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子罕第九 16 子在川上章

221(09-16)
子在川上曰、逝者如斯夫、不舍晝夜。
かわほとりりていわく、ものくのごときか、ちゅうかず。
現代語訳
  • 先生は川のほとりで ―― 「時もこうして流れ去るのか。昼となく夜となく…。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様が川ばたにたたずんで歎息たんそくされるよう、「人間万事過ぎ去って帰らぬこと、川水の昼となく夜となく流れてやまぬようじゃのう。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師が川のほとりに立っていわれた。――
    「流転のすがたはこのとおりだ。昼となく夜となく流れてやまない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • この章は「川上せんじょうたん」という。
  • 川上 … 川のほとり。
  • 逝者 … 過ぎ去って、かえらないもの。「者」は、人に限らず、物・事・時間など広く指す。
  • 如斯 … このようである。「くのごとし」(如此)に同じ。「斯」は、川の水を指す。
  • 夫 … 「か」または「かな」と読む。詠嘆の意を表す。「~だなあ」と訳す。
  • 不舎昼夜 … 昼となく夜となく。昼も夜も休まないで。昼夜の区別なく。
  • 舎 … 「やめず」「すてず」「とどまらず」とも読む。
補説
  • 『注疏』に「此の章は孔子時事の既に往きて、追復す可からざるを感歎するを記するなり」(此章記孔子感歎時事既往、不可追復也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 逝者如斯夫、不舎昼夜 … 『集解』に引く包咸の注に「逝は、往なり。言うこころは凡そ往く者は川の流れの如きなり」(逝、徃也。言凡往者如川之流也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「逝は、往去の辞なり。孔子、川水の上に在りて、川流の迅邁にして、未だ嘗て停止せざるを見る。故に人の年の往去するを歎くこと、亦た復た此くの如し。我今の我に非ざるに向かう。故に云う、逝く者はくの如きか、と。斯は、此なり。夫は、語助なり。日月居らざること流水の如きこと有り。故に云う、昼夜をかず、と。江熙云う、言うこころは人は南山に非ず、徳を立て功を立て、ぎょうすれば時過ぎ、流れに臨んで懐を興して、能く慨然せざらんや。聖人は百姓の心を以て心と為すなり、と。孫綽云う、川は流れて舎かず、年は逝きて停まらず、時已にくれぬ、而して道猶お興らず、憂歎する所以なり、と」(逝、往去之辭也。孔子在川水之上、見川流迅邁未嘗停止。故歎人年往去亦復如此。向我非今我。故云、逝者如斯夫者也。斯、此也。夫、語助也。日月不居有如流水。故云、不舍晝夜也。江熙云、言人非南山、立德立功、俛仰時過、臨流興懷、能不慨然乎。聖人以百姓心爲心也。孫綽云、川流不舍、年逝不停、時已晏矣、而道猶不興、所以憂歎也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「逝は、往なり。夫子川水の上に在りて、川水の流れの迅速なる、且つ追復す可からざるを見るに因る、故に之に感じて歎を興して言う、凡そ時事の往く者は、此の川の流れの如きか、昼夜を以てしても舎止すること有らざるなり、と」(逝、往也。夫子因在川水之上、見川水之流迅速、且不可追復、故感之而興歎言、凡時事往者、如此川之流夫、不以晝夜而有舍止也)とある。また『集注』に「天地の化は、往く者は過ぎ、来たる者は続き、一息の停まること無し。乃ち道体の本然なり。然れども其の指して見易かる可き者は、川の流れにくは莫し。故に此に於いて発して、以て人に示す。学者時時に省察して、毫髪の間断無からんことを欲するなり」(天地之化、往者過、來者續、無一息之停。乃道體之本然也。然其可指而易見者、莫如川流。故於此發、以示人。欲學者時時省察、而無毫髮之間斷也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『集注』に引く程頤(?)の注に「此れ道体なり。天めぐりて已まず。日往けば則ち月来て、寒往けば則ち暑来たる。水流れて息まず、物生じて窮まらず。皆道と体を為す。昼夜に運りて、未だ嘗て已まず。ここを以て君子之にのっとりて、自ら強めて息まず。其の至りに及ぶや、純にして亦た已まず」(此道體也。天運而不已。日往則月來、寒往則暑來。水流而不息、物生而不窮。皆與道爲體。運乎晝夜、未嘗已也。是以君子法之、自強不息。及其至也、純亦不已焉)とある。
  • 『集注』に引く程顥の注に「漢より以来、儒者皆此の義を識らず。此れ聖人の心、純にして亦た已まざるを見るなり。純にして亦た已まざるは、乃ち天の徳なり。天の徳有りて、便ち王道を語る可し。其の要は只だ独りを謹むに在るのみ」(自漢以來、儒者皆不識此義。此見聖人之心、純亦不已也。純亦不已、乃天德也。有天德、便可語王道。其要只在謹獨)とある。
  • 『集注』に「愚按ずるに、此れより終篇に至るまで、皆人に学を進めて已まざることを勉めしむるの辞なり」(愚按、自此至終篇、皆勉人進學不已之辭)とある。
  • 安井息軒『論語集説』に「春秋の末、天下大いに乱れ、人其の生にやすんぜず。孔子、明君をたすけて以て之をすくわんと欲す、而も世の主、用うる能わず、歳月流るるが如く、孔子も亦た已に老いぬ。偶〻たまたま川流の一たび去って反らざるを見る。是に於いてかぜんとして以て欺じて、此の言を発せるなり」(春秋之末、天下大亂、人不聊其生。孔子欲輔明君以拯之、而世主不能用、歳月如流、孔子亦已老矣。偶見川流之一去不反。於是乎喟然以欺、而發此言也)とある。『論語集説』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「論に曰く、孟子夫子の水を称するの意を解して曰えり、源泉混混として昼夜をめず。あなちて後に進み、四海にいたる。本有る者はくの如し。所謂本とは何ぞ、仁義礼智其の身に有して、終身之を用いてきず。猶お川流の昼夜をめず、日に新たにして窮まり無きがごとし」(論曰、孟子解夫子稱水之意曰、源泉混混不舍晝夜。盈科而後進、放乎四海。有本者如是。所謂本者何、仁義禮智有於其身、而終身用之不竭。猶川流之不舍晝夜、日新而無竆)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「蓋し孔子は年歳の返す可からざるを嘆じ、以て人の時に及んで力を用いんことを勉む。……且つ其の意におもえらく年歳の返す可からざるを嘆ずる者は、常人の情なり。……ああ、聖人も亦た人のみ。豈に人に遠からんや。……宋儒の学は、理気のみ。理を貴びて気を賤しむ。気は生滅有りて理は生滅無し。是れ其の道体の説は、豈に仏・老の遺ならずや。……仁斎に至って孟子を引きて以て宋儒に勝たんことを求む、亦た豈に逝の字を識らんや」(蓋孔子嘆年歳之不可返、以勉人及時用力。……且其意謂嘆年歳之不可返者、常人之情也。……吁、聖人亦人耳。豈遠人乎。……宋儒之學、理氣耳。貴理而賤氣。氣有生滅而理無生滅。是其道體之説、豈不佛老之遺乎。……至於仁齋引孟子以求勝宋儒、亦豈識逝字乎)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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