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憲問第十四 16 子曰晉文公譎而不正章

348(14-16)
子曰、晉文公譎而不正。齊桓公正而不譎。
いわく、しん文公ぶんこういつわりてただしからず。せい桓公かんこうただしくしていつわらず。
現代語訳
  • 先生 ――「晋(シン)の文(殿)さまは、かけひき屋でまっすぐでない。斉(セイ)の桓(カン)(殿)さまは、まっすぐでかけひきがない。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「しん文公ぶんこうせい桓公かんこうも、共にしゃすなわち諸侯しょこう盟主めいしゅとなり、てきはらい周室をとうとんだ大功たいこうがあるが、文公はぼうりゃくを好んで正道によらず、桓公は正道を踏んで謀略を用いなかった。そこに両公の間の大きな相違がある。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    しんの文公は謀略を好んで正道によらなかった人であり、斉の桓公かんこうは正道によって謀略を用いなかった人である」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 晋文公 … 前697?~前628。春秋時代、晋の君主。在位前636~前628。五覇(斉の桓公、晋の文公、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘公)の一人。名はちょう。ウィキペディア【文公 (晋)】参照。
  • 譎 … 謀略を用いること。権謀術数の多いこと。また、臨機応変に処置すること。権道。
  • 正 … 正道を行うこと。常道。
  • 譎而不正 … 謀略を用いて正道によらない。また、臨機応変に処置して常道によらない。
  • 斉桓公 … 春秋時代、斉の君主。在位前685~前643。五覇の一人。名は小白。管仲を宰相に抜擢し、その補佐を得て斉を強国にしたウィキペディア【桓公 (斉)】参照。
  • 正而不譎 … 正道によって謀略を用いない。また、常道を用いるのみで、臨機応変の処置を知らない。
補説
  • 『注疏』に「此の章は二覇の事を論ずるなり」(此章論二霸之事也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 晋文公譎而不正 … 『集解』に引く鄭玄の注に「けつとは、なり。天子を召して、諸侯をして之に朝せしむを謂う。仲尼曰く、臣を以て君を召すは、以ておしえとすべからず、と。故に書に曰く、天王、河陽に狩す、と。是れけつにして正しからざるなり」(譎者、詐也。謂召天子而使諸侯朝之。仲尼曰、以臣召君不可以訓。故書曰、天王狩於河陽。是譎而不正也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「晋の文公は、是れ晋の献公の子、重耳なり。初め驪姫の難をおさめんとするも、遂に新城に出奔し、諸国を遊歴すること三十八年に至る。命を受けて侯伯と為り、遂に之が主と為る。此れ其の失有りと評するなり。譎は、詭詐なり。文公覇主と為り、行い詭詐して正礼を為すを得ず。時に天子は是れ周の襄王微弱なり。文公覇主と為らんと欲し、大いに諸侯を合して、天子に事えて以て名義を為さんと欲す。自ら強大を嫌して敢えて天子に朝せず。乃ちこれを天子に喩え、出でて畋狩でんしゅせしむ。此に因りて君臣の礼を尽くす。天子遂に晋の河陽の地に至る。此れは是れ文公譎りて正礼せざるなり。事は僖公廿八年に在り」(晉文公、是晉獻公之子重耳也。初爲驪姫之難、遂出奔新城、遊歴諸國至三十八年。受命爲侯伯、遂爲之主。此評其有失也。譎、詭詐也。文公爲霸主、行詭詐而不得爲正禮。時天子是周襄王微弱。文公欲爲霸主、大合諸侯、而欲事天子以爲名義。自嫌強大不敢朝天子。乃喩諸天子、令出畋狩。因此盡君臣之禮。天子遂至晉河陽之地。此是文公譎而不正禮也。事在僖公廿八年)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「譎は、詐なり、晋の文公天子を召して諸侯をして之に朝せしむるを謂う。是れ詐りて正しからざることなり」(譎、詐也、謂晉文公召天子而使諸侯朝之。是詐而不正也)とある。また『集注』に「晋の文公、名は重耳。……譎は、詭なり」(晉文公、名重耳。……譎、詭也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また劉宝楠『論語正義』には「譎は、権なり」(譎、權也)とある。
  • 斉桓公正而不譎 … 『集解』に引く馬融の注に「楚をつに公義を以てし、苞茅ほうぼうみつぎ入れざるを責め、昭王南征して還らざるを問う。是れ正にしていつわらざるなり」(伐楚以公義、責苞茅之貢不入、問昭王南征不還。是正而不譎也)とある。また『義疏』に「此れは是れ斉侯覇主と為り、正に依りて行い、詐譎を為さず。是れ晋の文公に勝るなり。江熙云う、言うこころは此の二君覇迹同じからず、而れども天子を翼佐し、以て諸侯をやすんじて、車に異轍無く、書に異文無からしむる所以なり、と」(此是齊侯爲霸主、依正而行、不爲詐譎。是勝於晉文公也。江熙云、言此二君霸迹不同、而所以翼佐天子、以綏諸侯、使車無異轍、書無異文也)とある。また『注疏』に「斉の桓公楚を伐つは、実は蔡を侵すに因りて遂に楚を伐ち、乃ち公義を以て苞茅の貢の入らざるを責め、昭王の南征して還らざるを問う。是れ正しくして詐らざることなり」(齊桓公伐楚、實因侵蔡而遂伐楚、乃以公義責苞茅之貢不入、問昭王南征不還。是正而不詐也)とある。また『集注』に「斉の桓公、名は小白。……二公は皆諸侯の盟主、夷狄をはらいて以て周室を尊ぶ者なり。其の力を以て仁を仮り、心は皆正しからずと雖も、然れども桓公の楚をつに、義にりて言を執り、どうに由らず。猶お彼は此より善と為す。文公は則ち衛をち以て楚を致して、陰謀以て勝を取る。其のいつわること甚だし。二君の他事も亦た多く此に類す。故に夫子此を言い以て其の隠を発す」(齊桓公、名小白。……二公皆諸侯盟主、攘夷狄以尊周室者也。雖其以力假仁、心皆不正、然桓公伐楚、仗義執言、不由詭道。猶爲彼善於此。文公則伐衞以致楚、而陰謀以取勝。其譎甚矣。二君他事亦多類此。故夫子言此以發其隱)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ専ら斉の桓公の為に之を発す。……而るにきゅうの会は、太子を定めて、以て王室を安んず。せんの会は、天子を挟みて以て諸侯を令す。公私義利の別有り。……斉桓・晋文の若き、王道より之を視れば、固より正に純なる者に非ず。然れども二公を以て之を論ずるに、彼れ此れより善き者有り。故に聖人の桓公に於ける、独り其のいつわらざるの善を没せず、聖人の言たる所以なり。後世儒者の人を論ずるが若きは、厳にして正と謂う可し。然れども繊悪せんあく発摘はってきし、片纇へんらいせきし、毛を吹き疵をもとめて、古今全人無し。じょせざるの太甚はなはだしきなり。聖人の言は、則ち然らず。小過は必ず赦し、一善も没せず、実に天地の心なり」(此專爲齊桓公而發之。……而葵丘之會、定太子、以安王室。踐土之會、挾天子以令諸侯。有公私義利之別。……若齊桓晉文、自王道視之、固非純乎正者。然以二公論之、有彼善於此者。故聖人之於桓公、獨不沒其不譎之善、所以爲聖人之言也。若後世儒者之論人、可謂嚴而正矣。然發摘纎惡、指斥片纇、吹毛索疵、古今無全人。不恕之太甚也。聖人之言、則不然。小過必赦、一善不沒、實天地之心也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「正とけつとは、兵家の辞なり。譎はと訓ずるを、と為す。鄭玄と訓ずる者は非なり。……大氐たいてい奇変百出する之を譎と謂い、堂堂正正たる之を正と謂う。奇変百出する者は、人に勝たんことを求むる者なり。堂堂正正たる者は、勝たれざらんことを求むる者なり。孔子の云うことしかる所以の者は、固より桓を褒めて文をおとす。亦た軍旅の道を語るなり。豈に必ずしも二君の人とりを評すること通鑑綱目の如くならんや」(正與譎。兵家之辭也。譎訓詭。爲是。鄭玄訓詐者非矣。……大氐奇變百出謂之譎、堂堂正正謂之正。奇變百出者、求勝於人者也。堂堂正正者、求不見勝者也。孔子所以云爾者、固褒桓而貶文矣。亦語軍旅之道也。豈必評二君之爲人如通鑑綱目哉)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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