八佾第三 20 子曰關雎樂而不淫章
060(03-20)
子曰、關雎樂而不淫、哀而不傷。
子曰、關雎樂而不淫、哀而不傷。
子曰く、関雎は楽しみて淫せず、哀しみて傷らず。
現代語訳
- 先生 ――「『ミサゴの歌』は、喜びにもおぼれず、悲しみにも負けていない。」(魚返善雄『論語新訳』)
- 孔子様がおっしゃるよう、「関雎の詩は、楽しみの度が過ぎて正しき道をはずれず、悲しみの度が過ぎて本心を取り失わぬもので、誠にけっこうじゃ。」(穂積重遠『新訳論語』)
- 先師がいわれた。――
「関雎の詩は歓楽を歌っているが、歓楽におぼれてはいない。悲哀を歌っているが、悲哀にやぶれてはいない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
補説
- 『注疏』に「此の章は正楽の和するを言うなり」(此章言正樂之和也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 関雎楽而不淫、哀而不傷 … 『集解』に引く孔安国の注に「楽しめども淫するに至らず、哀しめども傷るに至らず。其の和なるを言うなり」(樂而不至淫、哀而不至傷。言其和也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「関雎とは、即ち毛詩の初篇なり。時人は関雎の義を知らず、而して横生非毀、或ひと其の婬を言い、或ひと其の傷るを言う。故に孔子は之を解するなり。関雎は淑女を得て以て君子に配するを楽しむ。是れ共に政風の美を為すのみ、婬を為すに非ざるなり。故に楽しめども婬せずと云うなり。故に江熙云う、楽しみは淑女を得るに在れども、色を為すことを疑う。楽しむ所とは徳なり、故に楽しみ有れども婬無きなり、と。又た李充曰く、関雎の興、淑女を得て以て君子に配するを楽しむ。憂いは賢を進むるに在れども、其の色を淫せず。是れ楽しめども淫せざるなり。関雎の詩は、自ら是れ窈窕を哀しみ思い、賢才を思うが故のみ、而も善を傷るの心無し。故に哀しめども傷らずと云うなり。故に李充曰く、窈窕を哀しみ、賢才を思えども、而も善を傷るの心無しとは、是れ哀しめども傷らざるなり、と」(關雎者、即毛詩之初篇也。時人不知關雎之義、而横生非毀、或言其婬、或言其傷。故孔子解之也。關雎樂得淑女以配君子。是共爲政風之美耳、非爲婬也。故云樂而不婬也。故江熙云、樂在得淑女、疑於爲色。所樂者德、故有樂而無婬也。又李充曰、關雎之興、樂得淑女以配君子。憂在進賢、不淫其色、是樂而不淫也。關雎之詩、自是哀思窈窕、思賢才故耳、而無傷善之心。故云哀而不傷也。故李充曰、哀窈窕、思賢才、而無傷善之心、是哀而不傷也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「関雎とは、詩・国風・周南の首篇の名、后妃の徳を興するなり。詩序に、淑女を得て、以て君子に配するを楽しむ。憂いは賢を進むるに在りて、其の色に淫せずと云うは、是れ楽しめども淫せざるなり。窈窕を哀しみ、賢才を思えども、而も善を傷うの心無しとは、是れ哀しめども傷わざるなり。楽しめども淫するに至らず、哀しめども傷うに至らざるは、其の正楽の和するを言うなり」(關雎者、詩國風周南首篇名、興后妃之德也。詩序云、樂得淑女、以配君子。憂在進賢、不淫其色、是樂而不淫也。哀窈窕、思賢才、而無傷善之心焉、是哀而不傷也。樂不至淫、哀不至傷、言其正樂之和也)とある。また『集注』に「関雎は、周南国風の詩の首篇なり。淫とは、楽しみの過ぎて其の正を失う者なり。傷るとは、哀しみの過ぎて和を害う者なり。関雎の詩、言うこころは后妃の徳、宜しく君子に配すべし。之を求めて未だ得ざれば、則ち寤寐反側の憂い無きこと能わず。求めて之を得れば、則ち宜しく其の琴瑟鐘鼓の楽しみ有るべし。蓋し其の憂い深しと雖も、和を害わず、其の楽しみ盛んなりと雖も、其の正を失わず。故に夫子之を称すること此くの如し。学者其の辞を玩び、其の音を審らかにして、以て其の性情の正を識ること有るを欲するなり」(關雎、周南國風詩之首篇也。淫者、樂之過而失其正者也。傷者、哀之過而害於和者也。關雎之詩、言后妃之德、宜配君子。求之未得、則不能無寤寐反側之憂。求而得之、則宜其有琴瑟鐘鼓之樂。蓋其憂雖深、而不害於和、其樂雖盛、而不失其正。故夫子稱之如此。欲學者玩其辭、審其音、而有以識其性情之正也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 淫 … 『義疏』では「婬」に作る。同義。
- 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ専ら関雎声音の盛んなるを美めて言う。当に師摯の始め、関雎の乱りの章と参看すべし。夫れ声音の玅は、以て鬼神を感動せしむ可し。而るを況んや人に於いてをや。関雎の楽は、能く中和の徳に合いて、性情の正に帰す。夫子の之を取る所以なり。蓋し楽とは人情の宜しく有るべき所にして、哀も亦た人情の免れざる所なり。苟くも人情の宜しく有るべき所を去らんと欲せば、則ち物を絶つに至る。人情の免れざる所を滅せんと欲せば、則ち性に怫るに至る」(此專美關雎聲音之盛而言。當與師摯之始、關雎之亂章參看。夫聲音之玅、可以感動鬼神。而況於人乎。關雎之樂、能合於中和之德、而歸于性情之正。夫子之所以取之也。蓋樂者人情之所宜有、而哀亦人情之所不免。苟欲去人情之所宜有、則至於絶物。欲滅人情之所不免、則至於怫性)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
- 荻生徂徠『論語徴』に「関雎は、楽しんで淫せず、哀しんで傷らずとは、其の声を語るなり。朱註に、……蓋し其の憂い深しと雖も、而も和を害わず。……学者其の辞を玩び、其の音を審らかにして、而して以て其の性情の正を識ること有らんことを欲するなり、と。是れ辞義を主として之を言う。非なり。……哀の字に至っては、則ち孤と哀子の称、及び哀哀たる父母の如き、皆死・喪の者に施せり。関雎の詩に於いて、実に其の事無し。故に朱子は易うるに憂の字を以てす。其の謬りを見る可きのみ。……孔安国曰く、楽しみて淫するに至らず、哀しみて傷るに至らず、其の和を言うなり、と。蓋し其の中和の声を得たるを言うなり。古註の易う可からざること此くの如し」(關雎、樂而不淫、哀而不傷、語其聲也。朱註、……蓋其憂雖深、而不害於和。……欲學者玩其辭、審其音、而有以識其性情之正也。是主辭義言之。非矣。……至於哀字、則如孤哀子之稱、及哀哀父母、皆施於死喪者。於關雎之詩、實無其事。故朱子易以憂字。可見其謬已。……孔安國曰、樂不至淫、哀不至傷、言其和也。蓋言其得中和之聲也。古註之不可易如此)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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