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泰伯第八 1 子曰泰伯章

185(08-01)
子曰、泰伯其可謂至德也已矣。三以天下讓、民無得而稱焉。
いわく、泰伯たいはくとくきのみ。たびてんもっゆずり、たみしょうするし。
現代語訳
  • 先生 ――「泰伯さまは、この上もない徳の人だったことになる。とうとう国をゆずりながら、国の人がほめるきっかけもないんだ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「泰伯の徳は至徳と称すべきかな。義によって固く天下を譲ったが、それがまた世人の口のはにものぼらぬほど暗々あんあんに行われたのは、えらいものじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    泰伯たいはくこそは至徳の人というべきであろう。固辞して位をつがず、三たび天下を譲ったが、人民にはそうした事実をさえ知らせなかった」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 泰伯 … 周の太王(こうたん)の長子。太伯とも。太王には泰伯・仲雍(ちゅう)・れきの三人の子があった。季歴の子が後の文王である。太王は文王に君主の位を嗣がせたいと考えていた。泰伯は太王の意向を察し、仲雍を誘って南方へ身を隠した。ウィキペディア【太伯・虞仲】参照。
  • 至徳 … 最上の徳をそなえた人。
  • 也已矣 … 「のみ」と読み、「~なのだ」と訳す。強い断定をあらわす助辞。「也已」よりも強い。
  • 三譲 … 強く固辞すること。「三回固辞する」という解釈もある。
  • 天下 … 孔子の時代には周が天下を治めていたからの追称であるという説と、泰伯が天下を治めるほどの徳をもっていたのに、位を譲ったからこのような言い方をしているという説とがある。
  • 得而称 … 「得称(称することを得)」に同じ。
  • 称 … 称賛する。
補説
  • 泰伯第八 … 『集解』に「凡そ廿一章」(凢廿一章)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「泰伯とは、周の太王の長子、能く位を推し国を譲る者なり。次にすすむる所以の者は、物情孔子の栖遑せいこうを見、常におもえらく実に心慮に係る、と。今、泰伯賢人にして尚お能く国を譲るを明らかにす。孔子を証するに大聖を以て位すと雖も九五に非ず。豈にこうを以て真を累わさんや。故に泰伯は述而に次ぐなり」(泰伯者、周太王長子、能推位讓國者也。所以次前者、物情見孔子栖遑、常謂實係心慮。今明泰伯賢人尚能讓國。以證孔子大聖雖位非九五。豈以粃糠累眞。故泰伯次述而也)とある。栖遑は、あわただしいこと。粃糠は、かす米と、ぬか。つまらない残り物の喩え。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「此の篇は礼譲・仁孝の徳、賢人・君子の風、学を勧め身を立て、道を守り政を為すを論じ、正楽を歎美し、小人を鄙薄す。遂には堯・舜及び禹・文王・武王を称す。前篇を以て孔子の行いを論じ、此の篇の首末に賢聖の徳を載す。故に以て次と為すなり」(此篇論禮讓仁孝之德、賢人君子之風、勸學立身、守道爲政、歎美正樂、鄙薄小人。遂稱堯舜及禹、文王、武王。以前篇論孔子之行、此篇首末載賢聖之德。故以爲次也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「凡そ二十一章」(凡二十一章)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『注疏』に「此の章は泰伯の譲位の徳を論ずるなり」(此章論泰伯讓位之德也)とある。
  • 泰伯其可謂至徳也已矣 … 『集解』に引く王粛の注に「泰伯は、周の太王の太子なり。次弟は仲雍、少弟は季歴と曰う。季歴は賢にして、又た聖子文王昌を生む。昌必ず天下をたもたん。故に泰伯天下を以て三たび王季に譲る。其れ譲りて隠る。故に得て之を称言する者無きは、至徳と為す所以なり」(泰伯、周太王之太子也。次弟仲雍、少弟曰季歴。季歴賢、又生聖子文王昌。昌必有天下。故泰伯以天下三讓於王季。其讓隱。故家無得而稱言之者、所以爲至德也)とある。また『義疏』に「泰伯とは周の太王の長子なり。太王とは即ち古公亶甫、三子有り。大なる者は太伯、次なる者は仲雍、少なる者は季歴なり。三子並びに賢にして、太伯は譲徳深遠なる有り。聖と雖も加うる能わず。故に云う、其れ至徳と謂う可きのみ、と。其の至徳の事は下に在り。范寧曰く、太は、善大の称なり。伯は、長なり。周の太王の元子、故に太伯と号す。其の徳弘遠なり。故に至徳と曰うなり、と」(泰伯者周太王之長子也。太王者即古公亶甫、有三子。大者太伯、次者仲雍、少者季歴。三子竝賢、而太伯有讓德深遠。雖聖不能加。故云、其可謂至德也已矣。其至德之事在下。范寧曰、太善大之稱也。伯長也。伯周太王之元子、故號太伯。其德弘遠。故曰至德也)とある。また『注疏』に「泰伯は、周の太王の長子なり。次弟は仲雍、少弟は季歴なり」(泰伯、周太王之長子。次弟仲雍、少弟季歴)とある。また『集注』に「泰伯は、周の大王の長子。至徳は、徳の至極にして、以て復た加うる無き者を謂うなり」(泰伯、周大王之長子。至德、謂德之至極、無以復加者也)とある。
  • 三以天下譲 … 『義疏』に「此れ至徳の事なり。其の天下の位を譲るに三迹有り。故に云う、三たび天下を以て譲るなり、と。所以に譲る者有り、少弟季歴、子の文王昌を生む。昌は聖人の徳有り。太伯は昌必ず天位有るを知る。但だ天位に升る者、必ず須らく階漸あるべし。若し庶人よりして起たば、則ち易からずと為さん。太王は是れ諸侯、己は是れ太王の長子、長子の後は応に国を伝うべし。今、昌をして王位を取らしめんと欲するに漸有り。故に国を譲りて去り、季歴をして之を伝えしむるなり。其れ三迹有る者なり。范寧曰く、二釈有り、一に云く、泰伯の少弟は季暦なり、子文王昌を生む、子に聖徳有り、泰伯其の必ず天下をたもたんことを知る、故に国を季暦に伝えて、以て文王に及ばしめんと欲す。太王の病に因りて、薬を呉越に採るに託して、反らず。太王薨じて季暦立つ、一の譲なり。季暦薨じて文王立つ、二の譲なり。文王薨じて武王立つ、此に於いて遂に天下を有つ、是れ三の譲と為すなり。又た一に云く、太王病みて薬を採るに託して出づ、生けるときに之に事うるに礼を以てせず、一の譲なり。太王薨じて反らず、季暦をして喪に主たらしむ、死するに之を葬るに礼を以てせず、二の譲なり。髪を断ち身をもとらして用う可からざることを示す、季暦をして祭祀に主たらしめて、之を祭るに礼を以てせず、三の譲なり、と。繆協曰く、泰伯三たび譲るの為す所は、季暦・文・武の三人にして王道成る、是れ三たび以て天下を譲るなり、と」(此至德之事也。其讓天下之位有三迹。故云、三以天下讓也。所以有讓者、少弟季歴、生子文王昌。昌有聖人德。太伯知昌必有天位。但升天位者、必須階漸。若從庶人而起、則爲不易。太王是諸侯、己是太王長子、長子後應傳國。今欲令昌取王位有漸。故讓國而去、令季歴傳之也。其有三迹者。范寧曰、有二釋、一云、泰伯少弟季暦、生子文王昌、子有聖德、泰伯知其必有天下、故欲令傳國於季暦、以及文王。因太王病、託採藥於呉越、不反。太王薨而季暦立、一讓也。季暦薨而文王立、二讓也。文王薨而武王立、於此遂有天下、是爲三讓也。又一云、太王病而託採藥出、生不事之以禮、一讓也。太王薨而不反、使季暦主喪、死不葬之以禮、二讓也。斷髮文身示不可用、使季暦主祭祀、不祭之以禮、三讓也。繆協曰、泰伯三讓之所爲者、季暦、文、武三人而王道成、是三以讓天下也)とある。また『注疏』に「季歴は賢にして、又た聖子の文王昌を生む。昌は必ずや天下をたもつべしとし、故に泰伯は三たび天下を以て王季に譲る」(季歴賢、又生聖子文王昌。昌必有天下、故泰伯三以天下讓於王季)とある。また『集注』に「三たび譲るは、固くゆずるを謂うなり」(三讓、謂固遜也)とある。
  • 民無得而称焉 … 『義疏』に「徳譲の迹既に隠る。当時に人民覚らず。故に能く其の譲徳を称する者無きなり。故に范寧曰く、詭道合権、隠れて彰らかならず。故に民得て称する無きは、乃ち大徳なり、と。繆協曰く、其の譲の迹詭にして、当時能く知るもの莫し。故に以て称する無し。至徳と謂う可し、と。或ひと問いて曰く、太伯若し天下を有つに堪うれば、則ち応に人に譲るべからず、若し人天下を有たば、則ち太伯復た天下の譲る可き無し。今云く、三たび天下を以て譲ると、其の事如何、と。或る通に云く、太伯実には応に諸侯を伝うべし、今譲るは、諸侯の位のみ。而るに天下を譲ると云うことは、是れ天下の為にして譲る、今之にいて階有り、故に天下と云うなり。然るに仲雍も亦た太伯に随いて隠る、仲雍を称せざることは、国位は太伯に在り、太伯譲る、是れ仁軌を導くなり、仲雍是に随いて、其のあとを揚ぐるなり、と」(德讓迹既隱。當時人民不覺。故無能稱其讓德者也。故范寧曰、詭道合權、隱而不彰。故民無得而稱、乃大德也。繆協曰、其讓之迹詭、當時莫能知。故無以稱焉。可謂至德也。或問曰、太伯若堪有天下、則不應讓人、若人有天下、則太伯復無天下可讓。今云、三以天下讓、其事如何。或通云、太伯實應傳諸侯、今讓者、諸侯位耳。而云讓天下者、是爲天下而讓、今即之有階、故云天下也。然仲雍亦隨太伯而隱、不稱仲雍者、國位在太伯、太伯讓、是導仁軌也、仲雍隨是、揚其波也)とある。また『注疏』に「其の譲ることは隠す、故に民は得て之を称言する者無し。故に至徳と為して、孔子之を美とする所以なり」(其讓隱、故民無得而稱言之者。故所以爲至德、而孔子美之也)とある。また『集注』に「得て称すること無しは、其のゆずること隠微にして、迹の見る可き無きなり」(無得而稱、其遜隱微、無迹可見也)とある。
  • 得 … 『経典釈文』には「と亦た徳に作る」(本亦作德)とある。ウィキソース「經典釋文 (四庫全書本)/卷24」参照。
  • 『集注』に「蓋し大王の三子、長は泰伯、次は仲雍、次は季歴なり。大王の時、商道ようやく衰えて、周は日〻に彊大なり。季歴又た子の昌を生む。聖徳有り。大王因りて商をつの志有りて、泰伯従わず。大王遂に位を季歴に伝えて、以て昌に及ばんと欲す。泰伯之を知り、即ち仲雍と逃れ荊蛮にく。是に於いて大王乃ち季歴を立つ。国を伝え昌に至りて、天下を三分し、其の二をたもつ。是れ文王たり。文王崩じ、子の発立つ。遂に商に克ちて天下を有つ。是れ武王たり。夫れ泰伯の徳を以て、商周の際に当たれば、固より以て諸侯を朝せしめ天下を有つに足れり。乃ち棄てて取らずして、又た其の迹をほろぼせば、則ち其の徳の至極何如と為さんや。蓋し其の心は即ち夷斉の馬をひかうるの心にして、事の処し難きこと、これより甚だしき者有り。むべなり、夫子の歎息して之を賛美すること。泰伯従わず、事は春秋伝に見ゆ」(蓋大王三子、長泰伯、次仲雍、次季歴。大王之時、商道寖衰、而周日彊大。季歴又生子昌。有聖德。大王因有翦商之志、而泰伯不從。大王遂欲傳位季歴以及昌。泰伯知之、即與仲雍逃之荊蠻。於是大王乃立季歴。傳國至昌、而三分天下、有其二。是爲文王。文王崩、子發立。遂克商而有天下。是爲武王。夫以泰伯之德、當商周之際、固足以朝諸侯有天下矣。乃棄不取、而又泯其迹焉、則其德之至極爲何如哉。蓋其心即夷齊扣馬之心、而事之難處、有甚焉者。宜夫子之歎息而贊美之也。泰伯不從、事見春秋傳)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「夫れ商周の事、証を聖経に取るにくは莫し、故に今特に詩の大雅こうの篇に拠って断を為す。其の帝邦を作し対を作すこと、泰伯・王季よりすの言を観れば、則ち知る周は泰伯・王季に至って、始めて強大なることを。……聖賢の心は、皆天下の為にして、己の為にせざるなり。泰伯の季歴に譲るは、蓋し斯の民の為に計るなり。而して其の後、文武の道、大いに天下に被る。民陰に其の賜を受けて、実は泰伯の徳たることを知らず。此れ夫子の其の至徳を歎ずる所以なり」(夫商周之事、莫如取證於聖經、故今特據詩大雅皇矣篇爲斷。觀其言帝作邦作對、自泰伯王季、則知周至泰伯王季、而始強大矣。……聖賢之心、皆爲天下、而不爲己也。泰伯之讓季歴、蓋爲斯民計也。而其後文武之道、大被於天下。民陰受其賜、而不知實爲泰伯之德。此夫子所以歎其至德也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「朱註に三譲は固くゆずるを謂うとは、非なり。三たび譲るを謂って固遜と為すを聞けり、固遜を謂って三譲と為すを聞かず。……天下を以て譲るとは、其の譲りしは天下の為の故なるを言うなり。……民得て称すること無きは、固より泰伯の其の譲を成す所以なり。……孔子之を言う者は、人多く三譲の事を知らず、故に之を発するのみ。……乃ち謂えらく孔子既に至徳と称すれば、則ち其の徳は当にくの如くなるべしと。殊に知らず孔子はだ譲と恭とを以て之を言うことを。……仁斎先生は詩のていくにし対を作すこと、大伯・王季よりするに拠り、而うして泰伯の逃るるは大王の時に在らずして、王季の時に在りと謂う。其の言は甚だ弁ぜり。然れどもことごとく古書を廃し、己が心を以て古えの事を説くは、もうに非ずして何ぞ」(朱註三讓謂固遜、非也。聞謂三讓爲固遜矣、不聞謂固遜爲三讓矣。……以天下讓者、言其讓爲天下故也。……民無得而稱焉、固泰伯之所以成其讓。……孔子言之者、人多不知三讓之事、故發之耳。……乃謂孔子既稱至德、則其德當如是矣。殊不知孔子止以讓與恭言之。……仁齋先生據詩帝作邦作對、自大伯王季、而謂泰伯之逃不在大王之時、而在王季之時。其言甚辨。然盡廢古書、以己心説古之事、非妄而何)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十