述而第七 21 子曰三人行章
168(07-21)
子曰、三人行、必有我師焉。擇其善者而從之、其不善者而改之。
子曰、三人行、必有我師焉。擇其善者而從之、其不善者而改之。
子曰く、三人行えば、必ず我が師有り。其の善き者を択びて之に従い、其の善からざる者にして之を改む。
現代語訳
- 先生 ――「三人もでやれば、きっとお手本はある。よい点をえらんでまねをし、よくない点があればなおす。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様がおっしゃるよう、「人生の道連れが三人となれば、二人は必ずそれぞれ自分の先生になる。善なる者にならって自らの善を進め、不善なる者にかんがみて自らの不善を改めることになるからじゃ。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師がいわれた。――
「三人道づれをすれば、めいめいに二人の先生をもつことになる。善い道づれは手本になってくれるし、悪い道づれは、反省改過の刺戟になってくれる」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 「里仁第四17」と同じ趣旨。
- 三人 … 自分と他の二人。
- 行 … 行動する。「道を歩く」と解釈する説もある。
- 我師 … 自分のお手本となる人。
- 焉 … 文末にあるので訓読しない。
- 択 … 選ぶ。
- 従 … 見習う。
- 改 … (自分にもある同じ欠点を)直す。
補説
- 『注疏』に「此の章は学に常師無きを言うなり」(此章言學無常師也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 三人行、必有我師焉 … 『義疏』に「此れ人生の処世は、則ち宜しく更〻相進益すべきを明らかにす。三人同行すと雖も、必ず勝れるを推して劣れるを引く。故に必ず師有るなり」(此明人生處世、則宜更相進益。雖三人同行、必推勝而引劣。故必有師也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「三人同行すれば、其の一は我なり」(三人同行、其一我也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 三人 … 『義疏』では「我三人」に作る。
- 行 … 劉宝楠『論語正義』に「行とは、道路を行くなり」(行者、行於道路也)とあり、「道を歩いているとすれば」との解釈もある。こちらは「ゆけば」「あゆめば」と訓読する。
- 必有我師 … 『義疏』では「必得我師」に作る。
- 択其善者而従之、其不善者而改之 … 『集解』の何晏の注に「言うこころは我三人行くや、本と賢愚無し。善を択びて之に従い、不善なるは之を改む。故に常師無きなり」(言我三人行、本無賢愚。擇善從之、不善改之。故無常師也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「勝れる者有れば、則ち諮受して自ら益す。故に云う、善を択びて之に従うなり、と。劣れる者有れば、則ち善を以て之を引く。故に云う、其の不善なる者にして之を改む、と。然れども善と不善と、即ち一人の上に就いての語と為すなり。人円足あらず、故に善を取りて悪を改む、亦た更〻相師として之を改むるの義なり。故に王朗曰く、時に道消し俗薄いで、能く賢を崇び勝れるを尚ぶこと鮮なし、故に斯の言に託して以て之を厲ます。夫れ三人の行いには、猶お或いは師有り、況んや四海の内、何を求むるとしてか応ぜざらんや。縦い能く賢を尚ぶも、或いは一方に滞る者は、又た未だ善を尽さざるなり。故に曰く、其の善き者を択びて之に従い、其の善からざる者にして之を改む、と」(有勝者、則諮受自益。故云、擇善而從之也。有劣者、則以善引之。故云、其不善者而改之。然善與不善、即就一人上爲語也。人不圓足、故取善改惡、亦更相師改之義也。故王朗曰、于時道消俗薄、鮮能崇賢尚勝、故託斯言以厲之。夫三人之行、猶或有師、況四海之内、何求而不應哉。縱能尚賢、而或滯於一方者、又未盡善也。故曰、擇其善者而從之、其不善者而改之)とある。また『注疏』に「言うこころは我三人の行いには、本と賢・愚の相懸たる無く、但だ敵体するのみ。然れども彼の二人の言行には、必ず一人の善、一人の不善有り。我は則ち其の善なる者を択びて之に従い、不善なる者にして之を改む。善の従う可き有るは、是れ師と為るなり。故に常師無きなり」(言我三人行、本無賢愚相懸、但敵體耳。然彼二人言行、必有一人善、一人不善。我則擇其善者而從之、不善者而改之。有善可從、是爲師矣。故無常師也)とある。また『集注』に「彼の二人の者の、一善一悪なれば、則ち我其の善に従いて、其の悪を改む。是の二人の者は、皆我が師なり」(彼二人者、一善一惡、則我從其善、而改其惡焉。是二人者、皆我師也)とある。
- 『集注』に引く尹焞の注に「賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みれば、則ち善悪皆我の師なり。善に進むこと其れ窮まり有らんや」(見賢思齊、見不賢而内自省、則善惡皆我之師。進善其有窮乎)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「人毎に良師友無きことの歎く有り、殊に知らず何れの時か師無く、何れの処にか師無からん、心誠に之を求めば、必ず真の師有り。……人惟だ之を求めざるを病うるのみ」(人毎有無良師友之歎、殊不知何時無師、何處無師、心誠求之、必有眞師矣。……人惟病不求之耳)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「三人行えば、必ず我が師有りとは、古言なり。孔子之を誦す。言うこころは三人は至って寡なし、然れども三人相議して行えば、必ず観る可き者有り。孔子又た之を釈して曰く、之を師とするの道は、務めて其の善なるを択んで之に従うのみ。小善と雖も亦た棄てず、必ず其の不善なる者を全うして後以て己の鑑戒とし、以て師とせざるなり、と。朱註に、一りは善、一りは悪、其の一りは我なり、と。諸を何・邢に本づく。然れども巧なること甚だし、古義に非ざるなり、従う可からず。老子すら猶お曰う、善人なる者は不善人の師、不善人なる者は善人の資、と。未だ嘗て不善を以て師とせずんばあらず、古言然りとす」(三人行、必有我師、古言也。孔子誦之。言三人至寡、然三人相議而行、必有可觀者焉。孔子又釋之曰、師之之道、務擇其善而從之耳。雖小善亦不棄也、必其全不善者而後以爲己之鑒戒、不以爲師也。朱註、一善、一惡、其一我也。本諸何邢。然巧甚、非古義也、不可從矣。老子猶曰、善人者不善人之師、不善人者善人之資。未嘗以不善爲師、古言爲然)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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