八佾第三 15 子入太廟章
055(03-15)
子入太廟、毎事問。或曰、孰謂鄹人之子知禮乎。入太廟、毎事問。子聞之曰、是禮也。
子入太廟、毎事問。或曰、孰謂鄹人之子知禮乎。入太廟、毎事問。子聞之曰、是禮也。
子、太廟に入りて、事毎に問う。或ひと曰く、孰か鄹人の子を礼を知ると謂うか。太廟に入りて、事毎に問う。子之を聞きて曰く、是れ礼なり。
現代語訳
- 先生は大神宮で、いちいち人にきく。だれかが ―― 「鄹(スウ)村の若僧め、儀式を知らんじゃないか。大神宮で、いちいちきくとは。」先生はそれをきいて ―― 「そこが儀式だ。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様が大廟に参拝しまた祭にたずさわるとき、これをどう致すのですか、次に何がござりますか、と事毎にたずねられた。そこである人が、「あの鄹人の息子は礼を心得ているなどとはいったい誰が言ったのか。大廟にはいるといちいち物をきいてまごついているではないか。」と蔭口をきいた。孔子様がそれを伝え聞いておっしゃるよう、「それが礼なのじゃ。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師が大廟に入って祭典の任に当られた時、事ごとに係の人に質問された。それをある人があざけっていった。
「あの鄹の田舎者のせがれが、礼に通じているなどとは、いったいだれがいいだしたことなのだ。大廟にはいって事ごとに質問しているではないか」
先師はこれをきかれて、いわれた。――
「慎重にきくのが礼なのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
補説
- 『注疏』に「此の章は夫子の礼を慎むを言うなり」(此章言夫子愼禮也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 子入太廟 … 『集解』に引く包咸の注に「太廟は、周公の廟なり。孔子魯に仕う。魯は周公を祭り、而して祭を助くるなり」(太廟、周公廟也。孔子仕魯。魯祭周公、而助祭也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「周公の廟なり。孔子魯に仕え祭を助く。故に周公の廟に入るを得るなり」(周公廟也。孔子仕魯助祭。故得入周公廟也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「子は、孔子を謂う。太廟は、周公の廟なり。孔子魯に仕うるとき、魯周公を祭りて祭を助く、故に之に入るを得るなり」(子、謂孔子。太廟、周公廟。孔子仕魯、魯祭周公而助祭、故得入之也)とある。また『集注』でも「大廟」に作り、「大廟は、魯の周公の廟なり。此れ蓋し孔子始めて仕うるの時、入りて祭を助くるなり」(大廟、魯周公廟。此蓋孔子始仕之時、入而助祭也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 太廟 … 『義疏』では「大廟」に作る。
- 毎事問 … 『義疏』に「太廟中の事及び物を、孔子事毎に輒ち廟中の令長に問うなり」(太廟中事及物、孔子毎事輒問於廟中令長也)とある。また『注疏』に「太廟の中にて、礼器の属を、事毎に輒ち令長に問うを言うなり」(言太廟之中、禮器之屬、毎事輒問於令長也)とある。
- 或曰、孰謂鄹人之子知礼乎。入太廟、毎事問 … 『集解』に引く孔安国の注に「鄹は、孔子の父叔梁紇の治むる所の邑なり。時人多く孔子は礼を知ると言う。或る人以為えらく、礼を知る者は、当に復た問うべからざるなり」(鄹、孔子父叔梁紇所治邑也。時人多言孔子知禮。或人以爲、知禮者、不當復問也)とある。また『義疏』に「孰は、誰なり。鄹は、孔子の父叔梁紇の治むる所の邑なり。故に孔子を鄹人の子と為すを謂うなり。世人皆孔子を礼を知ると伝う。或る人疑いて云う、礼を知る者は自ら当に徧く一切を識るべくして、応に問うこと有るべからず、と。今孔子廟に入り、事毎に輒ち問う、則ち是れ礼を知らざるなり。故に曰く、誰か鄹人の子を礼を知ると謂うか、と」(孰、誰也。鄹、孔子父叔梁紇所治邑也。故謂孔子爲鄹人子也。世人皆傳孔子知禮。或人疑云、知禮者自當徧識一切、不應有問。今孔子入廟、每事輒問、則是不知禮也。故曰、誰謂鄹人子知禮乎)とある。また『注疏』に「孰は、誰なり。鄹人は、魯の鄹邑の大夫、孔子の父の叔梁紇なり。或いは人有りて曰く、誰か鄹大夫の子は礼を知る者なりと謂う、と。時人は多く孔子は礼を知ると言う。或る人以為えらく、礼を知る者は当に復た問うべからず、何為れぞ太廟に入りて事毎に問うや、と。意は孔子は礼を知らずと以為えり」(孰、誰也。鄹人、魯鄹邑大夫、孔子父叔梁紇也。或有人曰、誰謂鄹大夫之子知禮者也。時人多言孔子知禮。或人以爲、知禮者不當復問、何爲入太廟而毎事問乎。意以爲孔子不知禮)とある。また『集注』に「鄹は、魯の邑の名なり。孔子の父叔梁紇、嘗て其の邑の大夫たり。孔子少きより、礼を知るを以て聞こゆ。故に或る人此に因りて之を譏る」(鄹、魯邑名。孔子父叔梁紇、嘗爲其邑大夫。孔子自少、以知禮聞。故或人因此而譏之)とある。
- 子聞之曰、是礼也 … 『集解』に引く孔安国の注に「之を知ると雖も、当に復た問うべし。慎の至りなり」(雖知之、當復問。愼之至也)とある。また『義疏』に「孔子或る人の己の多問を譏るを聞く。故に之を釈するなり。所以に云う、是れ礼なる者は宗廟の事重し。軽〻しく脱す可からず。愈〻知り愈〻問うは、是れ敬慎の礼なり」(孔子聞或人譏己多問。故釋之也。所以云、是禮者宗廟事重。不可輕脱。愈知愈問、是敬愼之禮也)とある。また『注疏』に「孔子或る人の譏りを聞き、乃ち其の問うことの意を言う。宗廟の礼は当に須らく重ねて慎むべく、軽〻しくは言う可からざるを以て、已に之を知ると雖も、更に当に復た問うべきは、慎みの至りなり」(孔子聞或人之譏、乃言其問之意。以宗廟之禮當須重愼、不可輕言、雖已知之、更當復問、愼之至也)とある。また『集注』に「孔子の是れ礼なりと言うは、敬謹の至り、乃ち礼たる所以なり」(孔子言是禮者、敬謹之至、乃所以爲禮也)とある。
- 『集注』に引く尹焞の注に「礼とは、敬のみ。知ると雖も亦た問うは、謹みの至りなり。其の敬たること此より大なるは莫し。之を礼を知らずと謂う者は、豈に以て孔子を知るに足らんや」(禮者、敬而已矣。雖知亦問、謹之至也。其爲敬莫大於此。謂之不知禮者、豈足以知孔子哉)とある。
- 宮崎市定は「禮に型はない。愼重にも愼重を期して手落ちないようにする。これこそ禮の精神だという意味であろう。禮は型の傳燈でなく、その中に含まれている精神だという、極めて孔子的な發想なのである」と解説している(『論語の新研究』189頁)。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「聖人の礼に於ける、固より知らざる所無し。然り但だ其の名を聞きて、其の器物事実に於いては、則ち或いは未だ知らざる所の者有らん。故に始めて大廟に入り、事毎に問うのみ。亦た之を謹むなり。或る人未だ道を知らず、徒らに名物度数を講ずるを以て礼を知ると為す。故に此を以て之を譏る」(聖人之於禮、固無所不知。然但聞其名、而於其器物事實、則或有所未知者。故始入大廟、毎事問耳。亦謹之也。或人未知道、徒以講名物度數爲知禮。故以此譏之)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「子、太廟に入って、事毎に問う、と、古え必ず此の礼有らん。故に孔子曰く、是れ礼なり、と。……鄹人の子は、孔子を軽んずるの辞なり。它武氏の子、臧氏の子、顔氏の子の如き、皆少年を指して之を言う」(子入太廟、毎事問、古必有此禮。故孔子曰、是禮也。……鄹人之子、輕孔子之辭。它如武氏之子、臧氏之子、顏氏之子、皆指少年言之)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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