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雍也第六 10 冉求曰非不説子之道章

129(06-10)
冉求曰、非不說子之道。力不足也。子曰、力不足者、中道而廢。今女畫。
ぜんきゅういわく、みちよろこばざるにあらず。ちかららざるなり。いわく、ちかららざるものは、ちゅうどうにしてはいす。いまなんじかぎれり。
現代語訳
  • 冉求(ゼンキュウ) ―― 「先生の教えに不満じゃないけれど、ちからがたりないです。」先生 ――「ちからのたりないものは、中途でへたばる。きみのは見かぎりだ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • ぜんきゅうが「先生のかれる道をけっこうだと思わないのではありませんが私には力が足りなくてついて行けません。」と言ったので、孔子様が激励げきれいしておっしゃるよう、「ほんとうに力が足りないで中途で行きづまるならやむを得ないが、お前のは力があるのに自分で見限りをつけているのだ。そんなことではだめじゃ。シッカリしなさい。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • ぜんきゅうがいった。――
    「先生のお説きになる道に心をひかれないのではありません。ただ、何分にも私の力が足りませんので……」
    すると、先師はいわれた。
    「力が足りないかどうかは、こんかぎり努力してみたうえでなければ、わかるものではない。ほんとうに力が足りなければ中途でたおれるまでのことだ。おまえはたおれもしないうちから、自分の力にみきりをつけているようだが、それがいけない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 冉求 … 前522~?。姓はぜん、名はきゅうあざなゆう。魯の人。孔門十哲のひとり。孔子より二十九歳若い。ぜんゆうとも。政治的才能があった。ウィキペディア【冉有】参照。
  • 非不 … 「~(せ)ざるにあらず」と読み、「~(し)ないのではない」「~(し)ないわけではない」と訳す。二重否定の形。
  • 説 … 心から喜ぶ。結構だと思う。「悦」に同じ。
  • 子之道 … 先生(孔子)の説かれた教え。
  • 中道 … 物事の途中。
  • 廃 … やめる。
  • 女 … 「汝」に同じ。
  • 画 … 自分の能力に見切りをつける。限界を設ける。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人に学をすすむるなり」(此章勉人學也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 冉求 … 『孔子家語』七十二弟子解に「冉求は字は子有。仲弓の宗族なり。孔子よりわかきこと二十九歳。才芸有り。政事を以て名を著す。仕えて季氏の宰と為る。進めば則ち其の官職をおさめ、退けば則ち教えを聖師に受く。性たること多く謙退す。故に子曰く、求や退、故に之を進ましむ、と」(冉求字子有。仲弓之宗族。少孔子二十九歳。有才藝。以政事著名。仕爲季氏宰。進則理其官職、退則受教聖師。爲性多謙退。故子曰、求也退、故進之)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「冉求、字は子有。孔子よりわかきこと二十九歳。季氏の宰と為る」(冉求字子有。少孔子二十九歳。爲季氏宰)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 非不説子之道。力不足也 … 『義疏』に「冉求孔子にはかりて曰く、求の心誠に夫子の道を喜悦せざるには非ず、而して之を行わんと欲するに、只だ才力足らず、之を如何ともすること無きなり」(冉求諮孔子曰、求之心誠非不喜悦夫子之道、而欲行之、只才力不足、無如之何也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「弟子の冉求言う、己子の道を説楽して之を勤め学ばざるには非ず。但だ力の足らざるの故を以てなり、と」(弟子冉求言、己非不説樂子之道而勤學之。但以力不足故也)とある。また『集注』に「力足らずとは、進まんと欲すれども能わず」(力不足者、欲進而不能)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子曰、力不足者、中道而廃。今女画 … 『集解』に引く孔安国の注に「画は、止なり。力足らざる者は、中道に当たりて廃す。今汝は自ら止まるのみ。力之を極むるに非ざるなり」(畫、止也。力不足者、當中道而廢。今汝自止耳。非力極之也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「孔子冉求の企て慕うの心無きことを抑うるなり。言うこころは汝は但だ学ぶのみにして之を行わず。若し之を行いて力足らざる者、当に中道にして廃しとどむべきのみ。発し初めより自ら誠に行うこと能わざるは莫きなり。画は、止なり。汝今力足らずと云う。是れ汝自ら止まるを欲するのみ」(孔子抑冉求無企慕之心也。言汝但學不行之矣。若行之而力不足者、當中道而廢住耳。莫發初自誠不能行也。畫、止也。汝今云力不足矣。是汝自欲止耳)とある。また『注疏』に「画は、止なり。此れ孔子冉求の学をよろこばざるを責むるなり。言うこころは力の足らざる者は、中道に当たりて廃す。今なんじは自ら止まるのみ、力の極まるには非ざるなり」(畫、止也。此孔子責冉求之不説學也。言力不足者、當中道而廢。今女自止耳、非力極也)とある。また『集注』に「画るとは、能く進めども欲せず。之を画ると謂うは、地に画し以て自ら限るが如きなり」(畫者、能進而不欲。謂之畫者、如畫地以自限也)とある。
  • 女 … 『義疏』では「汝」に作る。
  • 『集注』に引く胡寅の注に「夫子は顔回の其の楽しみを改めざるを称す。冉求之を聞く。故に是の言有り。然れども求をして夫子の道を説ぶこと誠に口の芻豢すうけんを説ぶが如くならしむれば、則ち必ず将に力を尽くし以て之を求めんとす。何ぞ力に足らざるを患えんや。かぎりて進まざれば、則ち日〻退くのみ。此れ冉求の芸に局する所以なり」(夫子稱顏回不改其樂。冉求聞之。故有是言。然使求說夫子之道誠如口之說芻豢、則必將盡力以求之。何患力之不足哉。畫而不進、則日退而已矣。此冉求之所以局於藝也)とある。芻豢は、牛・羊など草食の家畜と、犬・豚など穀食の家畜の類。転じて、ご馳走のこと。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「論に曰く、聖人の道は、中庸のみ。……冉求の意、徒らに其の高きを見て、初めより未だ嘗て高からざることを知らず。徒に其の難きを見て、本甚だ難きこと無きを知らず」(論曰、聖人之道、中庸而已矣。……冉求之意、徒見其高、而不知初未嘗高。徒見其難、而不知本無甚難)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「道にちゅうして廃すとは、廃すと雖も亦た道の中に在るなり。……孔子の語意は、古えの力足らざる者は、中道にして廃す、今汝は力足らざるを以て自ら称す、是れ地をかくして進まざるが如しと言うなり。今の字を観すれば、則ち古えを称することあきらかなり。……仁斎先生曰く、冉求は徒らに道の高遠なるを見て、而うして中庸の道を知らず、故にむ心有り、と。是れ中道を以て半途と為し、遂に中庸篇の言を以て同じく観るのみ。……且つ中庸の徳有ることを聞き、未だ中庸の道有ることを聞かず」(中道而廢者、雖廢亦在道之中也。……孔子語意、言古之力不足者、中道而廢、今汝以力不足自稱、是如畫地而不進矣。觀於今字、則稱古者審矣。……仁齋先生曰、冉求徒見道之高遠、而不知中庸之道、故有止心。是以中道爲半途、遂以中庸篇之言同觀爾。……且聞有中庸之德也、未聞有中庸之道也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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