季氏第十六 3 孔子曰祿之去公室五世矣章
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孔子曰、祿之去公室五世矣。政逮於大夫四世矣。故夫三桓之子孫微矣。
孔子曰、祿之去公室五世矣。政逮於大夫四世矣。故夫三桓之子孫微矣。
孔子曰く、禄の公室を去ること五世なり。政の大夫に逮ぶこと四世なり。故に夫の三桓の子孫は微なり。
現代語訳
- 孔先生 ――「賞罰の権限がおかみになくなって五代になる。政治の権力が家老に移って四代になる。名門の三家(孟孫・叔孫・季孫)の子孫もふるわないわけだ。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子の申すよう、「爵禄附与の権が魯の公室を離れてから五代になります。政治が大夫の手に移ってから四代になります。先に『五世希なり』と申したような次第で、かの三家の子孫が衰微してきたのも、そうあるべきことであります。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師がいわれた。――
「国庫の収入が魯の公室をはなれてから五代になる。政権が大夫の手に握られてから四代になる。従って三桓の子孫が衰微して来たのも当然である」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
- 禄 … 爵位俸禄を付与する権限。
- 公室 … 君主の一家。ここでは、魯の君主を指す。
- 五世 … 宣公・成公・襄公・昭公・定公の五代。
- 政逮於大夫 … 政治の実権が大夫の手に移る。「逮」は、及ぶ。
- 大夫 … 春秋時代の官吏の身分で、卿と士との中間に位する。ここでは、魯の大夫を指す。
- 四世 … 季文子・季武子・季平子・季桓子の四代(異説あり)。
- 三桓 … 魯の大夫の家柄である孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏の総称。第十五代君主桓公の子が分家して出来た。ウィキペディア【三桓氏】参照。
- 微 … 衰えてきた。
補説
- 『注疏』に「此の章は魯の公室の微弱となり、政は大夫に在るを言うなり」(此章言魯公室微弱、政在大夫也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 禄之去公室五世矣 … 『集解』に引く鄭玄の注に「此を言うの時は、魯の定公の初めなり。魯は東門の襄仲、文公の子の赤を殺して宣公を立つるより、是に於いて政は大夫に在り。爵禄君より出でざるは、定公に至り五世と為るなり」(言此之時、魯定公之初也。魯自東門襄仲、殺文公之子赤而立宣公、於是政在大夫。爵祿不從君出、至定公爲五世也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「礼楽征伐大夫より出づ。五世失わざる有ること希なり。時に孔子其の数将に爾からんとするを見、季氏必ず亡ぶるを知る。故に斯の旨を発するなり。公は、君なり。禄君の室を去るは、爵禄を制すること大夫に出でて、復た君に関わらざるを謂うなり。爵禄を制すること君に関わらずは、時に已に五世なり。故に云う、公室を去る、五世なり、と」(禮樂征伐自大夫出。五世希有不失。于時孔子見其數將爾、知季氏必亡。故發斯旨也。公、君也。祿去君室、謂制爵祿出於大夫、不復關君也。制爵禄不關君、于時已五世也。故云去公室五世也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「政は大夫に在りて、爵禄は君より出でざるは、宣公に始まるを謂う。此を言うの時は、魯の定公の初めに在り、故に五世と為すなり」(謂政在大夫、爵祿不從君出、始於宣公。言此之時、在魯定公之初、故爲五世矣)とある。また『集注』に「魯は文公薨じ、公子遂の子赤を殺し、宣公を立てしより、君其の政を失い、成・襄・昭・定を歴て、凡そ五公なり」(魯自文公薨、公子遂殺子赤、立宣公、而君失其政、歴成襄昭定、凡五公)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 政逮於大夫四世矣 … 『集解』に引く鄭玄の注に「文子・武子・悼子・平子なり」(文子武子悼子平子也)とある。また『義疏』に「逮は、及ぶなり。禄を制するに君に由らず。故に大夫に及ぶなり。季文子初めて政を得、武子・悼子・平子の四世に至る。是れ孔子の時見る所なり。故に四世と云う」(逮、及也。制祿不由君。故及大夫也。季文子初得政、至武子悼子平子四世。是孔子時所見。故云四世)とある。また『注疏』に「逮は、及ぶなり。言うこころは君の政令大夫に及ぶこと、今に至るまでに四世なり。季文子・武子・悼子・平子を謂うなり」(逮、及也。言君之政令及於大夫、至今四世矣。謂季文子武子悼子平子也)とある。また『集注』に「逮は、及ぶなり。季武子始めて国政を専らにしてより、悼・平・桓子を歴て、凡そ四世なり。而して家臣陽虎の執る所と為る」(逮、及也。自季武子始專國政、歴悼平桓子、凡四世。而爲家臣陽虎所執)とある。
- 四世 … 『集解』に引く鄭玄の注では、季桓子の代わりに季悼子を入れている。また『集注』では、季文子の代わりに季悼子を入れている。季悼子は季武子の子で季平子の父であるが、卿とならず、季武子より先に亡くなっている。従って四世には加えない。『春秋左伝正義』昭公十二年に「正義に曰く、悼子の卒するを経に書せざるは、則ち是れ未だ卿と為らざればなり。其の卒するに当たりては武子の前に在り。平子は孫を以て祖を継ぎ、武子の卒する後、即ち平子立つなり、と」(正義曰、悼子之卒不書於經、則是未為卿也。其卒當在武子之前。平子以孫繼祖、武子卒後、即平子立也)とある。『春秋左傳正義』卷四十五(中國哲學書電子化計劃)、及びウィキペディア【季悼子】(中文)参照。
- 故夫三桓之子孫微矣… 『集解』に引く孔安国の注に「三桓とは、仲孫・叔孫・季孫を謂うなり。三卿は皆桓公より出づ。故に三桓と曰うなり。仲孫氏は其の氏を改めて孟氏と称す。哀公に至りて皆衰うるなり」(三桓者、謂仲孫叔孫季孫也。三卿皆出桓公。故曰三桓也。仲孫氏改其氏稱孟氏。至哀公皆衰也)とある。また『義疏』に「大夫政を執りて五世、必ず失う。而して季氏已に四世、故に三桓の子孫、以て弱に転ずるなり。謂えらく三桓と為す者、仲孫・叔孫・季孫の三家同に桓公より出づればなり。故に三桓と云うなり。初め三家皆豪濫す。爾の時に至り並びに衰う。故に微なりと云うなり」(大夫執政五世、必失。而季氏已四世、故三桓子孫轉以弱也。謂爲三桓者、仲孫叔孫季孫三家同出桓公。故云三桓也。初三家皆豪濫。至爾時竝衰。故云微也)とある。また『注疏』に「三桓は、仲孫・叔孫・季孫を謂う。三卿は皆桓公より出づ、故に三桓と曰うなり。仲孫氏は其の氏を改めて孟氏と称す。礼楽・征伐大夫より出づれば、五世にして失わざること希なるを以て、故に夫の三桓の子孫は哀公の時に至りて皆衰微するなり」(三桓、謂仲孫叔孫季孫。三卿皆出桓公、故曰三桓也。仲孫氏改其氏稱孟氏。以禮樂征伐自大夫出、五世希不失、故夫三桓子孫至哀公時皆衰微也)とある。また『集注』に「三桓は三家、皆桓公の後なり。此れ前章の説を以て之を推せば、其の当に然るべきを知るなり」(三桓、三家、皆桓公之後。此以前章之説推之、而知其當然也)とある。
- 『集注』に「此の章専ら魯の事を論ず。疑うらくは前章と与に皆定公の時の語ならん」(此章專論魯事。疑與前章皆定公時語)とある。
- 『集注』に引く蘇軾の注に「礼楽征伐の諸侯より出づれば、宜しく諸侯の強かるべくして、魯以て政を失う。政の大夫に逮べば、宜しく大夫の強かるべくして、三桓以て微なり。何ぞや。強は安に生じ、安は上下の分の定まるに生ず。今、諸侯大夫皆其の上を陵げば、則ち以て其の下に令すること無し。故に皆久しからずして之を失うなり」(禮樂征伐自諸侯出、宜諸侯之強也、而魯以失政。政逮於大夫、宜大夫之強也、而三桓以微。何也。強生於安、安生於上下之分定。今諸侯大夫皆陵其上、則無以令其下矣。故皆不久而失之也)とある。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ上章と皆門人之を録して、以て夫子、春秋を作る所以の由を見せり。徒らに当時の事を記せるのみに非ず。言うこころは其の有に非ずして有する者は必ず失い、宜しく大なるべからずして大なる者は必ず微なるは、必然の理なり」(此與上章皆門人録之、以見夫子所以作春秋之由。非徒記當時之事而已。言非其有而有者必失、不宜大而大者必微、必然之理也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「禄の公室を去る、鄭玄曰く、政大夫に在り、爵禄君より出でず、と。仁斎爵禄の字を刪る。非なり。政大夫に逮ぶとは、大夫相及んで政を擅らにするを謂うなり」(祿之去公室、鄭玄曰、政在大夫、爵祿不從君出。仁齋刪爵祿字。非矣。政逮於大夫、謂大夫相及擅政也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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