道を知らざる者は、自ら以て高と為し美と為し、天に升るが若く然りと為す。故に道を見ること甚だ遠くして、人益〻入り難し。憫なるかな」(愚按、角弓之詩、又有翩其反矣之句、則從晉書爲是。……蓋道外無人、人外無道。……第不知道者、自以爲高爲美、爲若升天然。故見道甚遠、而人益難入。憫哉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「唐棣の華、朱子は別に一章と為し、晋書に偏をへんに作るを引く、と為す。子曰く以下は、孔子の詩を解するの言なり。古えの詩を解するに、豈に其の辞を解せんや、詩の辞豈に解し難からんや。此の章を観れば、則ち古人が詩を学ぶのほうに於いて、思い半ばに過ぎん」(唐棣之華、朱子別爲一章、引晉書偏作翩、爲是。子曰以下、孔子解詩之言、古之解詩。豈解其辭哉、詩辭豈難解哉。觀此章、則於古人學詩之方、思過半矣)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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