子罕第九 21 子曰苗而不秀者有矣夫章
226(09-21)
子曰、苗而不秀者有矣夫。秀而不實者有矣夫。
子曰、苗而不秀者有矣夫。秀而不實者有矣夫。
子曰く、苗にして秀でざる者有るかな。秀でて実らざる者有るかな。
現代語訳
- 先生 ――「芽は出ても穂の出ぬのが、あるんでなあ。穂は出ても実らぬのが、あるんでなあ。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様がおっしゃるよう、「苗のうちはよさそうだったが、それきりで花の咲かぬ者もあることかな、花は咲いたが実のならぬ者もあることかな。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師がいわれた。――
「苗にはなっても、花が咲かないものがある。花は咲いても実を結ばないものがある」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 苗 … 学問を始めたことの喩え。
- 秀 … 花が咲くこと。成長すること。
- 矣夫 … 「(なる)かな」と読み、「~だなあ」「~であることよ」と訳す。感嘆の意を示す。「矣」「矣哉」「矣乎」も同じ。
- 実 … 成熟すること。学問が大成することの喩え。
補説
- 『注疏』に「此の章も亦た顔回の早卒するを以て、孔子之を痛惜し、之が為に譬えを作すなり」(此章亦以顏回早卒、孔子痛惜之、爲之作譬也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 苗而不秀者有矣夫。秀而不実者有矣夫 … 『集解』に引く孔安国の注に「言うこころは万物生ずれども育成せざる者有り。人も亦た然るを喩うるなり」(言萬物有生而不育成者。喩人亦然也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「又た顔淵を歎ずるを為して譬えを為すなり。万物草木、苗稼蔚茂するも、秀穂を経ずして、風霜に遭いて死する者有り。又た亦た能く秀穂すと雖も、沴焊の気に値いて、粒実有ること能わざる者有り。故に並びに是れ有るかなと云うなり。物既に然る有り。故に人も亦た此くの如し。顔淵は芳蘭を早年に摧かるる所以なり」(又爲歎顏淵爲譬也。萬物草木有苗稼蔚茂、不經秀穗、遭風霜而死者。又亦有雖能秀穗、而値沴焊氣、不能有粒實者。故並云有是矣夫也。物既有然。故人亦如此。所以顏淵摧芳蘭於早年也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「万物には生まるるも育成せざる者有るを言い、人も亦た然るに喩うるなり」(言萬物有生而不育成者、喩人亦然也)とある。また『集注』に「穀の始めて生ずるを苗と曰い、華を吐くを秀と曰い、穀を成すを実と曰う。蓋し学びて成るに至らざること、此くの如き者有り。是を以て君子自ら勉むることを貴ぶなり」(穀之始生曰苗、吐華曰秀、成穀曰實。蓋學而不至於成、有如此者。是以君子貴自勉也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 鄭玄の注に「秀でずとは項託を諭う。実らずとは顔淵を諭う」(不秀諭項託、不實顏淵)とある(金谷治編『唐抄本鄭氏注論語集成』267頁)。宮崎市定はこれを批判し、「論語の原文を素直に讀めば、どう考えてもこれは日本の諺にもあるように、十で神童、といわれた人が必ずしも大成しない、という意味にしか受取れない。そういう一般的な觀察であってこそ意味があるのであって、それを特定の人物に限っては全く價値がなくなってしまう」と言っている(『論語の新研究』54頁)。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ穀を以て学に譬う。猶お周詩の所謂比という者なり。……況んや未だ苗せずして以て既に秀ずと為し、未だ秀でずして以て既に実ると為す者は、学者の通患なり。戒めざる可けんや」(此以穀譬學。猶周詩所謂比者。……況乎未苗以爲既秀、未秀以爲既實者、學者之通患也。可不戒乎)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』には、この章の注なし。
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