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八佾第三 23 子語魯大師樂章

063(03-23)
子語魯大師樂曰、樂其可知也。始作翕如也。從之純如也。皦如也。繹如也。以成。
たいがくかたりていわく、がくきなり。はじおこすにきゅうじょたり。これはなちてじゅんじょたり。きょうじょたり。繹如えきじょたり。もっる。
現代語訳
  • 先生が魯(ロ)の国の楽隊長に ―― 「音楽って、こうなんだね。はじめは、音をそろえる。そして思いきり、ひびかせる。すみ通らせる。長つづきさせる。それでいい。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様ががくちょうに音楽論をしておっしゃるよう、「音楽には一定の型がある。演奏の始めに諸楽器の音がそろって出るが、演じ進んで十分に調子を張ると、すべての音が調和して一音となり、しかも各楽器の音が明らかにきこえて互いに消し合わない。そして連続して絶ゆることなく終節に至るのじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師が魯のがく長に音楽について語られた。――
    「およそ音楽の世界は一如の世界だ。そこにはいささかの対立もない。まず一人一人の楽手の心と手と楽器が一如になり、楽手と楽手とが一如になり、さらに楽手と聴衆とが一如になって、翕如きゅうじょとして一つの機をねらう。これが未発の音楽だ。この翕如たる一如の世界が、機熟しておのずから振動をはじめると、純如じゅんじょとして濁りのない音波が人々の耳を打つ。その音はただ一つである。ただ一つではあるが、そのなかには金音もあり、石音もあり、それぞれに独自の音色を保って、決しておたがいに殺しあうことがない。皦如きょうじょとして独自を守りつつ、しかもただ一つの音の流れに没入するのだ。こうして時がたつにつれ、高低、強弱、緩急、さまざまの変化を見せるのであるが、その間、厘毫りんごうのすきもなく、繹如えきじょとしてつづいて行く。そこに時間的な一如の世界があり、永遠と一瞬との一致が見出される。まことの音楽というものは、こうして始まり、こうして終るものだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 大師 … 楽官の長。楽団長。
  • 語 … 「げて」とも読む。「告」に同じ。
  • 可知也 … 知ることができる。難しいことではない。
  • 始作 … 音楽を演奏し始める時。「作」は、すとも読む。
  • 翕如 … 多くの楽器がいっせいに鳴るようす。
  • 従 … 放つ。
  • 純如 … 調和のとれたさま。
  • 皦如 … 物事が明らかなさま。
  • 繹如 … 続いて絶えないさま。
  • 成 … 完成する。演奏が完結する。一曲の演奏が終わること。
補説
  • 『注疏』に「此の章は楽を明らかにす」(此章明樂)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子語魯大師楽曰、楽其可知也 … 『集解』の何晏の注に「大師は、楽官の名なり」(大師、樂官名也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「魯の大師は、魯の楽師なり。魯の国礼楽崩壊し、正音存せず。故に孔子魯の楽師を見て其を語り、正楽の法を知らしむ。故に楽は其れ知る可きのみと云う」(魯大師、魯之樂師也。魯國禮樂崩壞、正音不存。故孔子見魯之樂師而語其、使知正樂之法。故云樂其可知也已)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「大師は、楽官の名なり。猶お周礼の大司楽のごときなり。時に於いて魯国の礼楽は崩壊す、故に孔子正楽の法を以て之を語り、知らしむるなり。正楽を作すの法は得て知る可きを言うなり。下文の如きを謂う」(大師、樂官名。猶周禮之大司樂也。於時魯國禮樂崩壞、故孔子以正樂之法語之、使知也。言作正樂之法可得而知也。謂如下文)とある。また『集注』に「語は、告ぐなり。大師は、楽官の名。時に音楽廃欠す。故に孔子之を教う」(語、告也。大師、樂官名。時音樂廢缺。故孔子教之)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子語魯大師樂曰、樂其可知也 … 『義疏』では「子謂魯大師樂曰、樂其可知也已」に作る。
  • 始作翕如也 … 『集解』の何晏の注に「五音始めて奏でるをいう。翕如は、盛んなるなり」(五音始奏。翕如、盛也)とある。また『義疏』に「此れ以下並びに是れ語る所、知る可きの声なり。きゅうは、習なり。言うこころは正楽初めて奏するに、其の声翕習として盛んなるなり」(此以下竝是所語、可知之聲也。翕、習也。言正樂初奏、其聲翕習而盛也)とある。翕習は、盛んなさま。また『注疏』に「正楽の始めて作るときは、則ち五音翕然として盛んなるを言うなり。翕は、盛んなる貌なり。如は、皆語辞なり」(言正樂始作、則五音翕然盛也。翕、盛貌。如、皆語辭)とある。また『集注』に「翕は、合なり」(翕、合也)とある。
  • 従之純如也 … 『集解』の何晏の注に「従は読みて縦と曰う。五音既に発するを言う。放ちはなちて其の声を尽くす。純純は、和諧なり」(從讀曰縱。言五音既發。放縱盡其聲。純純、和諧也)とある。和諧は、調和していること。また『義疏』に「従は、放縦なり。言うこころは正楽始めて奏すること翕習たり。以後又た其の声をはなつ。其の声則ち純一にして和諧す。離折散逸せざるを言うなり」(從、放縱也。言正樂始奏翕習。以後又舒縱其聲。其聲則純一而和諧。言不離折散逸也)とある。また『注疏』に「従は読みて縦と曰う。放縦を謂うなり。純は、和なり。五音の既に発せらるるや、放縦して其の音声を尽くし、純純として和諧するを言うなり」(從讀曰縱。謂放縱也。純、和也。言五音既發、放縱盡其音聲、純純和諧也)とある。また『集注』に「従は、放なり。純は、和なり」(從、放也。純、和也)とある。
  • 皦如也 … 『集解』の何晏の注に「其の音節明らかなるを言うなり」(言其音節明也)とある。また『義疏』に「言うこころは純如として一の如しと雖も、其の音節又た明亮皎皎然たるなり」(言雖純如而如一、其音節又明亮皎皎然也)とある。また『注疏』に「皦は、明なり。其の音節の分明なるを言うなり」(皦、明也。言其音節分明也)とある。また『集注』に「皦は、明なり」(皦、明也)とある。
  • 繹如也 … 『集解』の何晏の注に「之をはなつに純如・皦如・繹如を以てす。楽は翕如に始まりて三に成るを言うなり」(縱之以純如皦如繹如。言樂始於翕如而成於三也)とある。また『義疏』に「繹は、尋続なり。声相尋続して断絶せざるを言うなり」(繹、尋續也。言聲相尋續而不斷絶也)とある。また『注疏』に「其の音の落繹然として、相続きて絶えざるを言うなり」(言其音落繹然、相續不絶也)とある。また『集注』に「繹は、相続きて絶えざるなり」(繹、相續不絶也)とある。
  • 以成 … 『義疏』では「以成矣」に作り、「以て成るは、奏楽此くの如くなれば、則ち是れ正声一成するなり」(以成矣、奏樂如此、則是正聲一成也)とある。また『注疏』に「楽の始めて作るや翕如たり、又た之を縦ちて以て純如たり、皦如たり、繹如たれば、則ち正楽は之を以てして成るを言うなり」(言樂始作翕如、又縱之以純如、皦如、繹如、則正樂以之而成也)とある。また『集注』に「成は、楽の一たび終わるなり」(成、樂之一終也)とある。
  • 『集注』に引く謝良佐の注に「五音六律具わらざれば、以て楽と為すに足らず。翕如は、其の合うを言うなり。五音合いて、清濁高下、五味の相りて、而る後に和するが如し。故に純如たりと曰う。合いて和し、其の倫を相奪うこと無からんと欲す。故に皦如たりと曰う。然らば豈に宮は自ら宮にして、商は自ら商ならんや。相反せずして相連なること、珠を貫くが如くにして可なり。故に繹如たりと曰う。以て成る」(五音六律不具、不足以爲樂。翕如、言其合也。五音合矣、淸濁高下、如五味之相濟而後和。故曰純如。合而和矣、欲其無相奪倫。故曰皦如。然豈宮自宮、而商自商乎。不相反而相連、如貫珠可也。故曰繹如也。以成)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「五音六律明らかにして混ぜざるなり。……当時音楽残欠し、伶官れいかんは唯だ五音六律を論ずることを知りて、楽の節奏、自然の序有りて、其の和ごうの間に在ることを知らず。況んや其の性情心術の微に通ずる者に於いてをや。夫れ楽の天下に於けるは、猶おかじの船に於ける、或いは左に或いは右に、其の転ずる所に随い、しょうの卒に於ける、或いは進み或いは退き、其の指麾しきに従うがごとし。治乱盛衰、つねに声音と相通ず。故に夫子大師の為に、一一指点して之を示すなり」(五音六律明而不混也。……當時音樂殘缺、伶官唯知論五音六律、而不知樂之節奏、有自然之序、而其和在於絲毫之間。況於其通性情心術之微者乎。夫樂之於天下、猶柁之於船、或左或右、隨其所轉、將之於卒、或進或退、從其指麾。治亂盛衰、毎與聲音相通。故夫子爲大師、一一指點而示之也)とある。伶官は、音楽の演奏をつかさどる官。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「楽は其れ知んぬ可し。楽は至って知り難し。然れども伶人の楽を為すこと、唯だ翕・純・皦・繹たるのみ。故に楽其れ知る可しと曰うなり。……仁斎曰く、五音六律明らかにして混ぜざるなり、と。妄なるかな。豈に五音六律の並びに奏する者有らんや。以て成る、古註に、之をゆるすに純如・皦如・繹如たるを以てす。言うこころは楽始めておこるや翕如たり、而して三に成る、と。以てくわうる莫し。朱註に、成は楽の一終なり、と。非なり。言うこころは始めておこりてより一終に至るまで、唯だ此れあるのみと」(樂其可知也。樂至難知。然伶人爲樂、唯翕純皦繹而已。故曰樂其可知也。……仁齋曰、五音六律明而不混。妄哉。豈有五音六律竝奏者乎。以成、古註、縱之以純如皦如繹如。言樂始作翕如、而成於三。莫以尚焉。朱註、成樂之一終也。非也。言始作至一終、唯此耳)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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