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泰伯第八 16 子曰狂而不直章

200(08-16)
子曰、狂而不直、侗而不愿、悾悾而不信、吾不知之矣。
いわく、きょうにしてちょくならず、とうにしてげんならず、悾悾こうこうとしてしんならざるは、われこれらず。
現代語訳
  • 先生 ――「野ほうずでひねくれ、無知なくせに出しゃばり、無能でいて、ズボラなのは、わしにも処置なしだ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「気位が高いくせにしょうじきであったり、ばかなくせにずるかったり、無能な上に不まじめだったりしては、わしも手がつけられぬわい。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「熱狂的な人は正直なものだが、その正直さがなく、無知な人は律義なものだが、その律義さがなく、才能のない人は信実なものだが、その信実さがないとすれば、もう全く手がつけられない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 狂 … 熱狂的。情熱的。衝動的。
  • 直 … 正直さ。率直さ。
  • 侗 … 無知なさま。
  • 愿 … まじめでつつしみ深い。律儀さ。
  • 悾悾 … 無能なさま。馬鹿正直。
  • 信 … 誠実さ。
  • 吾不知之矣 … 私には何ともしようがない。「之」は、以上述べてきた種類の人間を指す。
補説
  • 『注疏』に「此の章は孔子小人の性の常度と反するをにくむなり」(此章孔子疾小人之性與常度反也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 狂而不直 … 『集解』に引く孔安国の注に「狂とは、進取して宜しく直なるべきなり」(狂者、進取宜直也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此の章は、時世の古えと反するを歎くなり。狂者の用行は、宜しく其の直趣して廻する無く、善悪をたざるべし。而るに当時の狂者は、復た直ならざるなり。故に下巻に則ち云う、古えの狂や、今の狂や蕩なり、と」(此章、歎時世與古反也。狂者用行、宜其直趣無廻、不俟於善惡。而當時狂者、不復直也。故下卷則云、古之狂也肆、今之狂也蕩)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「狂とは、進取して宜しく直なるべくして、乃ち直ならず」(狂者、進取宜直、而乃不直)とある。
  • 侗而不愿 … 『集解』に引く孔安国の注に「侗は、未だ器を成さざるの人なり。宜しく謹愿なるべきなり」(侗、未成器之人也。宜謹愿也)とある。また『義疏』に「侗は、籠侗を謂い、未だ器を成さざるの人なり。愿は、謹愿なり。人幼くして未だ成人せざる者、情性宜しく謹愿なるべきも、当時の幼者も亦た謹愿ならざるなり」(侗、謂籠侗、未成器之人也。愿、謹愿也。人幼未成人者、情性宜謹愿、而當時幼者亦不謹愿也)とある。また『注疏』に「侗は、未だ器を成さざるの人、宜しく謹愿なるべくして、乃ち愿ならず」(侗、未成器之人、宜謹愿、而乃不愿)とある。また『集注』に「侗は、無知の貌。愿は、謹厚なり」(侗、無知貌。愿、謹厚也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 悾悾而不信 … 『集解』に引く包咸の注に「悾悾は、慤慤かくかくなり。宜しく信なる可きなり」(悾悾、慤慤也。宜可信也)とある。また『義疏』に「悾悾は、野慤を謂うなり。野慤の人は宜しく信なる可きに、時に野慤の者は皆詐詭し、復た宜しく信なる可からざるなり」(悾悾、謂野慤也。野慤之人宜可信、而于時野慤者皆詐詭、不復宜可信也)とある。また『注疏』に「悾悾は、愨なり。謹愨の人は、宜しく信なるべくして、乃ち信ならず」(悾悾、愨也。謹愨之人、宜信、而乃不信)とある。また『集注』に「悾は、無能の貌」(悾、無能貌)とある。
  • 吾不知之矣 … 『集解』に引く孔安国の注に「言うこころは皆常度と反す。故に我知らざるなり」(言皆與常度反。故我不知也)とある。また『義疏』に「既に古えの時と反す。故に孔子曰く、復た我能く知測するに非ざるなり、と。王弼曰く、夫れ誠を推して俗をおしうれば、則ち民の偽り自ずから化す。其の情偽を求むれば、則ち倹心ここに応ず。是を以て聖人は務めて民をして皆厚きに帰せしむ。幽を探るを以て明と為さず。務めて姦偽をして興らざらしむ。先覚を以て賢と為さず。故に明日月と並ぶと雖も、猶お知らずと曰うなり、と」(既與古時反。故孔子曰、非復我能知測也。王弼曰、夫推誠訓俗、則民僞自化。求其情僞、則儉心茲應。是以聖人務使民皆歸厚。不以探幽爲明。務使姦僞不興。不以先覺爲賢。故雖明竝日月、猶曰不知也)とある。また『注疏』に「此等の人は、皆常度と反すれば、我之を知らざるなり」(此等之人、皆與常度反、我不知之也)とある。また『集注』に「吾之を知らずとは、甚だしく之を絶つの辞、亦た之を教誨するをいさぎよしとせざるなり」(吾不知之者、甚絶之之辭、亦不屑之教誨也)とある。
  • 『集注』に引く蘇軾の注に「天の物を生ずるや、気質ひとしからず。其の中材以下は、是の徳有れば、則ち是の病有り、是の病有れば、必ず是の徳有り。故に馬の蹄齧ていげつする者、必ず善く走る。其の善ならざる者は、必ずる。是の病有りて是の徳無きは、則ち天下の棄才なり」(天之生物、氣質不齊。其中材以下、有是德、則有是病、有是病、必有是德。故馬之蹄齧者、必善走。其不善者、必馴。有是病而無是德、則天下之棄才也)とある。蹄齧は、馬がひづめで蹴ったり、歯でかんだりすること。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ言うこころは意高き者は矜飾きょうしょくを事とせず、宜しく直なるべし。無知なる者はたんする所有り、宜しくげんなるべし。無能なる者は作為を解せず、宜しく信なるべし。而して今皆然らざれば、則ち是れ棄才なり。聖人と雖も之を教うる所以を知らず。人其れ恥ずる所を知らざる可けんや」(此言意高者不事矜飾、宜直矣。無知者有所畏憚、宜愿矣。無能者不解作爲、宜信矣。而今皆不然、則是棄才也。雖聖人不知所以教之。人其可不知所恥哉)とある。矜飾は、身を飾ることをほこること。畏憚は、おそれはばかること。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「吾之を知らずとは、教う可からざるを謂うなり。孔子は人を教うるを以て自ら任ず、故に之を知らずと曰う。孔安国曰く、言うこころは皆常度と反す。我之を知らず、と。朱註に、之を知らずとは、甚だ之を絶つの辞、と。皆非なり」(吾不知之矣者、謂不可教也。孔子以教人自任、故曰不知之矣。孔安國曰、言皆與常度反。我不知之。朱註、不知之者、甚絶之之辭。皆非矣)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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