学而第一 13 有子曰信近於義章
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有子曰、信近於義、言可復也。恭近於禮、遠恥辱也。因不失其親、亦可宗也。
有子曰、信近於義、言可復也。恭近於禮、遠恥辱也。因不失其親、亦可宗也。
有子曰く、信、義に近ければ、言復む可きなり。恭、礼に近ければ、恥辱に遠ざかる。因ること其の親を失わざれば、亦た宗ぶ可きなり。
現代語訳
- 有先生 ――「取りきめも、すじがとおっておれば、はたす見こみがある。へりくだりも、しめくくりがあれば、見っともなくない。たよるのも、相手をまちがえねば、たのみがいがある。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 有若が言うよう、「言ったことは必ず実行するという信も、その言葉の内容が道理に近い場合にはじめてそれを実行して然るべきものになる。うやうやしいは結構だが、それが礼に近い場合にはじめて恥辱に遠ざかることになるのであって、おじぎは丁寧がよいからとて、土下座をしたらかえって恥をかく。人付合いもその親しむべき相手を見そこなわないことがむずかしいのであって、それができれば大したものだ。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 有先生がいわれた。――
「約束したことが正義にかなっておれば、その約束どおりに履行できるものだ。丁寧さが礼にかなっておれば、人に軽んぜられることはないものだ。人にたよる時に、たよるべき人物の選定を誤っていなければ、生涯その人を尊敬していけるものだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 有子 … 孔子の門弟。姓は有、名は若、字は子有。魯の人。容貌が孔子に似ていたという。門人で「子」と敬称を付けて呼ばれたのは、この有子と曾子・冉子・閔子の四人だけ。ウィキペディア【有若】参照。
- 信 … 約束すること。約束を守ること。
- 義 … 道理。
- 近 … 違わない。「近づけば」とも訓読できる。
- 言 … 言葉どおりに。
- 復 … 実行する。履行する。
- 恭 … うやうやしくすること。丁重に振る舞うこと。
- 近於礼 … 礼に外れていなければ。礼にかなっていれば。
- 遠恥辱 … 恥をかくことはない。
- 因 … 頼りにすること。人に頼ること。
- 不失其親 … 親しむべき人物を誤らなければ。
- 宗 … 尊ぶ。尊敬していける。
補説
- 『注疏』に「此の章は信と義と、恭と礼とは同じからざること、及び人行の宗とす可きの事を明らかにす」(此章明信與義、恭與禮不同、及人行可宗之事)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 有子 … 生年については確定できず、孔子より三十六歳年少、四十三歳年少など諸説ある。『孔子家語』七十二弟子解に「有若は魯人、字は子有。孔子より少きこと三十六歳。人と為り強識にして、古道を好む」(有若魯人、字子有。少孔子三十六歲。爲人強識、好古道也)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「有若、孔子より少きこと四十三歳。……有若の状、孔子に似たり。弟子相与に共に立てて師と為し、之を師とすること夫子の時の如し」(有若少孔子四十三歲。……有若狀似孔子。弟子相與共立爲師、師之如夫子時也)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
- 信近於義、言可復也 … 『集解』の何晏の注に「復は、猶お覆のごときなり。義は必ずしも信ならず、信は必ずしも義ならざるなり。其の言の反覆す可きを以て、故に義に近しと曰うなり」(復、猶覆也。義不必信、信不必義也。以其言可反覆、故曰近於義也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「信は、欺かざるなり。義は、宜に合うなり。復は、猶お験のごときなり。夫れ信は必ずしも宜に合わず。宜に合えども必ずしも信ならず。若し信を為すこと宜に合うに近ければ、此れ信の言乃ち復験す可きなり。若し信を為すこと宜に合わざれば、此れは是れ欺かずと雖も、而れども其の言復験するを足らざるなり。或ひと問いて曰く、宜に合わざるの信は云何、と。答えて曰く、昔尾生有り、一女子と梁下に期す、期する毎に毎に会す。後一日に急に暴水漲る、尾生先ず至る、而して女子来たらず、而れども尾生信を守りて去らず、遂に期を守りて溺死す。此れは是れ信宜に合わず、復験す可きに足らざるなり、と」(信不欺也。義合宜也。復猶驗也。夫信不必合宜。合宜不必信。若爲信近於合宜、此信之言乃可復驗也。若爲信不合宜、此雖是不欺、而其言不足復驗也。或問曰、不合宜之信云何。答曰、昔有尾生、與一女子期於梁下、毎期毎會。後一日急暴水漲、尾生先至、而女子不來、而尾生守信不去、遂守期溺死。此是信不合宜、不足可復驗也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「復は、猶お覆のごときなり。人言の欺かざるを信と為す。事に於いて宜に合するを義と為す。義事を為すには、必ずしも信を守らず、而して信も亦た義に非ざる者有るが若きなり。言うこころは義に非ずと雖も、其の言の反復して欺かざる可きを以て、故に義に近しと曰う」(復、猶覆也。人言不欺爲信。於事合宜爲義。若爲義事、不必守信、而信亦有非義者也。言雖非義、以其言可反復不欺、故曰近義)とある。また『集注』に「信は、信に約すなり。義とは、事の宜しきなり。復は、言を践むなり」(信、約信也。義者、事之宜也。復、踐言也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 恭近於礼、遠恥辱也 … 『集解』に引く包咸の注に「恭は礼に合せざれば、礼に非ざるなり。其の能く恥辱に遠ざかるを以て、故に礼に近しと曰うなり」(恭不合禮、非禮也。以其能遠恥辱、故曰近於禮也)とある。また『義疏』に「恭は是れ遜従なり。礼は是れ体別なり。若し遜従して体に当たらざれば、則ち恥辱と為り、若し遜従して礼に近づけば、則ち恥辱に遠ざかる。遜従礼に合わざるとは何ぞや。猶お遜うこと牀下に在りて、及び応に拝すべからずして之を拝するの属の如きなり」(恭是遜從。禮是體別。若遜從不當於體、則爲恥辱、若遜從近禮、則遠於恥辱。遜從不合禮者何。猶如遜在牀下、及不應拜而拜之之屬也)とある。また『注疏』に「恭は惟だ卑巽なるのみ、礼は時に会うを貴ぶ。巽いて牀下に在りの若きは、是れ恭の礼に合せざるは則ち礼に非ざるなり。恭は礼に非ずと雖も、其の能く恥辱に遠ざかるを以て、故に礼に近しと曰う」(恭惟卑巽、禮貴會時。若巽在牀下、是恭不合禮則非禮也。恭雖非禮、以其能遠恥辱、故曰近禮)とある。また『集注』に「恭は、敬を致すなり。礼は、節文なり」(恭、致敬也。禮、節文也)とある。
- 因不失其親、亦可宗也 … 『集解』に引く孔安国の注に「因は、親なり。言うこころは親とする所、其の親とするところを失わざるも、亦た宗敬す可きなり」(因、親也。言所親不失其親、亦可宗敬也)とある。また『義疏』に「因は、猶お親のごときなり。人能く親しむ所、其の親しむ者を得れば、則ち此の徳宗敬す可きなり。親しむこと其の親を失せずとは、若し近くして之を言わば、則ち九族を指す、宜しく相和睦すべきなり。若し広くして之を言わば、則ち是れ汎く衆を愛して仁に親しむ、乃ち義と之れ与に比す、是れ親しむこと其の親を失せざるなり。然して亦た宗ぶ可しと云うは、亦た猶お重のごときなり、能く親しむ所を親しめば、則ち是れ重ねて宗ぶ可しと為すなり」(因、猶親也。人能所親得其親者、則此德可宗敬也。親不失其親、若近而言之、則指於九族、宜相和睦也。若廣而言之、則是汎愛衆而親仁、乃義之與比、是親不失其親也。然云亦可宗者、亦猶重也、能親所親、則是重爲可宗也)とある。また『注疏』に「因は、親なり。親しむ所其の親を失わざるは、義に之れ与に比しむを言うなり。既に能く仁に親しみ義に比しみ、失う所有らずんば、則ち人を知るの鑒有り、故に宗敬す可きなり。亦と言うは、人の善行の宗敬す可き者は一に非ず。其の善行の宗とす可きの中に於いて、此れは一行たるのみ、故に亦と云うなり」(因、親也。所親不失其親、言義之與比也。既能親仁比義、不有所失、則有知人之鑒、故可宗敬也。言亦者、人之善行可宗敬者非一。於其善行可宗之中、此爲一行耳、故云亦也)とある。また『集注』に「因は、猶お依るのごとし。宗は、猶お主のごとし。言うこころは信を約して其の宜しきに合えば、則ち言は必ず践む可し。恭を致して其の節に中れば、則ち能く恥辱に遠ざかる。依る所の者、其の親しむ可きの人を失わざれば、則ち亦た以て宗として之を主とす可し。此れ言うこころは人の言行交際は、皆当に之を始めに謹みて、其の終わる所を慮るべし。然らずんば、則ち因仍苟且の間、将に其の自失の悔いに勝えざる者有らんとす」(因、猶依也。宗、猶主也。言約信而合其宜、則言必可踐矣。致恭而中其節、則能遠恥辱矣。所依者、不失其可親之人、則亦可以宗而主之矣。此言人之言行交際、皆當謹之於始、而慮其所終。不然、則因仍苟且之閒、將有不勝其自失之悔者矣)とある。
- 因 … 宮崎市定はここを「因にて」と読み、「因循とみられようとも」と訳している(『論語の新研究』169頁)。
- 亦可宗也 … 『義疏』では「亦可宗敬也」に作る。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「既に義礼に近くして、又た因りて人と其の和を失わざれば、則ち亦た宗にして之を敬す可し。止だ言復む可く、恥辱に遠ざかるのみに非ず。……故に此の質有るに因りて、亦た能く人と交わり、其の親を失わざれば、則ち其の学問之れ熟し、道徳之れ成る。既に守る所有りて、亦た能く容るること有り、亦た宗とす可き所以なり」(既近于義禮矣、又因而與人不失其和、則亦可宗而敬之。非止言可復、遠恥辱而已也。……故因有此質、而亦能與人交、不失其親、則其學問之熟、道德之成。既有所守、而亦能有容、所以亦可宗也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「信義に近く、恭礼に近く、因其の親を失せず、此の三言は、古書に古人の徳行を載するを引くなり。言復む可し、恥辱に遠ざかる、亦た宗とす可し、此の三言は、有子之を釈す。……言うこころは人外族に親しめば、則ち本宗多く離る、今其の人と為り、能く外族を親しんで、而して本親離れずとなり。有子之を賛して曰く、是くの若きは亦た以て帰して之を奉ず可し、と。親族の之を宗とするを謂うなり」(信近於義、恭近於禮、因不失其親、此三言、引古書載古人之德行也。言可復也、遠恥辱也、亦可宗也、此三言、有子釋之。……言人親外族、則本宗多離、今其爲人、能親外族、而本親不離。有子贊之曰、若是乎亦可以歸而奉之焉。謂親族宗之也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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