子罕第九 4 子絶四章
209(09-04)
子絕四。毋意、毋必、毋固、毋我。
子絕四。毋意、毋必、毋固、毋我。
子、四を絶つ。意毋く、必毋く、固毋く、我毋し。
現代語訳
- 先生のしないこと四つ。かんぐらない、思いさだめない、こだわらない、わがまましない。(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様は、意と必と固と我との四つを絶ち物にされた。(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師に絶無といえるものが四つあった。それは、独善、執着、固陋、利己である。(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 四 … 以下の四つのこと。
- 絶 … 絶ち切る。すっかり無くする。
- 意 … 自分勝手な心。私意。当て推量。
- 毋 … 「なし」と読み、「~ない」と訳す。否定の意を示す。「無」に同じ。
- 必 … 無理押し。
- 固 … 固執。執着。頑な。
- 我 … 我執。我を張る。
補説
- 『注疏』に「此の章は孔子の四事を絶去すること、常人と異なるを論ずるなり」(此章論孔子絶去四事、與常人異也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 子絶四 … 『義疏』に「絶とは、無なり。孔子は聖人にして此の下の四事無きを明らかにす。故に云う、四を絶つ、と。無と云わずして絶つと云う者は、世人の之を言うに似たるに拠るなり。四事は世人未だ絶つ能わざれども、孔子は之を絶つ。故に絶つと云うなり」(絕者、無也。明孔子聖人無此下四事。故云、絕四也。不云無而云絕者、據世人似言之也。四事世人未能絕、而孔子絕之。故云絕也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「絶は、無の尽くる者」(絶、無之盡者)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 毋意 … 『集解』の何晏の注に「道を以て度と為す。故に意に任せざるなり」(以道爲度。故不任意也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「一なり。此れ聖人の心を謂うなり。凡そ人滞ること有り。故に動静委曲にして自ら其の意に任用す。聖人は無心にして、泛たること係がざる舟の若し。豁寂として道を同じうす。故に意無きなり」(一也。此謂聖人心也。凡人有滯。故動靜委曲自任用其意。聖人無心、泛若不係舟。豁寂同道。故無意也)とある。また『集注』に「毋は、史記に無と作る、是なり。意は、私意なり」(毋、史記作無、是也。意、私意也)とある。
- 毋必 … 『集解』の何晏の注に「之を用うれば則ち行い、之を捨つれば則ち蔵る。故に専ら必すること無きなり」(用之則行、捨之則藏。故無專必也)とある。また『義疏』に「二なり。此れ聖人の行化の時を謂うなり。物求むれば則ち趣応じ、抑うる所無くして必す。故に互郷進みて之に与するは是なり。抑うる所無くして必するは、意無きに由る。故に能く化を為して必すること無きなり」(二也。此謂聖人行化時也。物求則趣應、無所抑必。故互鄉進而與之是也。無所抑必、由無意。故能爲化無必也)とある。また『集注』に「必は、必を期するなり」(必、期必也)とある。
- 毋固 … 『集解』の何晏の注に「可も無く不可も無し。故に固く行うこと無きなり」(無可無不可。故無固行也)とある。また『義疏』に「三なり。此れ聖人已に物に応じて化を行うの故なり。固は、執守堅固なるを謂うなり。聖已に物に応ずと雖も、物若し行うことを得ること能わざるときは、則ち聖も亦た追って固く之を執らず、三隅を反さざるときは、則ち復たせずという、是れなり。亦た意とすること無きに由る、故に能く固とすること無きなり」(三也。此聖人已應物行化故也。固、謂執守堅固也。聖雖已應物、物若不能得行、則聖亦不追固執之、不反三隅、則不復、是也。亦由無意、故能無固也)とある。また『集注』に「固は、執滞なり」(固、執滯也)とある。
- 毋我 … 『集解』の何晏の注に「古えを述べて自ら作らず、群萃に処りて自ら異ならず、唯だ道のみ是れ従う。故に自ら其の身を有たざるなり」(述古而不自作、處群萃而不自異、唯道是從。故不自有其身也)とある。群萃は、群がり集まること。群集。また『義疏』に「四なり。此れ聖人の行教功徳、成りて身退くの迹なり。聖人の晦迹、功遂げ身退くも、恒に自ら異とせず。故に我無きなり。亦た由お意無きがごとし。故に能く我無きなり」(四也。此聖人行教功德成身退之迹也。聖人晦迹、功遂身退、恆不自異。故無我也。亦由無意。故能無我也)とある。また『集注』に「我は、己を私すなり」(我、私己也)とある。
- 『注疏』に「毋は、不なり。我は、身なり。常人は心を師として惑いに徇い、自ら己の意に任す。孔子は道を以て度と為す。故に意に任ぜず。常人の行蔵は、時に随うこと能わず、用舎自ら必を専らにするを好む。惟だ孔子のみ之を用うるときは則ち行い、之を舎つるときは則ち蔵れ、必を専らにせざるなり。常人の情は、可なる者には之に与し、不可なる者は之を拒み、其の行う所を堅固にするを好むなり。孔子は則ち可も無く不可も無く、行いを固くせざるなり。人は制作すること多く、自ら異にして以て其の身を擅にす。孔子は則ち古えを述べて自らは作らず、群衆萃聚に処り、光を和らげ塵に同じて、自らは異にせず、故に其の身を有たざるなり」(毋、不也。我、身也。常人師心徇惑、自任己意。孔子以道爲度。故不任意。常人行藏、不能隨時、用舍好自專必。惟孔子用之則行、舍之則藏、不專必也。常人之情、可者與之、不可者拒之、好堅固其所行也。孔子則無可無不可、不固行也。人多制作、自異以擅其身。孔子則述古而不自作、處羣衆萃聚、和光同塵、而不自異、故不有其身也)とある。
- 『集注』に「四者は終始を相為す。意に起こり、必に遂げ、固に留まり、我に成るなり。蓋し意・必は常に事の前に在り、固・我は常に事の後に在り。我に至りて又た意を生ずれば、則ち物欲牽引して、循環して窮まらず」(四者相爲終始。起於意、遂於必、留於固、而成於我也。蓋意必常在事前、固我常在事後。至於我又生意、則物欲牽引、循環不窮矣)とある。
- 『集注』に引く程顥または程頤の注に「此の毋の字は、禁止の辞に非ず。聖人此の四者を絶てば、何ぞ禁止を用いん」(此毋字、非禁止之辭。聖人絶此四者、何用禁止)とある。
- 『集注』に引く張載の注に「四者の一も有れば、則ち天地と相似ず」(四者有一焉、則與天地不相似)とある。
- 『集注』に引く楊時の注に「知以て聖人を知るに足り、詳らかに視て黙して之を識るに非ざれば、以て此を記すに足らず」(非知足以知聖人、詳視而默識之、不足以記此)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ聖人の道全く徳宏く、混融跡無きを言うなり。意無しとは、事皆道より出でて、計較の私無きなり。必無しとは、其の当に行くべき所に行き、其の当に止まるべき所に止るなり。固無しとは、唯だ善是れ従い、凝滞する所無し。我無しとは、善く人と同じくし己を舎てて人に従うなり。蓋し聖人の心は、猶お天地の変化して、其の然る所以を知ること莫きがごときなり」(此言聖人道全德宏、混融無跡也。無意者、事皆自道出、而無計較之私也。無必者、行其所當行、止其所當止也。無固者、唯善是從、無所凝滯。無我者、善與人同舍己從人。蓋聖人之心、猶天地之變化、莫知其所以然也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「朱註に、毋は史記に無に作る、是なり、と。此れ朱子は毎に毋は禁止の辞たるに執する故に爾云う。殊に知らず古書に毋と無は通用し、本と差別無きことを。……事至れば則ち礼を以て之に応ず、初めより意を経ざるが若し。故に意毋しと曰う。変ずれば則ち礼は従って変ず、前に期待すること無く、後に固滞すること無し。故に必毋し固毋しと曰う。唯だ先王の礼有るのみ。復た孔子有ること無し。故に我毋しと曰う。……大氐一部の論語に、後世心学の祖と為す可き者は、唯だ此れあるのみ。然れども孔子の時に当って、豈に心学有らんや。……郷党の孔子を形容する、唯だ礼あるのみ。夫れ孔子の智は、豈に門人の能く測る所ならんや。故に当時の孔子を観ること、皆礼に在るなり。……仁斎は又た意を以て計較するなりと為す。夫れ聖人も亦た人のみ、豈に計較すること無からんや」(朱註、毋史記作無、是也。此朱子毎執毋禁止辭故云爾。殊不知古書毋無通用、本無差別也。……事至則以禮應之、若初不經意。故曰毋意。變則禮從而變、前無期待、後無固滯。故曰毋必毋固。唯有先王之禮而已。無復有孔子。故曰毋我。……大氐一部論語、可爲後世心學之祖者、唯此耳。然當孔子時、豈有心學哉。……郷黨形容孔子、唯禮耳。夫孔子之智、豈門人之所能測哉。故當時之觀孔子、皆在禮也。……仁齋又以意爲計較。夫聖人亦人耳、豈無計較乎)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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